第68話 信頼の崩壊
山羊髭の長老の、あの、白を黒と言いくるめる非難と、王医師の、あの、「涙ながら」の誣告は、まるで、二本の最も鋭利なハンマーのように、容赦なく、綾辻澪と龍園蓮の間にあった、あの、元々、亀裂だらけだった信頼の上に、打ちつけられた。
霊堂全体が、完全に、蜂の巣をつついたような、騒ぎになった。
弔問客たちの議論の声、メディアの閃光、長老会の、あの得意げな冷笑が、まるで、目に見えない、巨大な網のように、蓮と、彼のそばに立つ澪を、固く、固く、中央に、閉じ込めた。
「そうか、彼こそが黒幕だったのか!」
「人を知るも、顔を知るも、心を知らず、だな。私は、てっきり、彼を、ビジネスの奇才だとばかり……」
「哀れなのは、綾辻家のお嬢様だ。狼を、室に引き入れ、父君まで、亡くしてしまうとは……」
あの、ひそひそ話が、一本、また一本と、毒を塗った針のように、澪の耳に、そして、彼女の心に、突き刺さった。
彼女の頭脳は、真っ白になった。
理性は、彼女に、これは、絶対に、罠だと、告げていた。
蓮は、これほどまでに、明らかな証拠を、残すような、愚か者では、ない。
王医師も、とっくに、処理されたはずだ。
この全てが、違和感に、満ちていた。
しかし……
感情的には、父が、死の間際に残した、あの「我々綾辻家と、奴ら龍園家との間には、血の海の、恨みがある」という遺言が、また、魔の呪文のように、彼女の脳裏に、繰り返し、響いていた。
それに、あの、彼女が、自らの目で見た、蓮の名前がサインされた、「敵対的買収」の書類……
疑いの種は、一旦、蒔かれると、最も、脆い時に、狂ったように、根を張り、芽を出すのだ。
彼女は、無意識に、半歩、後ずさった。
まさに、この、半歩。一つの、極めて微細な、ほとんど、誰にも気づかれない動作が、しかし、まるで、最も鋭利な刃のように、容赦なく、蓮の、全ての、偽りの平穏を、突き刺した。
彼の体が、激しく、こわばった。
彼は、全世界の、非難と誤解を、意に介さないことができた。
しかし、彼は、ただ、彼女の、この、半歩の距離だけは、気にした。
彼は、ゆっくりと、横を向き、彼女を、見た。
彼の瞳の中に、彼は、彼女の、あの、葛藤と、苦しみと、そして……疑いに、満ちた、瞳を、見た。
その瞬間、彼は、全てを、理解した。
彼女は、結局、まだ……彼を、信じていなかった。
蓮の心が、少しずつ、沈んでいった。
どんな時よりも、もっと、冷たく、もっと、暗い、深淵へと。
「どうした?龍園の若様?」山羊髭の長老は、蓮の、あの、瞬く間に蒼白になった顔色を見て、得意げに、笑った。「人証物証、全てが揃っている。お前……まだ、何か、言うことは、あるか?」
蓮は、彼を、無視した。
彼の視線は、終始、ただ、澪一人だけに、注がれていた。
その視線には、失望と、自嘲と、そして、さらに……死よりも深い、悲しみの、疲労が、あった。
「綾辻さん」と、彼は口を開いた。その声は、掠れて、まるで、砂紙で磨いたかのようだった。「あなたの心の中でも……私が、そうだと、思っているのですね?」
彼は、「私を信じてくれますか」とは、尋ねなかった。
彼は、「あなたもそう思っているのですね」と、尋ねた。
一字の違いだが、それは、天と地の差だった。
前者は、信頼を求めることであり、後者は……最後の、絶望的な、確認だった。
澪は、彼を、見ていた。
彼の、あの、もはや、何の温度もなく、ただ、一面の灰燼だけが残った、瞳を。
彼女は、首を横に振りたかった。「違う」と、彼に告げたかった。
しかし、父の、あの、死んでも死にきれない顔と、母の、あの、不明瞭な血の事件が、まるで、二つの大山のように、固く、彼女の心に、のしかかり、彼女に、一言も、発することを、許さなかった。
彼女の沈黙こそが、最高の、答えだった。
龍園蓮は、笑った。
その笑みは、泣くよりも、もっと、醜かった。
彼は、ゆっくりと、頷いた。
「分かりました。」
「理解しました。」
そう言うと、彼は、もはや、いかなる説明も、もがきも、しなかった。
彼は、ただ、自分の、あの、一切の皺もない、襟を、整えた。
そして、衆人の前で、宗一郎の遺影に、向かって、深く、三度、頭を下げた。
まるで、後輩が、最後の、別れを、告げるかのように。
この全てを終えると、彼は、踵を返し、一面の、敵意と、侮蔑に満ちた視線の中、一歩、また一歩と、霊堂の外へと、歩いていった。
彼の背中は、相変わらず、まっすぐだった。
しかし、どこか、全世界に、裏切られた、極致の、孤寂を、帯びていた。
まさに、彼が、大門を出ようとした、その瞬間。
彼は、突如として、足を止めた。
彼は、振り返らなかった。
ただ、一種の、軽くて、ほとんど、風に、吹き散らされそうな、声で、最後の、一言を、言った。
その言葉は、澪に、聞かせるためのものだった。
そして、彼自身に、聞かせるためのものでも、あった。
「……そうか、地獄の果ては……」
「……やはり、地獄だったのか。」
そう言うと、彼は、歩き出し、一切の、未練もなく、門の外の、あの、目に突き刺さるような、陽光の中へと、歩いていった。
まるで、ここの、全ての、暗闇と、裏切りを、完全に、背後に、投げ捨てるかのようだった。
そして、澪は、彼の、あの、決然とした、もはや、一片の未練もない背中を見つめ、その心臓が、まるで、目に見えない手で、容赦なく、握り潰されたかのようだった。
彼女は、知っていた。
今度こそ……
彼らとの間は、本当に……終わったのだと。
完全に、終わったのだと。




