第60話 語られざる悸動
綾辻宗一郎の、あの真剣な問いかけは、まるで、氷水のように、瞬時に、病室に、ようやく昇り始めた温もりを、消し去った。
澪の心が、激しく、沈んだ。
彼女は、無意識に、指輪をした手を、引っ込めようとした。
しかし、既に、遅かった。
彼女は、父の、あの、もはや、往時の慈愛はなく、審判と、凝重さ、そして、さらに……どこか、隠された敵意を、帯びた瞳を見て、初めて、真の、狼狽を、感じた。
「お父様、私……」
彼女は、口を開きかけたが、自分が、竟に、どう、説明したらいいのか、分からなかった。
龍園蓮は、彼女の同盟者だ、と?
では、あの指輪は、どう説明するのか?
彼は、彼女の恋人だ、と?
では、彼女は、どう、父に、この男の……真の素性を、説明したらいいのか?
「澪」と、宗一郎の声は、異常に、重々しくなった。彼は、娘の目を、固く、見据えた。「答えなさい。お前、彼と、一体、どこまで、進んでいるんだ?」
澪は、深呼吸をし、自分を、無理やり、冷静にさせた。
彼女は、この件は、避けられないことを、知っていた。
彼女は、ゆっくりと、自分の手を、引き抜き、そして、ほとんど、宣誓に近い姿で、あの指輪を、改めて、押し正した。
彼女の動きは、とても、ゆっくりとしていたが、固かった。
「お父様」と、彼女は顔を上げ、父の視線に応え、一字一句、区切って、言った。「彼は、私が選んだ人です。私が……一生を、共にしたいと、思った人ですわ。」
たとえ、彼女と蓮の間には、まだ、「愛している」という、一言の言葉も、なかったとしても。
しかし、これほどの生死の駆け引きを経験し、互いの最も深い闇を見た後、彼らの関係は、とっくに、普通の恋愛を、超えていた。
それは、一種の、魂のレベルでの、共生だった。
しかし、彼女の、この、「告白」とも言える答えが、もたらしたのは、父の、祝福では、なかった。
それは、宗一郎の、あの、瞬く間に、青ざめた顔色と、瞳にある、あの、天をも驚かす、信じられないという……震怒だった!
「ならん!絶対に、許さん!」
彼は、興奮して、ベッドから、起き上がろうとしたが、手術の傷口に、触れ、苦痛の、呻き声を、漏らした。
「お父様!落ち着いてください!」澪は、慌てて、彼を、支えようとした。
「落ち着いていられるか?!」宗一郎は、さっと、彼女の手を、振り払い、彼女を、指差し、その声は、怒りで、激しく、震えていた。「澪!お前、彼が、何者か、分かっているのか?!彼の、苗字が、何であるかを、知っているのか?!」
「彼は、龍園だ!『龍園会』の、人間だぞ!」
澪の心が、完全に、沈んだ。
父は……竟に、「龍園会」を、知っていたのか!
そして、彼の、この名前に対する反応は、これほどまでに……激しいとは!
「お父様、あなた……」
「父と、呼ぶな!」宗一郎の感情が、完全に、制御を失い、彼は、激しく、咳き込んだ。「言っておくぞ、綾辻澪。お前、この世の、どの男と一緒になっても、構わん。ただ……龍園の姓を、名乗る者だけは、ならん!」
「特に、『龍園会』の、龍園家だけは!」
「なぜですの?!」澪もまた、目が赤くなった。「お父様、彼に、何か、誤解が、おありなのでは?彼は、お父様が、お思いになっているような、人では、ありませんわ!彼は……」
「彼が、どんな人間かなど、どうでもいい!」宗一郎は彼女を遮り、その瞳に、一つの、深い、言葉にできない苦しみと……恐怖が、よぎった。
「俺が、知っているのは、ただ一つ。我々、綾辻家と、奴ら、龍園家との間には……血の海の、恨みがある、ということだけだ!」
血の海の、恨み!
この四文字が、まるで、驚雷のように、澪の脳裏に、轟然と、炸裂した!
彼女は、呆然と、父の、あの、興奮で紅潮した顔を見つめ、頭の中は、真っ白になった。
どうして、そんなことが?
蓮は、明明、十数年前に、父に、匿名で、警告したとさえ、言っていたのに……
「お父様、何か、お間違いでは?一体、どういうことですの?」
「もう、聞くな!」宗一郎は、しかし、まるで、何か、最も恐ろしい禁忌に、触れられたかのように、苦痛に、目を閉じ、その顔は、葛藤に満ちていた。「とにかく、俺の言うことを、聞け。すぐに、彼と、別れろ!きれいさっぱりと、だ!さもなくば……さもなくば、俺は、お前など、娘とは、思わん!」
そう言うと、彼は、勢いよく、向きを変え、彼女に、背を向け、反論の余地のない姿で、この会話を、終結させた。
澪は、呆然と、その場に、立ち尽くした。ただ、全身が、氷のように、冷たかった。
彼女は、父の、あの、震える、拒絶に満ちた背中を見つめ、そして、頭を下げ、自分の薬指にある、あの、氷のように冷たい指輪を、見つめた。
彼女は、初めて、自分の復讐の道で、真の……戸惑いと、無力感を、感じた。
一方には、彼女が、二つの人生で、唯一、愛し、また、唯一、肩を並べられる、男がいる。
もう一方には、彼女が、最も、敬愛し、また、最も、負い目のある父と、彼が口にする、あの、いわゆる……「血の海の恨み」がある。
私は……どうしたら、いいのかしら?
この背後には、一体、どれほどの、私が、知らない……秘密が、隠されているというのかしら?
病室の外で、ずっと、待っていた蓮は、澪が、魂が抜けたかのように、中から、出てくるのを、見ていた。
彼は、彼女の、あの蒼白な顔色と、赤く腫れた目を見て、心に、不吉な予感が、湧き上がった。
「どうしました?」彼は、一歩、前に出て、彼女を、支えた。
澪は顔を上げ、彼を見つめた。あの、美しい瞳には、苦しみと、葛藤が、満ちていた。
長い時間が、流れた。彼女は、ようやく、ほとんど、掠れた、震える声で、尋ねた。
「龍園さん……」
「二十年前……私の、母の、あの交通事故……」
「……一体、どういうことだったのですの?」




