第45話 オフィスでの束の間の温もり
綾辻澪の、あの積極的な態度は、明確な信号のように、龍園蓮の心にあった、最後の、あの、「自制」という名の防衛線を、揺るがし始めた。
しかし、彼は、結局、もはや、それ以上の行動には、出なかった。
彼は、ただ、彼女の髪を撫で、そして、手を収め、その声は、穏やかだった。「もう遅いですから、あなたは、中の休憩室で、少し、お休みになってください。残りのデータは、私が、処理しておきます。」
「あなたは?」澪は顔を上げ、彼を見つめた。
「私は、まだ眠くありません。」
澪は、彼が、嘘をついていることを、知っていた。
この数日間、彼は、彼女よりも、さらに、眠っていなかったのだ。彼女が、何度か、夜中に目を覚ました時、いつも、彼が、まだ、パソコンの前で、あの複雑なデータモデルを、分析しているのを、見ていた。
彼の、瞳の奥には、もはや、隠しきれない、赤い筋が、走っていた。
「一緒に。」澪は、彼と、言い争うことなく、ただ、オフィスにある、あの、まあまあ広いソファを、指差した。「あなたは、ソファで。私は、机に突っ伏して、少し、仮眠を取るわ。」
その言葉は、穏やかだったが、どこか、反論の余地のない、命令口調だった。
蓮は、彼女の、あの、「反論の余地のない」、倔強な瞳を見て、最終的に、どうしようもなく笑みを浮かべ、頷いた。
「分かりました。」
オフィスの照明が、暗くされた。
澪は、机に突っ伏さず、休憩室から、一枚の薄い毛布を、抱え出し、ソファの、もう一方の、小さな隅で、丸くなった。
そして、蓮は、スーツのジャケットを脱ぎ、そのまま、ソファに腰掛け、目を閉じた。
二人の間には、半メートルの距離が、あった。
それは、安全で、また、危険な、距離だった。
オフィスの中は、静かだった。ただ、窓の外から、時折、聞こえてくる、かすかな風の音と、二人の、浅い、呼吸音だけが、あった。
澪は、元々、眠れないだろうと思っていた。しかし、おそらく、蓮が、そばにいることが、彼女に、言いようのない、安心感を、与えたのか。あるいは、体が、本当に、限界まで、疲れていたのか。すぐに、彼女は、深く、眠りに落ちていった。
・・・
どれほどの時間が、経ったのか。蓮は、浅い眠りの中で、かすかな、抑えられた、嗚咽に、目を覚まされた。
彼は目を開け、窓の外から差し込む、微かな月光を頼りに、隣の少女を、見た。
彼女は、相変わらず、そこに、丸くなっていたが、その体は、わずかに、震えていた。
彼女の眉は、固く、結ばれ、その顔には、苦痛の表情が浮かび、目じりには、まだ、一滴の、きらりと光る涙が、あった。
「やめて……離して……」
彼女は、身に纏った毛布を、固く、握りしめ、まるで、夢の中で、何か、恐ろしいことに、遭遇しているかのようだった。
悪夢だ。
彼女の、あの、前世から続く、永遠に、逃れることのできない、悪夢だ。
蓮の心が、まるで、目に見えない手で、容赦なく、握り締められたかのようだった。
彼は、ほとんど、無意識に、手を伸ばし、彼女を、起こそうとした。
しかし、彼の、手が、まさに、彼女に触れようとした、その直前。それは、また、止まった。
彼は、自分の、軽率な行動が、彼女を、さらに、大きな恐怖に、陥れるのではないかと、恐れたのだ。
彼は、しばらく、ためらい、最終的に、ただ、ゆっくりと、手を伸ばし、極めて、優しく、ほとんど、敬虔に近い動作で、そっと、彼女の、あの、恐怖で固く握り締められた、氷のように冷たい手を、握った。
彼の手のひらは、とても、温かかった。
その温もりは、まるで、人の心を慰める魔力を持つかのように、肌を通して、少しずつ、彼女の冷たい夢の中へと、伝わっていった。
不思議なことに、彼女の手が握られた後、彼女の、あの、固く結ばれた眉が、なんと、ゆっくりと、緩んでいった。
体の震えも、次第に、収まっていった。
彼女は、さらに、無意識に、その温もりの源へと、寄り添った。
蓮は、そのまま、静かに、彼女の手を握り、暗闇の中で、座り、一夜を、明かした。
彼は、彼女の、あの、月光の下で、ことのほか、脆く、静謐に見える寝顔を見つめ、心に、かつてないほどの、彼女を、永遠に、自分の翼の下に、護りたいという……衝動が、込み上げてきた。
・・・
翌朝、最初の陽光が、カーテンの隙間から、差し込んできた。
澪は、一面の温もりと安らぎの中で、ゆっくりと、目を覚ました。
彼女は目を開け、見たのは、氷のように冷たい天井ではなく、一つの……広々とした、かすかな白檀の香りがする、胸板だった。
そして、自分の手は、一つの、温かい大きな手に、固く、包まれていた。
彼女の、全身が、いつの間にか、竟に、彼の腕の中に、丸くなっていた。
まるで、最も安全で、最も温かい巣穴を、見つけた、子猫のように。
彼女の体が、瞬く間に、硬直した。
頭脳が、真っ白になった。
昨夜……何が、あったのかしら?
彼女は、ゆっくりと、顔を上げた。対したのは、蓮の、あの、ちょうど目を開けたばかりの、まだ少し、眠そうな、しかし、相変わらず、星空のように深淵な、黒い瞳だった。
四つの目が、見つめ合った。
呼吸が、交錯した。
空気中には、一種の……清々しい朝特有の、曖昧で、気だるい、匂いが、漂っていた。
「おはようございます。」
蓮が、先に、口を開いた。その声は、寝起きのため、どこか、色っぽい、掠れ声だった。
「お……おはよう……」澪の声は、蚊の鳴くようだった。
彼女の顔は、既に、卵が焼けるほど、熱くなっていた。
彼女は、無意識に、彼の腕の中から、逃れようとした。
しかし、蓮は、その瞬間、極めて、大胆で、越権的な、行動に出た。
彼は、手を、離さなかっただけでなく、逆に、その腕に、わずかに、力を込めた。
そして、彼は、頭を、下げ、自分の額を、そっと、彼女の額に、当てた。
それは、極めて、親密で、極めて、優しい、仕草だった。
「動かないで。」
彼の声には、蠱惑的な、魔力があった。
「もう少しだけ……こうさせてください。」
「ほんの、少しだけ。」
澪の体から、力が、抜けた。
彼女は、全ての、抵抗を、放棄した。
彼女自身を、彼の、あの、優しすぎて、人を溺れさせるかのような、瞳の中に、沈ませるままにした。




