第70話 葬儀での平手打ち
綾辻澪の、あの力強い宣言は、まるで、定海神針のように、一時的に、この、風雨に揺れる巨大な船、綾辻を、安定させた。
しかし、彼女もまた、よく、分かっていた。
これこそが、ほんの、始まりに過ぎない、と。
長老会の、あの老獪な狐たちは、決して、やすやすと、諦めはしないだろう。
そして、東京の、あの、虎視眈々と狙う飢えた狼たちも、また、皆、この「新任の女王」が、一体、この王座に、どれほど長く、座っていられるかを、見守っている。
彼女は、今、内には強大な援軍もなく、外には手強い敵がいる。
一歩一歩が、薄氷を、踏むかのようだ。
彼女が、会社に戻り、夜を徹して緊急会議を開き、この広報危機に、対応しようとしていた、その時。
一本の、予期せぬ電話が、かかってきた。
東京警視庁、経済犯罪調査課からだった。
「綾辻会長、こんにちは。私どもは、警視庁経済犯罪調査課の者です。」電話の向こうの声は、事務的だったが、どこか、異様な、丁寧さがあった。「本日、お父上のご葬儀で、発生しました、あの『誣告』事件につきまして、我々は、既に、立件捜査に入りました。」
「誣告ですって?」澪は、わずかに、戸惑った。
「はい。」相手は、説明した。「つい三十分ほど前に、我々は、『京誠法律事務所』から、匿名で、二通の、資料を、受け取りました。」
「一通目は、あの、王医師に関するものです。彼が、一週間前に、『龍園会』の長老会のメンバーである、陸洪徳(山羊髭の長老)から、巨額の賄賂を、受け取っていたという、確たる証拠が、ございます。我々は、既に、法に基づき、彼を、拘束いたしました。」
「二通目の資料は……」相手の口調が、間を置き、どうやら、彼自身も、少し、信じられないかのようだった。「……龍園蓮氏のものです。資料の中には、彼の、ここ半年間の、国内における、全ての資金の流れと、行動記録が、ございます。一つ一つが、明瞭で、彼が、お父上の死とは、何の関係もないことを、証明しております。それどころか……」
「……さらには、彼が、密かに、綾辻グループが、数度の重大な金融リスクを、回避するのを、助けていたという、証拠さえも、ございます。」
電話のこちら側で、澪の、スマートフォンを握る手が、勢いよく、固くなった。
龍園蓮だわ。
彼に、違いない。
彼は、去った。
しかし、彼は、決して、本当に、そうやって、「罪を恐れて逃亡」したのでは、なかった。
彼は、この、最も、冷静で、最も、迅速な方法で、自分自身のために、全ての「冤罪」を、洗い流したのだ。
そして、彼女のために、この、つい先ほど、彼と「縁もゆかりもない」と断言した、女のために、最大の、障害を、掃き清めたのだ。
彼は、さらに、自分が、密かに、綾辻を助けていた「功績」さえも、一緒に、送ってきた。
これは……彼女という、この「新任の女王」の王座に、最も、堅固な、礎石を、敷いているのだ。
この男……
彼は、一体……
澪の心が、まるで、何かに、容赦なく、刺されたかのようだった。
痛くて、彼女は、ほとんど、息も、できなかった。
「綾辻会長?まだ、お聞きになっていらっしゃいますか?」
「……はい。」澪は、無理やり、心に渦巻く感情を、抑え、その声は、平素の、氷のような冷たさを、取り戻していた。「承知いたしました。ありがとうございます。綾辻は、警察の捜査に、全面的に、協力いたします。」
電話を切ると、彼女は、静かに、誰もいないオフィスに、座っていた。
長い時間が、流れた。彼女は、ようやく、ゆっくりと、あの、襟の中に隠された、氷のように冷たい指輪を、取り出した。
彼女は、あの、かつては、無限の期待を、象徴していた指輪を見つめ、その口元に、泣くよりも、もっと、醜い、自嘲の、弧を、描いた。
龍園蓮、龍園蓮……
あなたは、一体、どのような、人なの?
あなたの、どの言葉が、真実で、どの言葉が、嘘なの?
あなたは、私に……
どうやって、あなたを、憎めば、いいというの?
・・・
同じ頃。
東京国際空港、VIPラウンジ。
蓮は、普段着に身を包み、野球帽を、かぶり、まさに、ヨーロッパ行きの、プライベートジェットに、搭乗しようとしていた。
黒崎隼人は、彼の、後ろに立ち、その表情は、複雑だった。
「若、本当に……このまま、行ってしまわれるのですか?」
「若の、全ての功績を、彼女に、お与えになり。さらには、若ご自身の、潔白さえも……」
「潔白、だと?」蓮は、窓の外の、あの、間もなく彼をこの街から連れ去る飛行機を見つめ、笑った。「俺の、潔白など、どうでもいい。」
「重要なのは……」
彼の視線は、まるで、時空を突き抜け、あの、今、一人、氷のように冷たいオフィスで、あの指輪を握りしめている、少女の上に、落ちた。
「……彼女の、王座が、揺るがないことだ。」
そう言うと、彼は、踵を返し、搭乗口へと、向かった。
「若!」黒崎は、思わず、彼を、呼び止めた。「では……我々と、お嬢様との間は……」
蓮の足が、止まった。
彼は、振り返らなかった。
ただ、一つの、軽くて、ほとんど、風に、吹き散らされそうな、言葉を、残した。
「……あの、葬儀での、平手打ちは、なかったことに、しよう。」
彼が指したのは、前世で、澪が、生まれ変わる前に、彼が、家族全員を殺したのだと誤解し、心の中で、あの「黒幕」に、放った、あの、想像上の平手打ちのことだ。
そして、この世で、彼女が、信頼の崩壊のために、心の中で、彼に対して、閉ざした、あの、扉のことだ。
彼は、全てを、認めたのだ。
全ての、誤解も、全ての、罪責も。
彼、一人で、全てを、背負ったのだ。
そう言うと、彼は、もはや、いかなる、停留もなく、まっすぐに、飛行機に、搭乗した。
巨大な轟音の中、銀色の飛行機が、雲を突き抜け、飛び立った。
東京の、あの、複雑で、深遠な、夜の色の中に、消えていった。




