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第8話 「フォーマルナイト」

何処までも続く青い空と海。

その間をクルーズ船がゆっくりと進む。


駿は…

船室のベッドの上。


うつ伏せに枕を両腕に抱えて

まだ、夢の中にいる。


陽が高く上り始める。


駿は明るさに目を細める。


寝返りを打つ。


鍛えられた左腕を額の上に乗せ、

しばらく天井を見つめる。


そして


駿は小さく息を吐く。


ベッドに腰を下ろすと

軽く黒髪をかき上げ

シャワー室へ消えていった。


やがて水音が止む。


シャワールームから出てきた駿は

濡れた黒髪をタオルで軽く拭きながら、

スマホを見る。


9:56


「こんな時間か…」


ラフな格好に着替えると船室を出た。


———


窓ガラスいっぱいに陽の光が差し込む

フィットネスセンター。


その一角にあるプール。


蓮は、一人で泳いでいた。


水を切るように、

静かに腕を伸ばす。


一掻き。


また一掻き。


規則正しい呼吸。


水面から顔を上げると、

濡れた茶髪を軽くかき上げる。


肩で息を整えながら、

大きく息を吐いた。


プールサイドへ上がる。


水滴が肩から腕を伝い、

そのまま床へ落ちていく。


蓮はタオルを手に取り、

髪を拭きながら窓の外を見る。


どこまでも続く青い海。


「……気持ちいいな」


そう呟くと、

もう一度海を眺めた。


——


駿は船内のガーデンエリアに来ていた。


散歩道のある中庭のような空間が広がっている。


天井から差し込む陽の光。


緑の葉が風に揺れ、

色とりどりの花が道の両側を彩っている。


駿はゆっくりと歩いていた。


時々立ち止まっては、

花を眺める。


「……船の中に庭って、すげぇな」


小さく呟く。


再び歩き出す。


大きなガラス越しに、

遠くまで続く青い海が見えた。


駿は足を止める。


海と緑。


その景色をしばらく眺めていた。


——


プールサイドから上がった蓮は、

着替えてティーラウンジに来ていた。


アイスティーを飲みながら、

窓の外の海を眺めている。


その時――


「あの……」


蓮が振り向く。


女性二人が立っていた。


「ヴァイオリニストの蓮さんですか?」


蓮

「……そうだけど」


二人の顔がぱっと明るくなる。


「やっぱり!」


「先日の演奏、聴きました」


「すごく素敵でした!」


蓮

「……」


蓮は少し戸惑ったように、

手にしていたグラスを見る。


「どうも……」


小さく頭を下げる。


女性の一人が笑う。


「突然すみません」


「ずっとお声をかけようか迷っていて……」


蓮

「……そう」


女性

「写真、一緒に撮っていただいてもいいですか?」


蓮

「写真……?」


一瞬、目を瞬かせる。


「……俺でよければ」


女性二人が嬉しそうに笑う。


蓮は少しだけぎこちなく立ち上がった。


——


駿はガーデンエリアを出ようと、

ゆっくり歩いていた。


その時――


「あの……駿さんですよね?」


駿が振り向く。


「そうですが」


女性三人の顔が、

一気に明るくなる。


「やっぱり!」


「先日の演奏、すごくよかったです!」


駿は優しく微笑む。


「ありがとう」


女性の一人が少し照れながら尋ねる。


「写真、一緒に撮っていただいてもいいですか?」


駿

「いいですよ」


女性三人が嬉しそうに駿のそばへ集まる。


駿は自然な笑顔で、

カメラに顔を向けた。


——


夕方。


二人とも、それぞれの部屋へ戻っていた。


駿はバルコニーに出て、

夕日に染まる海を眺めている。


オレンジ色の光が、

ゆっくりと海の上を流れていく。


その頃――


蓮は船室でシャワーを浴びていた。


船内放送が流れる。


「本日はフォーマルナイトです。


今夜は船内すべてのエリアで、

フォーマルな装いをお楽しみいただけます。


レストランやラウンジをはじめ、

船内各所で特別な夜をお過ごしください。


皆さま、いつもとは少し違う装いで、

素敵なひとときをお楽しみください」


シャワーの水音が止まる。


しばらくして――


蓮がシャワールームから出てくる。


濡れた茶髪をタオルで拭きながら、

ベッドの上に

用意してあったタキシードを見る。


「……これか」


タオルを肩にかけ、

しばらく眺める。


やがてシャツに袖を通す。


白いシャツの襟を整え、

黒いタキシードを羽織る。


ボタンを留め、

鏡の前に立つ。


濡れた茶髪を手で軽く整える。


普段のラフな服装とは違う。


鏡の中にいるのは、

ステージの上とは

また違った雰囲気の蓮だった。


蓮は少しだけ首を傾げる。


「……慣れねぇな」


そう呟きながら、

ネクタイを整える。


その仕草さえ、

いつもより静かで大人びて見えた。


一方――


バルコニーから部屋へ戻った駿。


夕日の余韻を残したまま、

着ていたシャツを脱ぐ。


そして、

タキシード用の白いシャツに袖を通す。


袖口を整える。


ボタンを一つずつ留めていく。


黒いタキシードを手に取り、

そのまま羽織る。


鏡の前に立つ。


黒い髪を軽くかき上げ、

襟元を整える。


いつもの笑顔も、

ラフな服装もそこにはない。


黒いタキシードに身を包んだ駿は、

どこか凛として見える。


駿は鏡を見ながら、

小さく笑う。


「……こんなもんか」


最後に袖口を整える。


その何気ない仕草まで、

妙に様になっていた。


——


しばらくして――


船室の扉が同時に開く。


「…………」


「…………」


二人は一瞬、互いを見る。


駿は黒いタキシード。

蓮も黒いタキシード。


「……行くか」


「あぁ」


二人は並んで歩き出した。


「今日は何してたんだよ?」


駿が聞く。


「泳いできた」


「お前が?」


「何だよ?」


「いや、意外だなと思って」


「そっちは?」


「ガーデンエリアの散歩」


蓮が駿を見る。


「似合わねっ!」


「なんでだよ!」


二人はいつも通り、

くだらない話をしながら歩いていく。


エレベーターを降りる。


扉が開いた瞬間――


二人の目の前に、

いつもとは違う船内の景色が広がっていた。


吹き抜けのアトリウムには

大きなシャンデリア。


ドレス姿の女性たち。

タキシードやスーツ姿の男性たち。


ラウンジではグラスを片手に談笑する人々。


どこからか、

ジャズの音色も聞こえてくる。


船全体が、

今夜だけ少し特別な場所になっていた。


駿と蓮は、

そんな景色の中をいつも通り歩いていく。


けれど――


すれ違う人々が、

ふと二人に目を向ける。


二人は周囲の視線など気にせず、

そのままレストランへ向かった。


入口に着くと、

スタッフが笑顔で出迎える。


「お二人様ですね」


「あぁ」


駿が答える。


スタッフが席へ案内する。


今夜の船は、

いつもいつもとは違う雰囲気の店内。


テーブルには白いクロス。

グラスが並び、

照明も少し落とされている。


案内された席に着くと、

次々と料理が運ばれてくる。


「……うまそうだな」


駿が料理を見て笑う。


「お前、そればっかだな」


「だって、うまそうだろ」


蓮も小さく笑う。


二人はゆっくりと食事を楽しんだ。


やがて最後の料理が下げられる。


「食ったな」


駿が満足そうに椅子にもたれる。


「……あぁ」


蓮もグラスの水を一口飲む。


いつもの食事とは少し違う、

静かで優雅なディナー。


けれど――


二人が席を立つと、

またいつものように並んで歩き始める。


レストランを出る。


廊下には、

まだフォーマルな装いの乗客たちが

行き交っている。


女性たちは色とりどりのドレス。

男性たちはタキシードやスーツ。


ラウンジからは音楽が聞こえる。


「……どっか行くか?」


駿が言う。


「まだ時間あるしな」


蓮が答える。


二人は顔を見合わせる。


「じゃあ、見て回るか」


「あぁ」


今夜は、

いつもの船とは少し違う。


せっかくのフォーマルナイト。


二人はそのまま、

夜の船内へ歩き出した。


しばらく歩いていると、

ビリヤード台が

置かれたラウンジが目に入った。


「……ビリヤード?」


駿が足を止める。


「やる?」


蓮が聞く。


「やってみるか」


二人はビリヤード台へ向かった。


駿はタキシードの上着を脱ぎ、

椅子の背にかける。


白いシャツの袖を軽くまくる。


キューを手に取ると、

台の上のボールを見つめた。


さっきまでの笑顔が消える。


身体を低くして、

キューを構える。


黒髪が額に落ちる。


静かに狙いを定め――


カンッ。


白いボールが走る。


続けて別のボールに当たり、

ポケットへ吸い込まれていく。


「……入った」


駿が顔を上げる。


「たまたまだろ」


蓮が笑う。


「じゃあ、お前やってみろよ」


駿がキューを渡す。


蓮は受け取ると、

ゆっくり台の周りを歩いた。


ボールの位置を確認する。


そしてキューを構える。


身体を低くした瞬間、

茶色の髪がさらりと落ちる。


蓮は気にする様子もなく、

片手で髪をかき上げる。


そのまま目線をボールへ戻す。


指先でキューを支え、

ゆっくりと腕を引く。


カンッ。


狙ったボールが、

真っ直ぐポケットへ入った。


「……ほら」


蓮が顔を上げる。


駿が笑う。


「やるじゃん」


「お前に言われたくねぇ」


二人は笑いながら、

再び台へ向かう。


その頃――


近くにいた乗客が、

二人のプレイに気づき始めていた。


一人。


また一人。


ラウンジで談笑していた人たちも、

いつの間にかビリヤード台へ

視線を向けている。


やがて、

二人の周りには

少しずつ人が集まり始めた。


けれど、

駿も蓮も気づいていない。


駿は腰を屈め、

長い腕を伸ばして狙いを定める。


蓮はその反対側から、

静かに駿の手元を見ている。


カンッ。


乾いた音がラウンジに響く。


ボールが走る。


ポケットへ――。


入った。


「……!」


周囲から小さな歓声が上がる。


駿は顔を上げる。


「次、蓮な」


「あぁ」


蓮がキューを受け取る。


「負けねぇからな」


「こっちの台詞だ」


二人は顔を見合わせる。


そして――


蓮は

一歩、台へ近づく。


身体を屈める。


茶髪が頬にかかる。


蓮はそれを気にすることもなく、

静かに狙いを定める。


一瞬、

ラウンジが静かになる。


カンッ――。


ボールが走る。


ポケットへ吸い込まれた。


「……おぉ」


誰かが息を漏らす。


女性たちは思わず身を乗り出す。


二人がキューを構えるたび、

周囲の視線が集まっていく。


次の一打。


また次の一打。


いつの間にか、

誰もが二人の勝負を見つめていた。


駿が狙う。


蓮が見る。


駿が打つ。


蓮が返す。


乾いた音だけが、

静かになったラウンジに響いていく。


誰もが息をするのを忘れたように、

その勝負を見つめていた。


駿がテーブルを一周する。


最後に残ったボールを見つめる。


「……これ、入るか?」


蓮が反対側から見る。


「入れてみろよ」


駿が少し笑う。


「言ったな?」


キューを構える。


身体を低くし、

静かに狙いを定める。


そして――


カンッ。


白いボールが走る。


クッションに当たり、

角度を変える。


一度。


二度。


そして最後のボールへ――


カンッ。


ボールはゆっくりと

ポケットへ吸い込まれていった。


一瞬の静寂。


次の瞬間――


「おぉぉ……!」


周囲から歓声と拍手が起こる。


駿はキューを立て、

ふっと笑う。


「……入ったな」


蓮が笑いながら近づいてくる。


「最後だけはやるじゃん」


「最後だけって何だよ」


二人は顔を見合わせる。


周囲からはまだ拍手が続いていた。


「面白かったな」


「だな」


二人はキューを戻す。


そして――


何事もなかったように、

その場を離れた。


二人がいなくなると、

残された乗客たちが顔を見合わせる。


「……すごかった」


そんな声が聞こえる。


けれど二人は、

もう次の場所へ向かっていた。


「次、どこ行く?」


駿が聞く。


蓮は少し考える。


「……上のデッキでも行くか」


「いいな」


二人はエレベーターへ向かった。


二人はエレベーターを降り、

そのまま上のデッキへ向かった。


途中でシャンパンを受け取ると

デッキへ出る。


夜の海が広がっていた。


昼間とはまるで違う。


船の明かりが海面に細く伸び、

波が静かに揺れている。


駿は手すりの前で足を止める。


「……静かだな」


「あぁ」


蓮も隣に並ぶ。


二人はしばらく何も言わず、

海を見つめていた。


その時——

船内放送が流れた。


「まもなく、フォーマルナイトの最後を彩る花火が始まります。」


駿

「花火?」


蓮

「聞いてねぇぞ」


駿が笑う。


「確かに」


デッキに人が集まり始める。


カメラを構えた人々。

グラスを持った人々。


その時——


ヒュルルル……


夜空に一筋の光が昇っていく。


ドンッ!


大輪の花火が夜空いっぱいに、

いくつも広がった。


やがて最後の花火が夜空に消える。


船内放送が流れた。

「皆さま、

今宵はありがとうございました。」


二人ともタキシード姿のまま。

お互い顔を見る。


そして


「乾杯」


カチン。


グラスが少し触れる。


蓮が笑う。


風が吹く。


駿の黒髪が揺れる。


蓮の茶髪も風に流れる。


駿

「戻るか!」


フォーマルナイトの夜が終わった。


第8話 フォーマルナイト 完。

お読みいただきありがとうございます。

次回、第9話「スイス ルツェルン」です。

お楽しみに。

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