第69話 天国から地獄へ
龍園蓮の離脱は、まるで、霊堂全体の、大黒柱を、引き抜いたかのようだった。
彼が去った途端、山羊髭の長老の、抑えきれない、得意げな笑い声が、響き渡った。
「見たか?!奴は、逃げたぞ!疚しいことがあるから、罪を恐れて、逃げたのだ!」
彼が、そう煽ると、霊堂全体が、完全に、蜂の巣をつついたような、騒ぎになった。
メディアの閃光が、狂ったように、あの、遺影の前に、孤立無援で立つ、顔面蒼白の少女に、向けられた。
「お嬢様!龍園氏が、お父上を殺害した件について、あなたは、以前から、ご存知でしたか?!」
「お嬢様!綾辻グループは、これにより、『龍園会』と、完全に、決裂するのでしょうか?!」
「失礼ですが、あなたと龍園氏の個人的な関係も、彼の陰謀の一部だったのですか?!」
一つ、また一つと、鋭利で、辛辣な質問が、まるで、毒を塗った匕首のように、容赦なく、澪に、突き刺さった。
彼女は、そこに立ち尽くし、よろめき、まるで、次の瞬間には、この、突如として巻き起こった、巨大な嵐に、完全に、引き裂かれてしまうかのようだった。
誰もが羨む、名家への輿入れを控えた、「天の寵児」から、誰もが同情する、仇敵の掌中で、弄ばれる、「哀れな虫けら」へ。
つい先ほどまで、愛の甘さを味わい、生涯の伴侶を見つけたと、信じていた、幸福な女から、再び、最も信頼していた人間に、裏切られ、自らの手で、愛する人を、深淵へと、突き落とした、孤独な女へ。
この、天国から、瞬く間に、地獄へと墜ちる、巨大な落差は、誰をも、狂わせるに、十分だった。
しかし、まさに、誰もが、彼女が、崩壊し、泣き叫び、ヒステリックになると、思った、その時。
澪は、ゆっくりと、顔を、上げた。
彼女の瞳には、涙も、苦しみも、一片の、脆さも、なかった。
ただ、一面の……心臓を鷲掴みにするような、まるで、全ての感情を、燃やし尽くした後、ただ、灰燼だけが残ったかのような、絶対的な、氷のような、冷たさだけが、あった。
彼女は、そばにあったマイクを、手に取り、スイッチを入れた。
「ジー」という、かすかな電流音が、瞬時に、全ての、雑音を、圧した。
全ての人々の視線が、彼女の、身の上に、集まった。
「第一に」と、彼女の声は、とても軽かったが、どこか、反論の余地のない、貫通力があった。「父の死因は、法医学鑑定によれば、突発性心筋梗塞です。いかなる『殺人』に関する言論も、警察の、確証を得るまでは、全て……名誉毀損に、あたります。」
彼女は、「名誉毀損」という四文字を、極めて、重く、発した。
その視線は、刃物のように、顔色がわずかに変わった山羊髭の長老を、射抜いた。
「第二に」と、彼女は続けた。その声には、一切の、波も、なかった。「龍園蓮氏は、本日をもって、綾辻グループの、いかなる職務も、解任されます。彼と、綾辻との関係は、単なる、既に終了した、ビジネス上の協力関係に過ぎません。彼の、個人的ないかなる行為も、私、及び、綾辻グループとは、一切、無関係です。」
彼女は、最も、公式で、最も、冷酷な言葉で、自分自身と、あの、つい先ほど、去っていった男との関係を、きっぱりと、断ち切った。
まるで、彼らの間には、本当に、ただの、金銭の、やり取りしかなかったかのようだった。
「第三に、そして、最も、重要なこと。」
彼女の視線が、ゆっくりと、その場にいた、一人一人の弔問客、一つ一つのメディアを、なぞった。
その視線には、彼女の年齢とは、全く不釣り合いな、人を、震え上がらせる、威圧感が、あった。
「本日をもって、私、綾辻澪は、綾辻グループ、会長職に、正式に、就任いたします。」
「綾辻の天は、崩れません。」
「私、綾辻澪が、この地に、一日でも、立っている限り、それは、永遠に、崩れることは、ありません。」
そう言うと、彼女はマイクを置き、もはや、下の、あの、息を呑む音には、一切、関心を払わなかった。
彼女は、踵を返し、父の遺影に、向かって、深く、三度、頭を下げた。
まるで、別れを告げるかのようで、また、誓いを、立てるかのようでもあった。
そして、彼女は、背筋を伸ばし、大勢のボディーガードに護られながら、あの、相変わらず、狂ったように点滅するマグネシウムの閃光を、突き抜け、頭も振り返らず、霊堂を、出ていった。
(然后,她挺直了背脊,在一众保镖的护卫下,穿过那片依旧在疯狂闪烁的镁光灯,头也不回地,走出了灵堂。)
終始、彼女は、もはや、一滴の涙も、流さなかった。
ただ、彼女が、あの、かつて、蓮が、何度も、彼女のためにドアを開けてくれた、ロールスロイスに、乗り込んだ時。
分厚いドアが、外の全ての喧騒と窺探を、完全に、隔絶した時。
彼女は、ようやく、ゆっくりと、ゆっくりと、手を、上げた。
あの、かつて、蓮に、固く、握られた、あのピンキーリングを着けた、左手を。
彼女は、自分の薬指にある、あの、小さな、氷のように冷たい金属の輪を、見つめた。
長い時間が、流れた。彼女は、ようやく、もう一方の、震える手で、あの指輪を、少しずつ、外した。
彼女は、それを、捨てなかった。しまい込むこともしなかった。
彼女は、ただ、一本の、黒い紐で、それを、通した。
そして、自分の首にかけ、肌身離さず、あの黒い喪服の中に、隠した。
指輪が、氷のように冷たく、彼女の胸の皮膚に、触れた。
まるで、一つの、永遠に、癒えることのない、傷跡のように。
また、一つの、絶えず、彼女に、自分が、どれほど愚かで、どれほど哀れであったかを、思い出させる……烙印のように。
これより後。
世に、もはや、綾辻澪は、いない。
ただ、綾辻グループの……綾辻会長だけが、いる。
一人の、愛も、憎しみも、そして、心も、ない……女王だけが。




