第67話 「黒い水……」
綾辻宗一郎の葬儀は、東京で最も格式高い斎場で、執り行われた。
東京中の、名士たちが、ほとんど、参列した。
彼らの中には、心から、この財界の巨人を、弔うために来た者もいた。
そして、他の者たちは、見物のつもりで、あるいは、さらに……機会を窺う心づもりで、この名家の嵐の、最新の動向を、探るために、来ていた。
澪は、一着の、黒のオーダーメイドの喪服に身を包み、長い髪を結い上げ、その顔には、化粧もなく、その表情は、ほとんど、麻痺に近い、氷のように冷たい、平穏さだった。
彼女は、ただ、静かに、父の遺影の前に立ち、弔問客たちの、あるいは、真実、あるいは、偽りの、慰めの言葉を、受けていた。
父が亡くなった、その瞬間から、彼女は、もはや、一滴の涙も、流していなかった。
まるで、彼女の心にある、全ての柔らかい感情が、父の死と共に、一緒に……死んでしまったかのようだった。
今、生きているのは、ただ、一人の、二世代にわたる血の恨みを背負った、氷のように冷たい、復讐の機械だけだった。
「信託ファンド……母さんの、形見……」
父が、死の間際に残した、あの言葉が、まるで、魔の呪文のように、繰り返し、彼女の脳裏に、響いていた。
彼女は、知っていた。それこそが、全ての謎を解く、最終的な、鍵なのだと。
そして、あの、黒幕に隠れた黒幕が、最も、手に入れたいものなのだと。
だから、彼女は、乱れてはならず、ましてや、倒れてはならなかった。
彼女は、以前の、どんな時よりも、もっと、冷静に、もっと、強く、ならなければならなかった。
龍園蓮は、ずっと、彼女のそばに、寄り添っていた。
彼もまた、一着の黒いスーツに身を包み、まるで、沈黙の、忠実な騎士のように、彼女のために、全ての、悪意に満ちた、窺探と、探りを、遮っていた。
彼は、彼女が、今、いかなる慰めも、必要としていないことを、知っていた。
彼女が必要としているのは、ただ、一つの、彼女が、安心して、寄りかかかれる、背中だけなのだと。
しかし、この、重々しい平穏は、すぐに、一群の、招かれざる客によって、破られた。
「龍園会」の、あの、山羊髭の長老を筆頭とする、彰人を支持していた元老たちが、竟に、葬儀に、現れたのだ。
彼ら一人一人の顔には、どこか……猫が、鼠の死を、弔うかのような、偽りの、悲しみが、あった。
「お嬢様、お悔やみ、申し上げます。」山羊髭の長老は、澪の前に歩み寄り、白々しく、一礼した。
そして、彼は、一種の、大きくも小さくもなく、しかし、周りの全ての人々に、聞こえる声で、意味ありげに、言った。
「綾辻会長は、英雄の一生でしたが、まさか、最後が、このように……不明瞭な、結末とは。」
「実に、痛恨の、極みですな!」
彼の、この言葉は、明らかに、宗一郎の死には、裏がある、と暗示していた!
全ての弔問客の耳が、瞬時に、ぴんと、立った。
澪の瞳に、氷のように冷たい、殺意が、よぎった。
しかし、彼女が、口を開く前に。
蓮が、一歩、前に出て、彼女の、身の前に、立ちはだかった。
「三叔父上」と、彼の声は、平穏だったが、どこか、反論の余地のない、圧迫感があった。「ここは、綾辻会長の、葬儀です。もし、心から、お悔やみを、述べに来られたのでしたら、綾辻家を代表し、歓迎いたします。」
「もし、事を、荒立てに来られたのでしたら」と、彼の視線は、刃のように、鋭くなった。「その時は、この、後輩の、私めを、不躾だと、お咎めなさらないでいただきたい。」
「情面、だと?」山羊髭の長老は冷笑した。彼が、待っていたのは、この言葉だった!
彼は、勢いよく、音量を上げ、その場にいた、全ての弔問客に、向かって、悲憤に、満ちて、言った。
「皆様!あなた方は、騙されているのです!」
「綾辻宗一郎会長は、決して、病死などでは、ありません!彼は……殺されたのです!」
「そして、彼を殺したのは、彼のそばにいる、この、狼を、室に引き入れた……『龍園会』の、跡取り、龍園蓮なのです!」
この言葉は、まるで、驚天動地の、雷のように、霊堂全体に、轟然と、炸裂した!
誰もが、衝撃に、蓮を、見ていた。
その視線には、驚疑と、恐怖と、そして……はっと、悟ったかのような、色が、あった。
そうか……そういうことだったのか?!
どうりで、綾辻が、最近、これほどまでに、多くの変動があったわけだ!
どうりで、会長が、突然、危篤に陥ったわけだ!
そうか、この全ては、一つの、周到に計画された、殺人だったのだ!
「嘘よ!」
澪は、ついに、耐え切れず、口を開いて、反論した。
しかし、彼女の声は、衆人の、ひそひそ話の中で、これほどまでに……蒼白で、無力だった。
「嘘だと?」山羊髭の長老は、懐から、一枚の書類を、取り出し、高く、掲げた!
「これは、我々『龍園会』の、内部調査報告書だ!ここには、白地に黒々と、龍園蓮が、綾辻を飲み込むため、十数年も前から、計画を立てていた、と書かれている!」
「彼は、まず、『ブラックウォーター・キャピタル』の名で、罠を仕掛け、敵対的買収を、企んだ!その後、わざと、お嬢様に、近づき、信頼を、勝ち取り、最終的に、会長を、殺害したのだ!」
その書類は、まさしく、彰人が、以前に、偽造した、あの、一枚だった!
彰人は、既に、「家法処分」されたが、この「証拠」は、彼らによって、保管されていたのだ!
今、この時、蓮を、攻撃するための、最も致命的な、武器と、なったのだ!
「私には、人証も、いる!」
山羊髭の長老は、手を、叩いた。
一人の、白衣を着た男が、人々の後ろから、出てきた。
まさしく、以前、葛城靜子に買収された、あの、王医師だった!
彼は、竟に、処理されていなかったのだ!
王医師は、衆人の前に歩み寄り、「悔恨」に満ちた顔で、蓮を、指差し、大声で、言った。
「わ……私は、認めます!れ……蓮様が、私を、脅迫したのです!会長の、薬に、細工を、しろと!わ……私は、全て、無理強いされたのです!」
人証!物証!全てが、揃っている!
これには、誰もが、信じた!
そうか、綾辻家の、この豪門の嵐の背後には、竟に、これほどまでに、汚らわしく、血腥い真相が、隠されていたとは!
そして、蓮、この、ずっと、「青年才俊」のイメージで通っていた男が、竟に、これほどまでに、冷酷非情な、悪魔だったとは!
「龍園さん……あなた……」
澪もまた、信じられないというように、隣の、この男を、見ていた。
彼女の頭脳は、真っ白になった。
彼女は、この全てが、罠であることを、知っていた。
しかし……なぜ、王医師が、ここに、現れたのか?
なぜ、あの、破棄されたはずの証拠が、再び、現れたのか?
この背後には、一体……何が、あるのか?
彼女は、蓮の、あの、衆人から指差される中で、相変わらず、平穏で、一片の、波もない顔を、見ていた。
彼の、あの、深淵のような、彼女には、全く、見透かせない、黒い瞳を、見ていた。
一つの、恐ろしい、彼女の全身を、氷のように、冷たくさせる念頭が、制御不能に、彼女の脳裏に、浮かび上がってきた——
もしかしたら……
父の、言ったことの方が、正しかったのでは、ないか?
もしかしたら、私……本当に、信じるべき人間を、間違えていたのでは、ないか?




