第17話 疑惑
僕は、疲労で力の入らない足を無理やり引きずるようにして、家にたどり着いた。
「ただいまー」
返事がない。もう夜の12時だ。さすがに愛美も寝ているのだろう。
靴を脱ぎ、玄関から右手にある階段を登り、愛美の寝室に向かう。
僕と愛美は寝室を分けている。僕としては一緒に寝たいところだけれども、僕のいびきがうるさすぎて耐えられないらしい...。
愛美を起こさないようにゆっくりと寝室の扉を開く。が、愛美の姿が見当たらない。
「あれ、愛美...?」
愛美はゲームが大好きで、昔は深夜までゲームをすることが多々あった。が、妊娠してからの愛美は生活リズムを見直し、早寝早起きを徹底している。
(この時間に寝ていないなんて、珍しいな...)
その瞬間、急に心臓が大きく突き上げるような鼓動をした。
“悪霊は、みな全て総じて『悪』そのものだ。やつらに決して同情するな”
蓮さんの言葉が頭の中で反芻される。
急いで階段を駆け下り、風呂場、トイレ、リビングを調べる。しかし、どこにも愛美の姿がない。もこ太の姿も、見当たらない。
(まさか、もこ太が...愛美に何かした...?)
もこ太が、もこ太がそんなことする訳がない。
もこ太は僕を助けてくれたし、事件の捜査にも協力してくれた。もこ太が、もこ太が愛美に何か危害を加えるなんて、そんなこと...
“君のその優しさは...いつか君の命を危うくしてしまう。だから...気をつけなさい”
蓮さんの言葉が、頭にこびりついてこびりついて、必死に取り除こうとしても離れない。
もこ太を家に置くと決めたのは僕だ。僕の選択のせいで、自分の命が危険にされたとしても、僕は後悔しない。
でも、僕の選択のせいで、自分ではなく、愛美の命が危険に晒されていたのだとしたら?
「愛美!!どこだ!!」
不安で破裂しそうな気持ちを抱えながら、リビングで愛美の名前を大声で叫ぶ。返事はない。何も物音のしない部屋が気持ち悪くて仕方ない。
愛美の「おかえり」の声も、料理をする音やテレビの音、忙しそうにバタバタとする足音や、寂しい時に急いで玄関まで駆け寄る足音も、今は何も、聞こえない。
音が薄れた静かな空間で、僕の心臓の鼓動だけが激しく不安げに鳴り響いている。
「愛美!!愛美、どこにいるんだ!!!」
廊下に出ようと、リビングの扉を開けたその時...
「うるせぇーーーー!!!!!!!!!!」
扉を開けると、勢いよく何かが顔面に飛び込んでぶつかってきた。
「うげぇあ!!」
驚きのあまり人生で発した事のない声が出てしまった。何か、柔らかくてふわふわした感触の物がぶつかってきたようだ。
「も、もこ太...!!」
目の前には鬼のような形相をしたもこ太が、翼を羽ばたかせながら飛んでいる。
「おーまーえーさ!!こんな遅くにでけぇ声で騒ぐんじゃーなよ!近所迷惑だろう!義務教育で習わなかったのか!」
突然もこ太に顔面を突撃された上に、何故か義務教育の話まで出てきて僕は何がなんだか分からなかった。
「だ、だって。愛美がいないから...」
「何言ってんだよ。上にいるだろ?」
「2階の愛美の寝室なら確認したけど、いなかったよ?」
「そこじゃない、お前の寝室だよ」
もこ太の言うことを確認するため、僕たちは階段を上がり、僕の寝室に入る。部屋の電気はすでに消灯されており、暗闇の中で目を凝らすと、愛美が僕の布団の上で横たわっている。
不安に煽られている僕は急いでそばに駆け寄り、呼吸を確認した。
(呼吸もしているし、怪我もしていない...よかった)
愛美はただ、僕のベッドの上で静かにすやすやと眠っているようだ。枕は使わず、横向きになって縮こまるように体を丸めて寝ている。
「...お前の帰りが遅いから、奥さん心配してたぞ。お前から連絡が来るのを待ってずーーっとスマホ握りしめてたし...お前がいつ帰ってきてもいいように、お前のベッドを掃除してくれてたよ。掃除中に寝落ちしてしまったようだが」
どうして愛美は自分の寝室を使わずに僕の寝室で寝ているのだろう。そう思っていたが、僕の部屋の掃除をしてくれている間に、心配と不安で疲れて寝落ちしてしまったのかもしれない。
「お・ま・え・な!」
もこたは自身の羽で、僕の額を何度も小突く。
「遅れるんなら連絡くらいしてやれよ!事務所にも連絡してたみたいだけど、誰も出ないって言ってたし」
榎本君が帰った後に電話したのだろうか。僕が遅れると連絡しなかったせいで、愛美をひどく不安にさせてしまったのかもしれない...。
「ほら、その、奥さん妊娠もしてるし、色々大変だろう。あんま心配かけんなよ!
...奥さんはこっちの姿が見えないから。その...私から話しかけることもできないし。こっちは見てることしかできないしさぁ...」
「...見てることしかできないって言うけど、愛美に綺麗に布団がかかっているし、電気が消えているのも、もこ太がやってくれたからじゃないの?」
「あ!?」
もこ太は睨むように僕を見てきたが、その後すぐに恥ずかしそうに視線をずらし、後ろを向く。
「別に...誰でもいいだろ、そんなの」
片方の羽で自分の頭をぽりぽりとかいている。
もこ太は口は悪いけど、決して冷たい性格ではない。もこ太といる時間はまだ短いが、その中でも彼の優しさを感じる場面はたくさんあった。
「と・に・か・く!これからは、帰りが遅れる時はちゃんと連絡しろよ」
もこ太は再び僕の額を羽で小突きながら説教すると、満足したのかそばにあった机の上に着地しリラックスしている。
「あー、なんか変に気ぃ使ったわ。ほら、お前、肩揉め、私に感謝しろ」
全身がふわふわとしているもこ太の一体どこが肩なのだろうか。
「...どこが肩か分からないんですけど」
「はぁー?そんなの、こことここに決まって...どうした?」
(あぁ...だめだ、泣いちゃいそうだ...)
今にも目からこぼれ落ちそうな雫を、歯を食いしばり顔の表情にぐっと力を入れて堪えた。
僕は、もこ太を疑ってしまった。
ただ『悪霊だから』と、何か悪さをしたのかもしれないと、謂れのない疑いをかけてしまった。
(もこ太が僕にやってきてくれた今までの行動を、なんで信じてあげなかったんだろう)
自分の不甲斐なさに悲しい表情を見せてしまったが、振り払うように笑顔を作り、明るく振る舞う。
「すいませんでしたもこ太さん!感謝してます!肩、揉ませていただきます!!」
「...おうおう、よろしい!!さっさと揉め!」
蓮さんの言うことは、いつも正しい。悪霊は、同情する余地もない、悪いやつばかりなのかもしれない。
でも、僕は、蓮さんの言葉だけではなく、自分がこの目で見たことも信じたい。
悪霊に襲われそうになった時、命を助けてくれた。
悪霊を捕まえるために、捜査に協力してれた。
僕の甘い判断で、悪霊を取り逃がした時、僕のために叱ってくれた。
僕の帰りが遅くなり、心配して寝落ちしてしまった妻に布団をかけてくれた。
...なんだかんだ面倒見が良いところは、蓮さんに少し似ている気さえする。『あなたに似ている悪霊がいるんです』なんて蓮さんに伝えたら、怒られるだろうから言えないけど。
「悪霊の肩を揉むのは初めてだけど、なんか、人間と違うなぁ」
「へぇー、何が違うんだよ」
「うーん、なんか固くないというか...揉み甲斐がないね!」
「...文句を言わずに手を動かせ!」
肩を揉んでいた僕の手が、もこ太の羽でビシッと叩かれる。
(自分で感想を聞いてきたくせに...)
と思いつつも、もこ太とたわいもない話をしている時間は、僕の心の緊張や不安をゆっくりと溶かしていった。




