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第2話 「ギリシャ・ミノコス島」

ここはバルコニー付き客室。


カーテンの隙間から朝の光が差し込み、

室内を淡く照らしている。


ガラス戸の向こうには青い海。


バルコニーには

小さなテーブルと椅子が置かれ、

船は静かに港へ向かっていた。


ベッドの上では蓮が眠っている。


少し乱れた茶色い髪。


シーツは半分ほど身体から滑り落ち、

肩から腕にかけてのラインが覗いていた。


だが本人は全く起きる気配がない。


しばらくして。


コンコン。


「……」


応答なし。


今度は少し強めに。


ドンドン!


「……」


それでも反応はない。


駿は深く息を吐いた。


スマホを取り出す。


呼び出し音。


客室のどこかでスマホが鳴る。


一秒。


二秒。


三秒。


ベッドの上で蓮が眉をひそめた。


「……あ?」


掠れた寝起きの声。


「あ?じゃねぇー。開けろ」


駿の声がドア越しに聞こえる。


蓮はゆっくり身体を起こした。


片手で髪をかき上げる。


寝起き特有の気怠さを残したまま、

ベッドから降りる。


引き締められた上半身があらわになる。

裸足でドアへ向かった。


鍵を開ける。


ドアが開く。


そこには呆れた顔の駿が立っていた。


「お前なぁ」


「……まだ眠い」


そのまま駿が客室へ入ってくる。


蓮はドアを閉めると、

何も言わずにシャワールームへ向かった。


ほどなくして水音が聞こえ始める。


駿はバルコニーへ出た。


白いシャツに濃い色のパンツ。


朝の海風に黒い髪を揺らしながら、

椅子に腰掛ける。


目の前には寄港地の街並みが

少しずつ近付いていた。


やがて水音が止む。


しばらくして蓮が姿を現した。


ざっくりした白いTシャツにチノパン。


シャワーを浴びたばかりの茶色い髪は

まだ少し濡れている。


首筋に残った水滴が

朝の光を受けて小さく光った。


蓮は気怠そうに椅子へ腰を下ろす。


駿はそんな蓮を見て言った。


「朝メシどうする?」


蓮は海を眺めながら答える。


「ルームサービスでいいんじゃねぇか」


駿は蓮の部屋番号を伝え、

ルームサービスを二つ頼んだ。


ほどなくしてスタッフがやって来る。


コンコン。


駿がドアを開けた。


ワゴンには焼きたてのクロワッサン。


オムレツ。

色鮮やかなフルーツ。

そして湯気の立つコーヒー。


スタッフは、二人の料理を

バルコニーのテーブルへ並べた。


二人はテーブルに着く。

朝の海風が心地良い。


船はゆっくりと港へ近付いている。


遠くには寄港地の街並み。


白い建物が朝日に照らされ、

穏やかに輝いていた。


駿はコーヒーカップを手に取る。


「あぁ……」


満足そうに息を吐く。


そして小さく呟いた。


「いいなこれ」


蓮はクロワッサンを一口齧る。


サクッと軽い音がした。


「あぁ」


それだけ答える。


会話は続かない。


潮風が吹く。

船が静かに進む。


二人はそれぞれ朝食を楽しみながら、

近付いてくる寄港地を眺めていた。


———


その後。


船内放

送が流れる。


「まもなく港へ入港いたします」


船内が少しずつ賑やかになる。


乗客たちが客室から出て、

デッキへ向かい始めた。


駿は立ち上がる。


「行くか」


白いシャツの胸元に掛けていた

サングラスを手に取る。


蓮は麦わらの中折れハットを被った。


「だな」


駿は、蓮を見て言う。


「それ買ったのか」


蓮


「あぁ」


駿


「似合うな」


蓮


「そうか?」


二人は客室を後にする。


デッキへ出ると、

目の前には寄港地の街並みが

広がっていた。


船はゆっくりと速度を落としていく。


やがて岸壁が近付き、

ロープが渡される。


スタッフたちが忙しく動き回る。


しばらくして下船が始まった。

乗客たちが次々と船を降りていく。


その中に、

駿と蓮の姿もあった。


強い陽射しが石畳を照らしている。


青い海。


どこまでも続く青空。


白い壁の建物が並ぶ港町は、

まるで絵葉書のようだった。


土産物屋が軒を連ね、

店員たちの呼び込みの声が飛び交う。


オープンカフェには色鮮やかなパラソル。


観光客たちの笑い声。


港町全体が活気に満ちていた。


その中を駿と蓮は並んで歩く。


白いシャツにサングラスの駿。


潮風が吹くたび、

白いシャツが揺れる。


麦わらの中折れハットの影が、

蓮の横顔に落ちた。


細い石畳の小道が

迷路のように続いている。


猫が気持ちよさそうに眠っていた。


窓から窓へ渡された洗濯物が、

風に揺れる。


遠くから波の音。


潮の香りを含んだ風が吹き抜けた。


蓮は帽子を軽く押さえながら、

波の音がする方へ視線を向ける。


路地の先。


建物の隙間から、

青い海が見えた。


陽射しを受けた海面が

きらきらと輝いている。


「海だな」


蓮が小さく呟く。


駿はその先を見て、

少し笑った。


「港町なんだから当たり前だろ」


「……それもそうか」


蓮も少しだけ笑う。


二人は再び歩き出した。


路地の両端には

土産物屋が所狭しと並んでいる。


色鮮やかな雑貨。


ガラス細工。


小さな陶器。


観光客たちで賑わう店先を眺めながら歩く。


その時だった。


ふと、

ショーウィンドウに視線が止まる。


ガラスに映っていたのは、


麦わらの中折れハットを被った蓮。


その隣にはサングラスを掛けた駿。


白い街並みと青い空が重なり、

まるで一枚の絵のようだった。


「何見てんだ?」


蓮が不思議そうに聞く。


駿は視線を外した。


「別に」


そう言って歩き出す。


蓮は首を傾げながら後を追った。


少し歩くと、

広場の先に小さな教会が見えてくる。


白い壁。


青い空を背にした鐘楼。


陽射しを受けて静かに佇んでいた。


駿は足を止める。


そして教会を見上げた。


「入ってみるか」


振り返る。


蓮も視線を上げた。


「あぁ」


二人は並んで教会へ向かう。


扉の前で足を止めた。


駿は片手でサングラスを外した。


蓮もハットの中折れ部分に

指を掛ける。


麦わらの中折れハットを取った。


押さえられていた茶色い髪が、

ふわりと解ける。


潮風が吹いた。


少し乱れた髪を、

蓮は無造作にかき上げる。


駿は静かに扉を押した。

二人は教会の中へ入っていく。


外の喧騒が扉の向こうへ遠ざかった。


ひんやりとした空気。


白い壁。

整然と並ぶ木の椅子。


ステンドグラスから差し込む光が、

床に淡い色の模様を落としている。


赤。

青。

金色。


揺れることのない静かな光。


二人は自然と足音を忍ばせた。


遠くから聞こえる波の音だけが、

かすかに耳に届いていた。


駿が天井を見上げる。

蓮も視線を追った。


静寂が広がる。


「響きそうだな」


駿が小さく言う。


蓮は少しだけ笑った。


「あぁ」


二人はしばらく教会の中を見て回る。


祭壇。

ステンドグラス。

静かな祈りの空間。


やがて駿が出口へ向かった。

蓮も後に続く。


扉を開ける。


眩しい陽射しが差し込んだ。

思わず目を細める。


駿は片手でサングラスをかける。


蓮は手に持っていたハットを頭に乗せた。


潮風が吹き抜けた。


観光客たちの声。


潮風。

波の音。


「やっぱ外暑いな」


駿が言う。


「さっきからそればっかだな」


蓮が笑った。


「行くか」


駿が言う。


「あぁ」


二人は港へ向かって歩き出した。


港へ出ると、


海沿いに

カフェやレストランが並んでいた。


白いパラソル。

潮風に揺れるメニュー。

観光客たちの楽しそうな声。


駿は一軒の店の前で足を止める。


「ここでいいか」


海がよく見えるテラス席だった。


蓮も海を見て頷く。


「あぁ」


二人は席に腰を下ろした。


海がよく見えるテラス席。


潮風が心地良い。


駿はサングラスを外し、

テーブルの上に置く。


海風に黒髪が揺れた。


蓮がメニューを読む。


そして顔を上げた。


「飲むか?」


駿は少し考える。


「一杯だけな」


ほどなくして料理が運ばれてくる。


香ばしく焼かれたシーフード。


レモンをたっぷり絞り、

オリーブオイルがかけられている。


焼きたてのパン。

フェタチーズ。


そして。


グラスの表面に水滴をまとった、

琥珀色のビール。


二人はグラスを軽く合わせた。


ビールを一口。

喉が小さく動く。


潮風が吹き抜ける。


遠くでは小さな船が行き交い、

陽射しを受けた海面がきらきらと輝いていた。


「うまいな」


蓮は、

そう言ってグラスを置く。


「あぁ」


駿も頷く。


それ以上の言葉はいらなかった。


———


レストランを出た二人は

港沿いをゆっくり歩く。


土産物屋を覗く。


蓮が、店先に並んでいたお洒落な

ナンバープレートを手に取る。


駿はそれを見る。


蓮は無言で棚に戻した。


「買う気だったのか」


「別に」


そのまま歩き出す。


数分後。


なぜか二人ともジェラートを持っていた。


駿、歩きながら

蓮のジェラートを覗き込む。


「お前、何にしたんだよ」


蓮

「ん?レモン」


「お前は?」


蓮が聞き返す。


駿は手に持ったジェラートを見る。


「エスプレッソ」


「お前好きだな」


「うまいぞ」


「絶対苦い」


「苦くない」


「嘘つけ」


二人は歩きながらジェラートを口にする。


港が見えてきた。


白い船体。


乗船を待つ観光客たち。


遠くには、

自分たちが乗るクルーズ船の姿も見える。


蓮はジェラートを一口食べる。


「帰ったら何する?」


「シャワー」


駿が即答した。


「だろうな」


「お前は?」


「シャワー」


「同じじゃねぇーか」


少しだけ笑う。


潮風が吹き抜けた。


振り返る。


白い街並み。


青い海。


賑やかな港町。


短い滞在だったが、

悪くなかった。


「また来たいな」


蓮が言う。


駿も頷いた。


「あぁ」


二人はジェラートを食べながら、

船へと続く桟橋を歩いていった。


そして、

しばらくすると出港のアナウンスが流れる。


駿は軽く手を上げた。


「じゃあ後で」


「あぁ」


二人はそれぞれの船室へ戻る。


⸻


シャワーを終えた駿は、

濡れた髪を無造作にかき上げる。


黒いシャツに袖を通す。


鏡の前で襟元を整える。


昼間、

港町を歩いていた男の姿はもうない。


静かに視線を上げる。


鏡の向こうには、

ステージに立つ男がいた。


⸻


一方、

蓮もシャワーを終えていた。


白いタオルを首に掛けたまま、

ヴァイオリンケースを開く。


弓を手に取る。


ゆっくりと弦を鳴らした。


澄んだ音が船室に響く。


もう一度。


短く音を確かめる。


茶色い髪を指で整え、

ジャケットを羽織る。


さっきまで

レモンのジェラートを食べていた男とは、

まるで別人だった。


静かな眼差しが鏡に映る。


その目は、

もう観光客のものではない。


演奏家の目だった。


⸻


しばらくして。


駿はヴァイオリンケースを手に船室を出た。


廊下の先から、

同じようにケースを持った蓮が歩いてくる。


昼間のラフな服装とは違う。


二人とも演奏用の装いだった。


「いい時間だな」


蓮が頷く。


「行こうか」


二人は並んで歩き出した。


船内はディナーへ向かう乗客たちで

賑わっている。


その中を、

黒いケースを手にした二人が

通り過ぎていく。


すれ違う乗客たちが、

思わず振り返る。


小さな声。


「演奏家かな?」

「たぶん」


そんな会話が聞こえた。


だが二人は気にする様子もない。

歩調は変わらない。


エレベーターへ乗り込み、

静かに扉が閉まる。


次の階で開く。


再び歩き出す。


ケースを抱えたまま、

長い廊下を進んでいく。


やがて。


『出演者控室』


と書かれたプレートが見えた。


駿はその前で足を止める。

蓮も隣に並んだ。


「じゃあ行くか」


駿がドアノブに手を掛ける。

そして二人は控室の中へ入っていった。


控室には、

すでに演奏の準備が整えられていた。


それぞれ椅子に腰を下ろした。


何も喋らない。


蓮はヴァイオリンを取り出し、

弦を確かめる。


短く音を鳴らす。


それだけ。


観光中なら、

とっくに何か話している。


だが今は違った。


部屋にあるのは、

演奏前特有の静けさだけだった。


しばらくして

スタッフが呼びに来る。


コンコン。


スタッフがドアを開ける。


「お時間です」


二人は立ち上がった。

ケースを手に取る。


言葉はない。

視線も交わさない。


そのまま出口へ向かう。


二人は

当たり前のようにステージへ。


———


メインホールは満席だった。


幾重にも並ぶ客席。


金色の装飾が照明を受けて

静かに輝いている。


高い天井。


赤い絨毯。


舞台を包み込むような重厚な空間。


観客たちの期待が、

ステージへと集まっていた。


その時。


照明がゆっくりと落ちる。


ざわめきが消えていく。


一人。


また一人と口を閉ざす。


やがてホールは静寂に包まれた。


そして。


ステージ袖から二人が現れる。


拍手が沸き起こった。


駿。


蓮。


二人は歩調を合わせ、

ステージ中央へ進む。


一礼。


再び拍手。


だがそれも次第に静まっていく。


二人は定位置に立った。


ヴァイオリンを構える。


客席にいる誰もが、

次の瞬間を待っていた。


静寂。


弓が弦に触れる。


一音目。


それはホールの隅々まで届き、

空気そのものを震わせた。


蓮の音が鋭く切り込む。

迷いのない音。


真っ直ぐに客席を貫いていく。


その音を、

駿が受け止める。


包み込むように。

深く沈めるように。


だが次の瞬間。

立場が入れ替わる。


今度は駿が前へ出る。

蓮が追う。


絡み合う。

ぶつかる。

奪い合う。


まるで

音で言葉を交わしているようだった。


いや。


言葉なら、

ここまで本音は出ない。


二人の音は遠慮を知らない。


挑発する。

応える。


さらに挑発する。

応える。


その応酬が続く。


客席から見れば、

どちらが主役なのか分からない。


どちらが支えているのかも分からない。


気付けば、

誰もが音に飲み込まれていた。


蓮の音が空気を切り裂く。


鋭く。

激しく。


その音を追うように、

駿の音が広がる。


深く。

どこまでも深く。


二人の音は絡み合い、

ぶつかり合いながら

高みへと駆け上がっていく。


誰も瞬きをしない。

誰も動かない。


客席にいる全員が、

ただ音だけを追っていた。


そして。


蓮が弓を振り抜く。

まるで挑戦状を叩き付けるような一音。


駿が応える。


受け止める。

飲み込む。


さらにその先へ連れていく。


音が重なる。

ぶつかる。

響き合う。


ホール全体が震えているようだった。


二人の視線が交わる。


ほんの一瞬。


次の瞬間。

音が解き放たれる。


まるで嵐だった。


いや。

嵐よりも激しい。


感情そのものが音になったような演奏。


客席にいる誰もが、

息をすることさえ忘れていた。


そして。


最後の一音。

長い余韻がホールに残る。


静寂。


誰も動かない。

誰も拍手をしない。


音が消えていくのを、

ただ見送っていた。


一秒。


二秒。


三秒。


やがて。


割れんばかりの拍手が

ホールを包み込んだ。


歓声。


喝采。


立ち上がる観客たち。


だが。

ステージの上の二人は静かだった。


駿は軽く息を吐く。


蓮はヴァイオリンを下ろす。


言葉はない。


ただ。

二人は小さく一礼した。


スタンディングオベーションが続く中。

二人はステージを下りた。


ホールのドア近くで聴いていた、

あるスタッフが


「あれ……?トマトの人?」


———


二人は控室へ戻った。

ドアが閉まる。


ようやく緊張が解けた。


蓮はジャケットのボタンを外す。


駿はテーブルに置かれていた

ミネラルウォーターを手に取った。


キャップを開ける。


一気に飲み干す。


蓮も続く。


まだ演奏の余韻が残っていた。


やがて。

駿が空になったボトルを置く。


「腹減ったな」


蓮が笑う。


「あぁ」


———


船室に戻ると、

さっきまでの舞台の空気は

もう残っていなかった。


シャワーの水音が静かに響く。


熱を帯びていた身体が

少しずつ冷えていく。


鏡の前に立つと、

もうステージの顔ではない。


ただの“二人”に戻っていく。


⸻


駿は麻のシャツに着替えて

船室から出て来た。


そして

廊下の先から、涼しげなブルーの

シャツ姿の蓮が歩いてくる。


「飯、行くか」


「あぁ」


二人は並んで歩き出した。


船内の廊下には、

ディナーへ向かう乗客たちの

気配が流れている。


すれ違いざまの視線も、足音も、

どこかざわついていた。


駿がふと口を開く。


「なぁ…蓮」


「なんだよ」


「……なに食う?」


蓮は少しだけ間を置いてから答えた。


「パエリアでいいんじゃねぇの」


その瞬間、駿の足がわずかに緩む。


「あぁ」


短くそう言った、その時だった。


廊下の先、

ガラス張りの壁越しに温かな光が見えた。


オレンジ色の照明。

香ばしい匂い。

鉄鍋の音。


『Spanish Restaurant』


という控えめなサイン。


駿はそのまま視線を向ける。


「……ここか」


蓮も歩きながら店の看板を見上げる。


「あぁ」


二人はほとんど迷いもなく、

その入口へと向かった。


⸻


扉を開けた途端、

空気が変わった。


熱気と笑い声が混ざり合う。


テーブルの上には色とりどりの料理。

グラスが軽くぶつかる音。


誰も遠慮していない空間だった。


駿が一度だけ店内を見渡す。


「活気あるな」


蓮は少しだけ頷く。


「あぁ」


その時

「こちらへどうぞ」

スタッフがテーブルへ案内する。


テーブルに着く二人。

駿がメニューを見る。


分かるように写真付き。


駿、笑いながら

「へぇー」


スタッフ


「お飲み物はいかがなさいますか?」


駿はメニューを見ながら少しだけ考える。


「サングリアで」


蓮も短く続く。


「あぁ、それで」


駿

「それから、シーフードパエリア」


スタッフ

「かしこまりました」


しばらくすると、

スタッフがサングリアを二つ

テーブルに置いた。


駿と蓮は軽く視線を交わし、

グラスを持つ。


「乾杯」


短くそう言って、グラスが触れる。


数分後。


スタッフが大皿を中央に置いた。


「シーフードパエリアです」


鉄鍋の縁で、

まだ小さく音がしていた。


湯気がふわりと立ち上る。


エビと貝、

黄金色のライス。


香ばしい匂いが広がる。


駿は一瞬だけ目を細める。


「……いい匂いだな」


蓮は短く頷く。


「あぁ」


二人は取り皿を手に取り、

淡々とパエリアを取り分けていく。


「うまい」


「ん」


それだけの言葉で、

会話は止まる。


レストランの奥から、

別のテーブルの声が混ざってきた。


「さっきのヴァイオリンコンサート聴いたか?」

「いや、もう入れなかったよ」

「でもあれは聴くべきだろ」

「お前が、そこまで言うの珍しいな」


駿と蓮は、

何も言わずに食べていた。


蓮

サングリアを一口飲む。


「食ったな」


駿


「あぁ」


駿、サングリアを飲み干して


「そろそろ出るか」


「そうだな」


二人は席を立った。


賑やかなレストランを後にする。


扉が閉まると、

少しだけ静けさが戻った。


船内の廊下には、

柔らかな照明が続いている。


レストラン帰りの乗客たち。


ショーへ向かう人々。


それぞれが夜の時間を楽しんでいた。


駿

「バーでも行くか」


蓮は軽く頷く。


「あぁ」


二人は並んで歩き出した。


しばらくすると、

遠くからピアノの音が聞こえてくる。


グラスが触れ合う小さな音。


人々の笑い声。


そして。


『Sky Lounge』


と書かれたプレートが見えた。


⸻


扉を開ける。


柔らかな灯り。


大きな窓。


窓の向こうには夜の海。


海そのものは見えない。


ただ、

船が進むにつれて揺れる僅かな光と、

黒い水平線だけが広がっていた。


「暗ぇな」


駿が窓の外を見る。


蓮も視線を向ける。


「あぁ」


スタッフ


「いらっしゃいませ」


二人は窓際の席へ案内された。


スタッフがメニューを差し出す。


駿はページをめくる。


色とりどりのカクテル。


蓮も横から覗き込んだ。


「何にする」


駿は少し考える。


「せっかくだしカクテルにするか」


蓮も頷く。


「あぁ」


⸻


しばらくすると。


細長いグラスが二つ運ばれてきた。


片方は深い青。


もう片方は琥珀色。


グラスの表面には

細かな水滴がついている。


駿はグラスを持ち上げる。


「乾杯」


蓮もグラスを合わせた。


小さな音が鳴る。


駿


「うまいな」


蓮はグラスを眺める。


「……悪くねぇな」


客はそれほど多くはない。

低く流れるピアノが心地よい。


ゆっくりグラスを傾ける駿と蓮。


どこかの席から

女性たちの声が聞こえてくる。


「今日のコンサート、本当に凄かった」

「私、途中で息するの忘れてた」

「次も絶対行く」


駿の手が僅かに止まる。


蓮もグラスを持ったまま視線を上げる。


ほんの一瞬。


だが次の瞬間。


何事もなかったように

二人はグラスを傾けた。


その時だった。


カウンターの向こうから

バーテンダーが歩いてくる。


コトッ。


二人の前に新しいグラスが置かれた。


駿


「……?」


蓮


「頼んでねぇぞ」


バーテンダーは小さく笑う。


「お疲れ様でした」


そして去る。


二人は顔を見合わせる。


グラスが静かに触れる。


窓の外には夜の海。


船は次の寄港地へ向かっていた。



第2話 「ギリシャ・ミノコス島」 完。

お読みいただきありがとうございます。

次回、第3話「駿と蓮のある一日」です。

お楽しみに。

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