4-30.黒
金遣いの荒い人とそうでない人の違いとは、目に付いたものを片っ端から手に取っていくか、一つ一つ本当に必要か考えてから購入するか、これに尽きると俺は思う。
基本的に俺は後者である。
見たところ、ティオも俺と同じなようだ。
オドの循環を良くするだとか、必要な魔力総量を抑えるだとかそんな感じの効力が付加されたロッドを凝視して、買おうかどうか真剣に悩んでいる。
効力は低いが便利な魔道具らしく、実演販売なんかもしている。
ちなみに俺が振ってみたところ、うんともすんとも言わなかった。
俺のスタッフとは違って、マナに関係する魔道具では無いようだ。
ティオは実演販売用のロッドを振って、水の球を宙に浮かばせていた。
このロッドを使えば、火の玉一個分の魔力で水の球を一個作れるようになるらしい。
ティオは水魔法がやや苦手であり、火魔法が得意分野だ。
劣っている面を埋められるというのは、かなり重要なことだろう。
さらにこのロッドを使えば、火の玉を作るために使用するオドの量も若干減少するらしい。
時間短縮にも貢献するらしく、半分くらい詠唱しただけで完成したと喜んでいた。
どうせ金を出すのは俺なので、ロッド一つくらい買ってやってもいいのだが。
ティオはこのロッドを自分で買うと言って聞かなかった。
依頼達成の報酬を一応分け与えているので、銀貨五枚程度なら貯まっているのだろう。
まあ、足りなければ幾らでも出してやるが。
「迷ってるなら買ったらどうだ? 他に欲しいものがあったら、買ってあげるから」
「も、もう少し待って。こっちのロッドと、こっちの指輪、どっちが便利か考えとくから!」
「両方買っても良いよ? どうしても自分で買いたいのなら、今回は俺が買っておいて、後で俺に払ってくれるとかでも構わないから」
「……でも、あまり無駄遣いしたくないもん」
だ、そうだ。
意見を押し付ける気も無いので、それ以上の反論をするつもりは無いが。
そんなことを思いながら、俺は隣の店で書物を漁っていた。
大抵が初級・中級の魔法教本だが、時折掘り出し物も埋まっている。
書物の複製執筆者が書いたという、異国の創作物や簡素な歴史書などだ。
トリスコールには立派な図書館があるためか、所謂本屋というものはほとんど存在しない。
あってもほとんどが教本の複製であり、俺には必要のないものばかりだ。
前述の通り、俺もティオと同じく片っ端から買い占めるような真似はできない人間だ。
故にさっきからパラパラと捲り、どれを買おうか迷っている。
「……どれにしようかな」
「迷ってるなら、全部買ってしまえばいいんじゃないですか?」
悪魔の囁きが聞こえた。
振り返ると、食欲をそそる甘辛い香りが鼻孔をくすぐる。
「モキュモキュ……」
「…………」
「……コキュン。これも美味しいですよ、お一ついかがですか?」
貝か何かの串焼きを咀嚼し終えたエイムに、ちまきっぽいものを手渡された。
竹の皮っぽい外見を剥がすと、海鮮系(?)の炊き込みご飯が入っていた。
「何ですか、これ」
「ジャパル国名産の、レイスとかいう作物らしいですよ。向こうの国では主食として扱われているそうです」
食べてみると、まんま米だった。
数か月ぶりの米に感動しつつ、やはり元の世界での米と比べると大して美味くないなという感想が湧く。
ただ味付けはパエリアっぽくて美味い。
この世界に来てからほとんどがパン食だったから、新鮮で良いな。
「まだまだありますよ。どうぞ」
「あ、ありがとうございますー。……ていうかエイムさん、どんだけ買ったんですか」
最初に見た時ほどは抱えていないが、その手元には串焼きやタコスらしき食品は存在しない。
故に今エイムが持っているものは全て、俺と一旦別れてから買ってきたであることは確実だが。
「珍しいものを見つけると、つい買いたくなっちゃうじゃないですか」
言いつつ、エイムはニコニコと微笑んでいた。
冒頭の話に戻ってしまうが、この通りエイムは前者の人間らしい。
後先考えずに買ってから、こうして俺やティオに分けてくれるのだ。
「ティオさんはどこにいますか? お買い物は一旦やめて、お昼にしようかと思ったんですけど」
「ま、まだ食べるんですか?」
「? 食べるの、楽しいですよ」
ちまきっぽい海鮮飯をモキュモキュしながら、ティオにも同じものを進めに行っていた。
真剣な目でロッドと指輪を凝視していたティオは煩そうに振り返ったが、エイムの手に乗せられたちまきに目を輝かせると、顔だけ乗り出してちまきに噛り付いた。
別に構わないが、行儀が悪い。
魔道具売りのおっちゃんも、ロッドと指輪を手にしながら犬のようにちまきを食べるティオを見て、目が点になっていた。
食べさせている当のエイムは気にした様子も見せず、柔らかな微笑みを浮かべながらティオが咀嚼する光景を眺めていた。
流石に店の真ん前で食事をするのは営業妨害に当たりそうだったので、俺はティオとエイムを連れてそそこさと広場の端まで退散した。
ティオは結局、指輪ではなくロッドを買うことに決めたらしい。
実験とか言って火の玉を浮かべていたので、すぐに水魔法で消してやった。
人混みで暴発したら危ない。
エイムが買ってきた料理をベンチ代わりの丸太の上に広げて、少々遅いお昼ご飯だ。
貝か何かの串焼きに、ちまきとパエリアを混ぜたような海鮮飯。――トリスコールでは滅多に見かけないものばかりだ。
エイム曰く、海がある国から来た行商人から買ったらしい。
「この粒々したやつ、美味しいね」
ティオも米が気に入ったらしい。
よく噛んでよく味わいながら、気が付けば十個近く食べ終えていた。
エイムに関しても同じく。慎ましやかにゆっくり食べているように見えるが、実際彼女はもう結構な量の料理を食べ終えたはずである。
この世界の人たちは食欲が旺盛なのだろうか。
「アヤメさんは小食ですね。遠慮なさっているのですか?」
エイムはそんなことを言いながら、残った串焼きを全部一人で食べてしまった。
こんなに食べてもこの体型なのだから、末恐ろしいことだ。
裏で過酷なダイエットでもしているのか――、いや、きっと栄養のほとんどが胸にいっているんだろう。
実際にそんなことが起こりうるのかは知らないが。
腹もくちくなったところで、昼食の時間は終了。
気になった書物も三冊ほど買えたし、後は家に帰って静かに読書っていうのも良いな。
あまり連れまわすとティオも疲れてしまうだろうし、あと数時間もすれば日も沈んでしまうだろうし。
決して、俺が疲れてしまったわけではない。
「はぁ、久しぶりにお腹いっぱい食べました」
「珍しいものばっかりで、すごく楽しかった」
エイムとティオは幸せそうに、丸太の上で食休みをしていた。
後で纏めて捨てるために集めた串や植物の葉が幾つあるのかは、数えないようにしておこう。
でも多分これだけは言える。
ティオだけでも、俺の倍以上は食べているはずだ。
「さっきのやつ美味しかったけど、どこに行けば買えるかな?」
「あれはトリスコールでは手に入りにくいですね。魚介類を食べるのは初めてですか?」
「ぎょか――うん、リーシャにいる時もここに来てからも、食べたのは初めて」
「そうだったのですかー。レイスは私も初めてでしたが、魚介類は私の故郷にもありましたから、そこまで珍しいものでは無いと思いますよ」
「また食べられるかな?」
「ええ、きっと食べられますよ」
レイスと魚介類、か。遠い異国の地まで赴けば、寿司や刺身のようなものも食べられるのだろうか。
生魚を食べる風習は、広まってなさそうだな。
とはいえ、ここには解毒魔法やら治癒魔法はある。
意外と海のある国では、そういった料理も流行っているかもしれないな。
生で食べられる魚が生息しているかどうかは分からないが。
「お二人は、もうお帰りですか?」
「あー、えっと。どうする、アヤメお兄さん?」
「俺は構わないけど、ティオはどう? 疲れたならもう終わりでも良いし、まだ見たいところがあるなら、まだいても大丈夫だよ」
本だったらいつでも読めるからな。
それに意外と、また掘り出し物の魔道具とか書物を見つけることができるかもしれないし。
ティオはエイムと俺を交互に見やると、ぴょんと丸太から飛び降りて、俺に問いかけてきた。
「もう一回だけ、周っても良い?」
「ああ、良いよ。それじゃ一緒に行こうか」
ティオと手を繋いで振り返ると、エイムも丸太から降りて後ろに付いてきた。
どうやら一緒に周りたいらしい。
まあ縁日を一人で周るなんて、つまらないし寂しいからな。
本当に五年前の俺は何であんなことをしたんだろうか。
ティオを真ん中にして、エイムと俺の三人で道中を歩む。
長身スレンダーな優しそうなお姉さんと、年頃の青年に挟まれて歩く童女。傍から見ると、どのような光景なのだろう。
夫婦――には見えないしな。
間違っても、童女と青年が思い人同士で、お姉さんだけが赤の他人だとは思わないだろう。
道中冷やかしがてら出店を眺めていると、時折面白い商品も見受けられる。
例えば雑草だけを探知して枯らしてしまう魔道具だとか、来客を察知すると鈴のような音が家中に鳴り響くものだとか。
どことなく、元の世界にもありそうな感じの魔道具が幾つか見つかった。
掃除機のようなものはないかなとちょっと探してみたのだが、見当たらなかった。
残念。
だが二周目の冷やかしで面白い書物も見つけることができた。
様々な詠唱や魔法陣が描かれた、誰かの創作物――要は、所謂『俺が考えた格好良い詠唱・魔法陣』が記された書物だ。
勿論書いてある内容に効力はなく、魔法は発動しない。
ちなみに大銀貨一枚だった。
手書きの本がそれくらいするのは仕方ないだろうが、これ買う人いるんだろうか。
ちなみに俺は買っていない。
気にはなったけど。
魔道具、書物と来て今度はまた料理の香りが漂ってきたが、さしものティオやエイムでも今度は反応しなかった。
良かったよ。
これでまた「小腹が空きましたから」とか言い出したらどうしようかと思った。
なんてことを思ったのがフラグになったのか、不意にティオとエイムが立ち止まった。
何事かと思った直後。
甘辛い香りが薄くなったところで、別方向からふわっとした香りが漂ってきた。
思わず口の中が湿ってしまうような、甘い香り。
この香り――どこかで嗅いだことがあるような気がする。
この世界に来てからは初めてだと思うが、しかしどこかで――。
「良い匂いがしますね」
「行ってみよう、アヤメお兄さん」
エイムとティオに連れられ、甘い香りを漂わせる一角へと赴く。行ってみると、どこかで見たことのあるようなものが、バスケットの中に入っていた。
パンというにはモサモサしており、ケーキというにはあまりに質素で。
パンケーキ――いや違う。何かもっとこう、高級そうな名前だった気がする。
あれだ。プレーンのパウンドケーキとクッキーを足して二で割ったような感じか。
頭に浮かんだのは、パウンドケーキだ。ドライフルーツとかチョコレートが埋まってるパウンドケーキは好物だった。
とはいえパウンドケーキと呼ぶには何となく堅そうに見える。
これはやはりクッキーなのか。はたして。
「これ、味見させてもらってもよろしいかしら」
「私も、私にも一個頂戴!」
「……俺も戴きましょうか」
試食用の欠片が銅貨一枚だったので、エイムとティオと一緒に味見する。
……味は、悪くない。
ここ数か月食べていたものと比べれば、甘くて(ちょっとゴリゴリするけど)ふわふわしていて美味しい。
とはいえ元の世界のケーキやクッキーを知っている身としては、何かちょぴっとだけ味気なく感じる。
お菓子の神がこの世界に舞い降りるのは、まだ先のことらしい。
とか思いつつティオとエイムを見やると――、
「ん、んんっ? ん――! す、すごく美味しい」
「はぅ……。甘くて、柔らかくて、とろけそう」
二人の甘味センサーにはクリーンヒットしたらしい。
幸せの世界に入り浸ったような二人の顔は、言ってみればヘンゼルとグレーテル――言わばお菓子の家を見つけたかのような至福の表情だ。
ティオは表情をとろけさせ、エイムは何やら悶えながらキツネミミをピコピコと忙しなく動かしていた。
しっぽがパタパタと跳ねている。
相当の衝撃を受けたらしい。
「こ、これ買います!」
試食用の欠片を食べ終えたエイムは迷わず銀貨を取り出して魅惑のお菓子(?)を購入した。
「わ、私も! 良いでしょ? アヤメお兄さん!」
さっきの「こういうのは自分で買いたい」だとか言っていた娘はどこに行ったのか、「買って!」とせがまれた。
あんな幸せそうな顔で強請られて、買わないわけが無いだろう。
一包み銀貨三枚程度だったので、ラスティのお土産もかねて――。
「これは絶対プリムヴェールの好きそうな味だわ。トリスコールに流通してる材料で、どうにか再現できないかしら……」
その科白は銀貨三枚を手渡そうとした俺の動きを止めるのに充分な威力を保持していた。
そうだ。プリムヴェールも「ヤキガシ」とやらを食べて嬉しそうにしていた。
ラスティにお土産で買うなら、プリムヴェールにも買うのが同義だろう。
そうに決まっている。
銀貨三枚をポケットに仕舞い、大銀貨一枚を代わりに差し出す。
三包みだ。どうやら数日程度ならもつらしいので、家に帰った後でお茶と一緒に戴くことにしよう。
しかし……。異世界の少女たちも、こういうものが好きなのか。
俺にお菓子作りスキルがあれば、この幸せそうな顔をいつでも見られるのに。
まあでも俺って応用力ないし、材料の不足があったらどうせ作れないか。
この世界の卵は、何か形状とか変わってるし。
「それではアヤメさん。いきなりですみませんが、私はここでお暇させていただきますね!」
そわそわとしっぽをパタつかせながら、エイムは口元を緩めていた。
早く帰って、今買ったお菓子を食べたいのだろう。
顔に書いてある。
「わかりました。今日は楽しかったです。お気を付けて」
「はい、私も今日はとっても楽しかったです!」
雑踏に消える背中を見送ってから、俺はティオに向かって振り返る。
さて、うちのお嬢様は何て言うかな。
「アヤメお兄さん。今度は、あっちの方周ろ? 良いでしょ?」
まだまだ元気溌剌らしい。
ローブの裾をぐいぐいと引っ張られ、雑踏の中へ連れ込まれる。
楽しそうにはしゃぐティオの笑顔を見ていると――、何かこう、疲れも吹っ飛ぶな。
その日は夕日が沈みかけるまで、ティオとの縁日デートを心行くまで楽しんだのだった。
◇ ◇ ◇
周囲が宵闇に包まれた頃、俺とティオは自宅へと戻って来た。
鍵を開けようとドアを見ると、案の定鍵がかかっていなかった。
全く、不用心だな。ラスティは上級魔族だから、家に鍵をかける習慣は無いのだろうか。
いや、流石にこれは偏見かな。
だが戸締りをしっかりするのは、悪いことではない。
あとで一応伝えておこう。
玄関で靴を脱ぎ、リビングへ向かう。
リビングのドアを開けると、ボンデージ姿のラスティがうつ伏せのまま倒れていた。
外傷はない。金品を荒らされた形跡もなく、脈もちゃんとある。
ただ眠っているだけだ。
それにしても幸せそうな寝顔だな。
口端から涎を垂らしながら気持ちよさそうに眠っている。
時折足の先がピクッと痙攣している。少し疲れが溜まっているようだ。
起こしてしまっては可哀想だな。
だがこのままだと風邪をひいてしまう。
治癒魔法があるから別に良いだろとも思うが、だからといってわざわざ風邪をひかせる必要もない。
とりあえず毛皮のタオルケットをかけておく。
後でベッドに運んでおこう。
「ティオ、買ってきたものを棚に仕舞から手伝ってくれるか?」
「――――うん」
眠たそうに眦を擦りながら、ティオは毛皮で出来た買い物袋の中身を部屋に並べる。
俺はそれらを的確に整理して、棚の中に並べていく。
保存の効く料理を幾つか買ってきたので、明日の朝ご飯にしよう。
今日は晩飯抜きで良いだろう。
ティオも疲れたようで眠たそうだし、ラスティはあの通りぐっすりだ。
俺も腹が減っているわけではない。
昼飯も少し遅かったからな。
「ティオ、もう寝るか? それとも、一応お風呂だけは入っとくか?」
「……お風呂、いい。今日は、疲れた」
ティオが風呂に入らないということは――、風呂を沸かさないということだ。ラスティも熟睡しているため、代わりに沸かしてくれる人もいない。
俺はオドが使えないから、湯を沸かす魔道具が使えないのだ。
人混みにお出かけした日に風呂に入らないというのはちょっとあれだが、無理に入れるのも可哀想だ。
沸かすだけ沸かしてくれと頼むのも――――仕方ない。俺も諦めるか。
水魔法でシャワーだけでも浴びよう。
スタッフを使えば、冷水を頭から浴びる程度なら出来るだろう。
「ほらティオ、力を抜いて」
「ん、アヤメお兄さん」
半分以上寝かかったティオをお姫様抱っこして、階段を上って寝室へ向かう。
一応寝間着に着替えさせ、ベッドに寝かせて布団をかけると、すぐに寝息を立て始めた。
天使のように愛らしい寝顔だ。
暫しの間それに見惚れてから、ティオが今さっき脱いだばかりの洗濯物を抱えて階下へ降りる。
普段は入浴ついでに風呂の中で洗濯をするのだが、本日の分は明日の朝にでもやれば良い。
――そうなると、ラスティの衣服が洗えなくなってしまうな。
流石にお湯も沸いていないのに、朝からすっぽんぽんにするわけにもいかない。
仕方ない。一日だけ、洗わずに我慢してもらおう。
リビングで丸まって眠るラスティを横目に、洗濯ものをもったまま脱衣所へ。
ティオの普段着を籠の中に投げ込み、俺もローブや下着を脱ぎ捨て、籠に入れる。
浴室に入り、スタッフを使って水魔法を頭からかける。
ついでに石鹸やタオルを使い、一応身体や髪に付着した汚れを落として、一息つく。
「今日は楽しかったな」
人混みは嫌い。他の人と合わせるくらいなら誰とも関わらないと決め込んでいた当時では考えられないことだが、うん。ティオやエイムと縁日のような場所を周るのは、何だかんだいって楽しかった。
また行きたいな。
髪の先端から滴る雫を眺めながら、ふと溜息を吐く。
そういえば、ティオだっていつかは成長して、大きくなるんだよな。
十四歳――十六歳と成長したティオ。その時も、ティオは今みたいに俺と接してくれるのだろうか。
俺のことを好きでいてくれるのだろうか。
他に好きな人が出来て、いなくなってしまうかもしれないな。
いつまでも一緒にいてくれれば、それは嬉しいけど。
俺だって、この世界に一生いられるとは限らないんだから。
夢はいつか覚めるもの。
それが俺の場合、どちらに転ぶのかは分からない。
戻れるかもしれないという幻想こそが、将来的に覚まされる夢なのか。この世界にいられるという事実こそが、夢という名の幻想なのか。
今現在の心情としては、元の世界に戻りたいとは一片も思っていない。
何かのはずみで戻れた――魔導書に書き込んで、元の世界に戻れたとしても。俺はそれを、試したいとは思っていない。
一度でも戻ってしまい、それで夢が覚めたら――魔法のない世界に行った途端、もうこっちの世界に戻れなくなったら。
そう思うと、一時帰還用の魔法を書きこんでみようなどとは、考えただけで恐ろしい。
だからこそ、俺はここに呼ばれた理由が知りたい。
転移した原因がもし、この世界で何かを成し遂げることなのだとしたら。
遂げることで、強制的に元の世界へ帰還させられるのだとしたら。
それを遂げるのは、この世界に未練が無くなってからにしたい。
もう、あんな寂しい世界には、戻りたくない。
スタッフから溢れ出る水が止まり、刹那的に身震いして脱衣所へ向かう。
暗い浴室で水浴びなんてしたからか、センチな気分になってしまったな。
脱衣所にて身体を拭き終えたところで、俺は寝間着を階上に置きっぱなしだったことに気が付いた。
仕方が無いので一応腰にタオルだけ巻いて、寝室まで取りに向かうことにする。
浴室を出て階段を上る途中で、ラスティの姿が目に入った。
ついでだから、ラスティも連れて行ってしまおう。
リビングにちょこっとだけ寄り道をして、ラスティをお姫様抱っこして階段を上る。
胸板に触れる体温に、スースーする全身。何か変な解放感に妙な心地良さを感じてしまう。
出来るだけ足音を立てないよう階段を登っていたのだが、半分近く上った辺りで、不意にラスティが目を覚ました。
「んぅ……? 妾は、妾はいったいどうしたんじゃ?」
「リビングに転がったまま熟睡していましたよ。大分お疲れのようですから、今日はもう寝てしまいましょう」
眠気眼に虚ろな光を灯していたが、少し覚醒してきたのか、ラスティはほんのりと頬を染めてみせた。
「そ、そうか……。うむ、久しぶりの楽園、素晴らしかったぞ」
「あまり詳しく聞きたくないので、そこの回想は省いてもらって良いですか?」
「そうじゃの。他の殿方とまぐわった話など聞きたくないじゃろうからの。それくらい流石の妾でも分かって――む、むむ?」
ラスティの頬が胸板に摺り寄せられ、彼女は「?」といった顔で俺の胸を凝視した。
次いで開いた方の手で胸板をなぞり、嬉しそうに目を細めた。
「ふふ、殿方、裸、お姫様抱っこ。ふふふ、にぃ様の抱いている思いは、分かっておるぞ」
「違いますよ。寝間着と下着を寝室に置きっぱなしだったので、着ていないだけです」
細められていたラスティの瞳が、驚きに瞠目した。
「む、下着もか? にぃ様が素肌を晒しているのは、上半身だけではないのか! 全てなのか! 全ての肌を外気に晒しておるのか!」
「興奮しすぎですよ! いつも三人で風呂に入ってる時、隅々まで見ているでしょう」
「ふ、風呂場で見る裸とそうでない場所で見る裸には、また違った魅力があってじゃの……」
また何かを言いだしそうな雰囲気を纏ったところで、突如ラスティの表情が堅くなった。
「どうかしたんですか?」
「……妙な感覚がする。何かが迫ってきているような、」
「ダークエルフかオークの女衆が、取り囲んでいるんじゃないですかね」
よくもうちの旦那を、息子を誑かしたわね! とか。
ラスティならやりかねない。
実際今日は、それをしに森へ入ったんだから。
「いや、そういった粗末な脅威などではない。何じゃったか……、この感覚。遥か昔年の頃に、火大陸で体感したような――」
言い終えるより先に、ラスティはゾクリと身を震わせた。
「にぃ様、ちょっと妾を下ろしてくれ。暴力的な殺気が、凄まじい速度でこちらに向かって来ておる!」
尋常ではない焦燥の様子。
急いでラスティを廊下に下ろすと、ラスティは階段を駆け下り、
「嫌な予感がする! にぃ様よ、寝間着ではなく、一応ローブに着替えて待っておれ! 状況を確認でき次第、すぐに戻ってくる!」
言いながら、ラスティは家を飛び出していった。
何があったのか、俺には欠片も察しがつかない。
とはいえ何かしらの危険因子が近づいてきているらしいことは確実だ。
俺はラスティの言葉に従い、下着だけ新しくしてから階下へ戻ると、洗濯ものの籠から自分のローブを引きずり出して、急いで身に纏った。
一応魔導書とスタッフを用意して玄関まで出ると、丁度ドアが開き、ラスティが戻って来た。
「何があったんですか?」
「見た方が早い、来るんじゃ!」
息を切らせたラスティに手を取られ、靴も満足に履かずに玄関から躍り出る。
「あれじゃ! 脅威の正体は、あれだったのじゃ!」
ラスティが指さす先には、真っ黒な暗雲が浮かんでいた。
夕日も完全に沈み、濃紺色の混じった宵闇はやがて星々の散らばる夜空へと変貌するはずの仄暗い空。
そこに、凄まじい速度でこちらに向かってくる真っ黒な雲が一つ。
否、それは雲では無かった。
そして、一つなどでも無かった。
「……あれって、もしかして」
真っ黒な大軍。
空を翔ける、闇のように黒い巨躯をもつ脅威。
俺はそれに値するものと、一度だけ剣を交わしたことがある。
おっきくて、くろくて、禍々しい雰囲気を醸し出す、奴のすがたを。
遠い空を真っ黒に染めるほどの悪魔の大軍が、再度王都を侵略せんと送り込まれて来たのだ。




