第46話 裏切り者の末路
あの、朝の、越権的な抱擁は、まるで、湖心に投じられた小石のように、綾辻澪と龍園蓮の間に、静まらない波紋を、広げた。
二人の間の雰囲気は、ますます、微妙になった。
昼間、彼らは、相変わらず、肩を並べて戦う、息の合った戦友だった。
しかし、夜、オフィスで二人きりになると、空気中には、いつも、無意識に、どこか、曖昧な電流が、漂っていた。
彼らは二人とも、暗黙の了解のうちに、もはや、あの抱擁には、触れなかった。
しかし、彼らは二人とも、知っていた。何かが、静かに、変わってしまったことを。
彼らは、もはや、最初の、あの、純粋な、互いに探り合う「同盟者」の関係には、戻れなくなったのだ。
そして、まさにその時、突如として起こった「裏切り」が、この脆い温もりを、打ち破った。
一週間にわたる鉄腕の反撃の末、綾辻グループの株価は、既に、安定を取り戻し、上昇に転じていた。あの、密かに蠢いていた勢力も、次々と、打ち負かされていた。
見よ、この嵐は、間もなく、収まる。
しかし、最後の締めくくりの、肝心な時に、彼らが精心に練り上げた、最後の敵を完全に打ち負かすための、ビジネス上の狙撃計画が、意外にも……失敗した。
相手は、まるで、彼らの全ての手の内を、事前に知っていたかのように、正確な回避行動を取り、さらには、逆に、綾辻に、一太刀を浴びせ、綾辻に、少なからぬ損害を、与えた。
内通者が、いる!
これこそが、澪と蓮が、結果を見た、その瞬間に、脳裏に、同時に、浮かんだ、念頭だった。
蓮の情報網は、すぐに、標的を、特定した。
——張副社長。綾辻グループに、二十年近く、勤め、宗一郎の、深い信頼を得ていた、長老級の、幹部だ。
そして、まさに、以前、海運部門の問題で、澪に、「港湾管理費」で、衆人の前で、釘を刺された、あの人物でもあった。
オフィスの中は、氷が張るかのように、冷え切っていた。
澪は、スクリーンに映し出された、張副社長が、ライバル会社と、密かに接触している、監視カメラの写真を見つめ、その顔には、何の表情もなかったが、あの、美しい瞳には、まるで、氷が、張っているかのようだった。
「どうして、彼が?」彼女には、理解できなかった。
父は、彼を、厚遇していた。今回の粛清運動でも、旧交を顧みて、彼には、手を出さなかった。
なぜ、裏切るのか?
「悔しさ、でしょうな。」蓮の声は、平穏だった。「あなたは、彼の利益を、損ない、また、彼に、衆人の前で、恥を、かかせた。彼のような人間にとって、それは、直接、解雇されるよりも、もっと、耐え難いことです。」
「ですから、彼は、綾辻を、破壊してでも、あなたを、道連れに、しようとしたのです。」
澪は、沈黙した。
これこそが、人性だ。
決して、人の、嫉妬と怨恨を、見くびってはならない。
「あなたは、彼を、どう処理したいですかな?」蓮は、彼女を見つめ、尋ねた。
澪は顔を上げ、その瞳に、隠しきれない、氷のように冷たい、殺意が、よぎった。
「このような、内から食い荒らす裏切り者は、生かしておけば、禍根となりますわ。」
彼女の声は、とても軽かったが、その言葉の内容は、誰をも、身震いさせるに、十分だった。
「彼と……彼の背後にいる連中に、死よりも、もっと、苦しい代償を、支払わせたいのです。」
「彼と、彼の家族全員を、この東京から、完全に、消し去ってほしいのです。」
これは、彼女が、生まれ変わって以来、初めて、真の、「殺意」を、抱いた時だった。
靜子母娘を、処理した時のように、彼らを、見えない場所へ、送るのではない。
それは、真の意味での……抹殺だった。
しかし、彼女の言葉が終わるや否や、これまで、彼女に、ほとんど、何でも、応えてきた蓮が、初めて、眉を、ひそめた。
「同意できません。」
彼は、きっぱりと、彼女の提案を、否定した。
澪は、呆然とした。
「なぜですの?」彼女は、信じられないというように、彼を見つめた。「あなたは、『刀を渡す者』だと、おっしゃったでは、ありませんか?今、私は、あなたの刀が、必要なのです。それを、あなたは、私に、断るのですか?」
「私の刀は、障害を、取り除くためのものです。罪なき者を……殺戮するためのものでは、ありません。」蓮の表情が、真剣になった。
「張副社長の裏切りは、彼が、罪を償うべきです。しかし、彼の家族は、無実です。」
「無実ですって?」澪は、まるで、天をも驚かすような、冗談でも聞いたかのように、冷笑した。「雪崩が起きた時、無実な雪片など、一つもありませんわ!彼が、会社を裏切って得た金で、彼の家族を、養っていたのです。彼らが、共犯では、ないのですか?!」
彼女の感情は、蓮の反対によって、どこか、昂っていた。
前世での、悲惨な死は、彼女に、「裏切り」という二文字に対して、病的なほどの、憎しみを、抱かせていたのだ。
「それは、話が違います。」蓮は立ち上がり、彼女の前に歩み寄り、彼女を、見下ろした。その眼差しには、複雑さと、胸の痛みが、あった。
「綾辻澪、あなたが、憎んでいるのは、分かります。しかし、復讐とは、あなたが……あなたが憎んでいる、あの者たちと、同じ、悪魔に、なることでは、ないはずだ。」
これこそが、彼らの間に、初めて、勃発した、これほどまでに、激しい、価値観の、正面衝突だった。
彼女は、光から、闇へと堕ちた、復讐者だ。彼女は、悪魔に対処するには、悪魔よりも、残忍な手段を、使うべきだと、考えていた。草を刈るなら、根まで、絶たなければならない。
そして、彼は、必死に、闇から、光へと、這い上がろうとする、もがき苦しむ者だ。彼の手は、血に染まっているが、彼の心には、決して、越えてはならない、一線が、あった。彼は、敵を、排除することはできるが、決して、無実の者を、傷つけはしない。
「悪魔ですって?」澪は立ち上がり、少しも、恐れることなく、彼の視線に応えた。その瞳には、狂気と、悲しみが、きらめいていた。
「龍園さん、あなたには、私が、まだ、選べるとでも、お思いですの?」
「私が、地獄から、這い上がってきた、その瞬間から、私は、もう、悪魔だったのですわ!」
「では、あなたは?」と、彼女は問い返した。その声は、鋭かった。「あなたの手は、きれいだとでも、おっしゃるの?!あなたに、何の権利があって、道徳の、高みに立って、私を、説教なさるの?!」
彼女の、詰問は、鋭利な刃物のように、容赦なく、蓮の心臓に、突き刺さった。
彼は、彼女の、あの、苦しみと決意に満ちた瞳を見て、全ての、強引さと、道理が、瞬く間に、一つの……無言の、ため息へと、変わった。
彼は、知っていた。彼は、彼女を、説得することは、できないと。
まるで、彼女もまた、彼を、理解することが、できないように。
これこそが、彼らの間に、横たわる、一つの、越えることのできない、溝だったのだ。




