第66話 最後の目覚め
あの、「真の黒幕」に関する恐ろしい念頭は、まるで、深水爆弾のように、綾辻澪の脳裏で、荒れ狂う波を、引き起こし、また、瞬時に、彼女の心にあった、全ての、龍園蓮に対する、憎しみの炎を、消し去った。
おかしい。
全てが、あまりにも、おかしい。
前世で、父もまた、脳卒中で倒れ、最後は病院で、わけも分からず、死んでいった。
当時、誰もが、彼は、自分と拓海に、腹を立てたのだと、思っていた。
しかし、今、思えば……
もしかしたら、その時から、既に、彼は、毒に、侵されていたのでは、ないか?
そして、この世で、葛城靜子と橘拓海は、既に、完全に、排除された。
理屈から言えば、父は、既に、危険を、脱したはずだ。
しかし、なぜ、この毒は、それでも、爆発したのか?
誰が、父の感情が、最も、激した時に、この爆弾を、起爆させたのか?
それは、偶然か?
それとも……病院に、内通者が、いるのか?!
あるいは、あの、闇に隠れた勢力は、ずっと、私たちを、見張っていたというのか?!
一つ、また一つと、ぞっとするような念頭が、澪の全身を、氷のように、冷たくさせ、まるで、氷の淵に、落ちたかのようだった。
彼女は、初めて、真の、恐怖を、感じた。
それは、未知の、目に見えない敵に、対する、深い、無力感だった。
彼女は、自分が、生まれ変わって以来、全ての復讐、全ての計算が、もしかしたら……あの、黒幕の盤上で、行われていた、一つの……可笑しい、芝居に過ぎなかったのではないかと、気づいた。
そして、彼女は、竟に、自分の敵が、一体、誰なのかさえ、分からなかった。
「ブブブ——」
まさに、彼女の心が、乱れきっていた、その時。彼女のスマートフォンが、震動した。
見知らぬ番号だった。
しかし、彼女が、その番号を見た、瞬間。彼女の瞳孔が、急激に、収縮した。
この番号……
蓮が、彼女に、渡した、あの、緊急連絡用の、暗号化された衛星電話の番号だ!
彼が、自ら、この番号で、自分に、連絡してきたことは、一度も、なかった。
澪の心が、激しく、喉元まで、せり上がってきた。彼女は、すぐさま、電話に出た。
「私です。」
電話の向こうから、蓮の、あの、低く、そして、切迫した声が、聞こえてきた。
「澪、聞いてください。あなたは、今、大きな、窮地に、立たされています。」
「あなたのお父上が、危篤だという知らせが、既に、漏れています。」
「『龍園会』の長老会の、あの、老いぼれたちと、あなたが、以前に、敵に回した、あの者たちが、皆、私が、やったのだと、思い込んでいます。」
「彼らは、今、結託し、あなたのお父上が、倒れ、あなたが、孤立無援の隙を突いて……」
「……我々、二人を、完全に、排除するつもりです。」
蓮の言葉が、澪の心にある、最悪の、推測を、裏付けた。
あの、目に見えない黒幕は、彼女の父の命を、狙っているだけでなく。
むしろ、彼女の父の死を、借りて、一つの、彼女と蓮を、完全に、破滅させるに足る……内乱を、引き起こそうとしているのだ!
見事な、一石二鳥、借刀殺人だ!
「あなたは、どこに?」澪は、自分を、無理やり、冷静にさせた。
「病院へ、向かっている途中です。」蓮の声には、抑えられた怒火があった。「黒崎が、既に、部下を連れて、病院の警備を、制圧しに向かっています。あなたは、今すぐ、集中治療室の入口を、離れてください。そこは、安全では、ありません!あなたのお父上の、VIP病室へ行き、ドアに鍵をかけ、私を、待ちなさい!」
「いいえ。」澪は、しかし、首を横に振った。彼女の視線は、あの、相変わらず、赤いランプが点灯した、手術室のドアに、固く、注がれていた。「私は、行きませんわ。」
「父が、出てくるのを、待ちます。」
「綾辻澪!」蓮の声が、初めて、厳しい、叱責を、帯びた。「今は、我儘を、言っている場合では、ありません!」
「我儘では、ありませんわ。」澪の声は、恐ろしいほど、平穏だった。「龍園さん、聞いてください。」
「もし、お父様に、本当に、万が一のことが、あったなら……」
「その時は、私、東京全体を、道連れに、いたしますわ。」
そう言うと、彼女は、電話を切った。
手術室の赤いランプが、長い、待ち時間の後、ついに、消えた。
医師が、疲れた顔で、中から、出てきた。
彼は、澪に、首を、横に振った。
「申し訳ありません、お嬢様。我々は……全力を、尽くしました。」
「毒素が、既に、患者様の、中枢神経に……今や、生命維持装置で、最後の一息を、繋いでいるだけです。」
「彼は……もしかしたら、いつでも……」
澪の体が、よろめき、もう少しで、倒れるところだった。
彼女は、医師を、押し退け、狂ったように、手術室へと、駆け込んだ。
病床で、宗一郎は、全身に、管を、挿-され、その顔には、既に、瀕死の者だけが持つ、灰白色が、浮かんでいた。
しかし、彼は、奇跡的に、目を、開けた。
彼は、自分のベッドのそばまで、駆け込んできた娘を見つめ、あの、濁った瞳に、竟に、一筋の、回光返照のような、清明さが、あった。
彼は、困難に、手を、上げ、何かを、掴もうとしているようだった。
澪は、慌てて、彼の、あの氷のように冷たい手を、握った。
「お父様……お父様……」
宗一郎の唇が、動き、何かを、言おうとしているようだった。
監視装置から、彼の心臓の鼓動が、耳障りな、急促な、警報音を、発し始めた。
彼は、生命の、最後の一筋の、力を、振り絞った。
喉から、いくつかの、微弱な、しかし、この上なく、はっきりとした、言葉を、絞り出した。
「気を……つけろ……」
「……信託……ファンド……」
「……お前の、母さんの……形見……」
そう言うと、彼の、手が、勢いよく、沈んだ。
目も、また、ゆっくりと、閉じた。
監視装置の、あの、生命を表す心電図が、最終的に、一本の……氷のように冷たい、直線と、なった。
澪は、呆然と、父の、あの、永遠に、生気を失った顔を、見つめていた。
耳元には、繰り返し、繰り返し、彼の、あの、最後の、遺言が、響いていた。
信託ファンド?
母さんの、形見?
これ……一体、どういう、意味なのかしら?




