第59話 制御不能なキスと理性の逸脱
龍園蓮の、あの、鄭重極まる「プロポーズ」は、まるで、最も温かい陽光のように、瞬時に、綾辻澪の、全人生を、照らし出した。
彼女は、自分の薬指にある、あの、サイズは合わないが、意味深い指輪を、見つめた。
そして、顔を上げ、目の前の、この、自分自身の全ての深い情と約束を、惜しみなく、自分の前に、捧げ持ってきた男を、見つめた。
二つの人生分の、悔しさ。二つの人生分の、孤独。二つの人生分の、もがき……
その瞬間、まるで、全てに、帰る場所が、できたかのようだった。
彼女の目じりが、制御不能に、赤くなった。
しかし、今回は、もはや、苦しみの涙では、なかった。
それは、喜びの、感動の、涙だった。
彼女は、「はい、喜んで」とは、答えなかった。
彼女は、行動で、自分の答えを、示した。
彼女は、勢いよく、飛びつき、両腕を伸ばし、固く、彼の首に、環し、自分の顔を、深く、彼の、温かい首筋に、埋めた。
「馬鹿……」
彼女の声は、鼻声で、くぐもって、聞こえてきた。「……先に、言ったのは、私の方ですのに……」
明明、彼女が先に、彼と共に、闇の中にいると、言ったのだ。
蓮は、笑った。
彼は、両腕を伸ばし、固く、彼女を、抱き返した。まるで、彼女を、自分の骨肉に、揉み込もうとするかのように、二度と、離さないと。
「ええ、あなたが、先に、おっしゃいました。」
彼の声は、優しくて、水も滴るようだった。「ですから、女王陛下、今、……印鑑を、押していただけますかな?」
澪は顔を上げ、涙に濡れた目で、彼の、あの、間近にある、寵愛に満ちた、美しい顔を、見つめた。
彼女は、つま先立ちになり、自ら、自分自身の……「印鑑」を、押した。
それは、昨夜の、あの激しく、熱いキスとは、全く、違うキスだった。
それは、優しく、絡み合い、九死に一生を得た後の、安堵と、未来への、無限の……期待に、満ちていた。
・・・
温かい時間は、いつも、短い。
二人が、ようやく、名残惜しく、あの、甘い香りに満ちたセーフハウスから、出て、現実の世界に、戻ってきた時。
一つの、彼らが自らの手で点火した、巨大な嵐が、彼らを、待っていた。
「若、お嬢様。」
黒崎隼人は、とっくに、車のそばで、待機しており、その表情は、真剣だった。「会社の電話が、鳴り止みません。李家、王家、そして、我々が『名指し』した、他のいくつかの家が、皆、狂ったように、我々と、刺し違える覚悟だと、息巻いております。」
「それから……」彼は、間を置き、澪を一瞥した。「病院の方から、連絡が。会長が……お目覚めに、なられました。」
父が、目覚めた。
この知らせが、澪の心を、瞬時に、引き締めた。
喜びは、ただ、一瞬。
続いて、巨大な、不安が、あった。
父が、目覚めた。私は、彼に、どう、この全てを、説明したらいいのか?
東京全体を巻き込んだ、あの金融スキャンダルを?
自分の、あの、雷のような、ほとんど、残忍に近い、粛清手段を?
そして、どう、彼に、自分のそばにいる、この……素性が知れず、手段が非情な男を、説明したらいいのか?
蓮は、どうやら、彼女の、憂慮を、見抜いたようだ。
彼は、彼女の手を握り、その温かい掌で、彼女に、無言の力を、与えた。
「大丈夫だ」と、彼は彼女を見つめ、その眼差しは、固かった。「私が、あなたと、一緒に行きます。」
「いいえ。」澪は首を振り、その瞳には、同じく、固い決意があった。
「これは、私の、家の問題です。そして……私の、戦場ですわ。」
「あなたは、既に、私のために、十分すぎるほど、してくださいました。」
彼女は、彼を見つめ、ゆっくりと、唇の端を、吊り上げた。
「今こそ、女王陛下が、自ら、ご自身の『内政』を、処理する時ですわ。」
蓮は、彼女の、あの、もはや、一片の戸惑いも、脆さもなく、自信と力強さに満ちた瞳を見て、笑った。
「分かりました。」
彼は、もはや、固執しなかった。
彼は、彼の女王が、自分自身の力で、真の「戴冠」を、勝ち取る必要があることを、知っていた。
そして、彼は、ただ、彼女の背後にある、最も、信頼できる、後盾で、あればいい。
・・・
東京第一市民病院、最上階VIP病室。
宗一郎は、既に、目を覚ましており、体は、まだ、弱々しかったが、精神は、まあまあ、良好だった。
彼は、ベッドに、もたれかかり、窓の外を、見ていた。何を、考えているのか、分からなかった。
澪が、ドアを開けて、入ってきた。
「お父様。」
「澪か、来たか。」宗一郎は、振り返り、娘を見つめ、その眼差しは、複雑だった。「外のことは……全て、聞いた。」
彼の秘書が、既に、この二日間に起こった、全ての出来事を、彼に、報告していたのだ。
あの、未曾有の「スクリーン審判」も、あの、かつての旧友たちの……悲惨な末路も。
「はい。」澪は、否定も、弁明も、しなかった。
彼女は、ただ、平穏に、父の、病床の前に、立った。
「お前……」宗一郎は、娘の、あの、亡き妻にますます似てきて、しかし、ますます見慣れなくなった顔を見て、その声は、どこか、かすれていた。「……私を、憎んでいるか?」
「お前と、お前の母さんを、守れなかった、私を?」
「狼を、室に引き入れ、人を見る目がなかった、私を?」
澪は、沈黙した。
長い時間が、流れた。彼女は、ようやく、ゆっくりと、首を、横に振った。
「いいえ。」
彼女の声は、とても軽かったが、はっきりとしていた。
「以前は、あったかもしれません。でも、今は……もう。」
彼女は、手を伸ばし、そっと、父の、あの、点滴で少し冷たくなった手を、握った。
「お父様は、悪くありません。悪いのは、あの、貪欲な者たちです。」
「ですから、お父様は、今、ゆっくりと、お体を、お休めになってください。」
「残りは……全て、私に、お任せください。」
彼女の手は、とても、温かく、力強かった。
どこか、宗一郎に、見慣れない、しかし、この上なく、安心させる、力が、あった。
宗一郎は彼女を見つめ、その濁った目が、ゆっくりと、潤んだ。
彼は、手を返し、固く、娘の手を、握り、頷いた。
父と娘の間にある、全ての隔たりと、誤解が、その瞬間、一つの、無言の……和解と、託付へと、変わった。
しかし、まさに、澪が、自分が、最も困難な関門を、乗り越えたと、思った、その時。
宗一郎の視線が、突如として、彼女の左手の薬指にある、あの……サイズの合わない、ピンキーリングに、落ちた。
彼の瞳孔が、急激に、収縮した。
すぐに、かつてないほど、真剣で、重々しい口調で、口を開いた。
「澪、お前、あの龍園蓮と……」
「……一体、どういう、関係なんだ?」




