第1話 「旅のはじまり」
早朝のデッキ。
水平線の向こうから昇った朝日が、
どこまでも続く海を金色に染めていた。
船の進みに合わせ、
波がゆっくりと砕けていく。
その海を、コーヒー片手に眺める駿。
白いシャツにジーンズ。
素足のまま履いたデッキシューズ。
白いシャツの袖は無造作に捲られ、
黒い髪は海風に乱されている。
朝日を受けた白いシャツの隙間から、
健康的に焼けた肌が微かに覗いた。
駿は静かにコーヒーを口に運ぶ。
その横顔を、
朝の光が柔らかく照らしていた。
その頃、蓮は…
船室のベッドの上。
まだ、夢の中にいる。
寝返りを打った瞬間。
ドンッ!
落ちた。
「イテッ!」
ベッドから落ちた拍子に、肩に掛かっ
ていたシーツがするりと滑り落ちる。
蓮は軽く茶色い髪をかき上げ
ベッドに腰を下ろした。
スマホを手に取る。
スマホの時計は朝の6時過ぎを示している。
そして
メッセージを送る。
宛先 駿
“どこ”
直ぐに既読がつく。
“デッキ”
“後で行く”
蓮はスマホを閉じた。
しばらく天井を見上げる。
船は静かに揺れている。
(朝か……)
もう一度、ベッドを見る。
落ちたままの枕。
蓮は小さくため息をついた。
「……最悪だ」
そう呟いて立ち上がる。
そして
シャワールームに消えた。
そして数分後。
デッキで海を眺める駿の横に、
蓮が現れる。
ラフに羽織ったアロハシャツにジーンズ。
素足のままデッキシューズを履いている。
海風が吹くたび、
開いた胸元から素肌が覗いた。
まだ少し眠そうな表情で、
蓮は駿の隣に並ぶ。
駿は蓮を見て
ただ一言。
「落ちたのか」
「何で分かる」
「音した」
「聞こえるわけねぇだろ!」
駿、笑いながら
「毎回だろ」
「うっせーなぁ」
駿は心底楽しそうに
蓮を見て笑ってる。
朝日に輝く白いデッキと青い海。
駿の笑う顔が眩しく見えた。
蓮は、軽く息を吐いて
海を眺める。
二人、並んで海を眺める背中に
海風が柔らかく吹く。
しばらくして
駿は蓮の方を見て、
「腹減ったなぁー、飯行こうぜ!」
蓮はふっと笑った。
「あぁ、そうだな」
二人、並んでデッキを後にする。
船内へ続くガラス扉が開く。
吹き込んでいた海風が遠ざかり、
代わりに
静かなピアノの音色が耳に届いた。
大きな吹き抜けには煌めくシャンデリア。
磨き上げられた床には朝日が反射し、
金色の光がゆっくりと揺れている。
ゆるやかに続く階段。
海を望むラウンジ。
色鮮やかな花々が飾られたロビー。
朝の船内はまだ人も少なく、
どこか穏やかな空気に包まれていた。
駿と蓮は並んで歩く。
途中、ガラス張りの通路から見える海が
青く輝く。
まるで海の上を歩いているようだった。
やがて二人は
ビュッフェレストランへ辿り着く。
大きな窓の向こうには果てしない海。
店内には焼きたてのパンの香りが漂い、
色とりどりのフルーツ、
卵料理、
ソーセージ、
サラダが美しく並んでいる。
駿は真っ先に料理へ向かう。
「おっ、うまそう!
蓮!早く来いよ!」
(ガキかよ…)
蓮、ちょっと笑う。
二人は朝食の皿を手に取った。
幾つかのパンに
卵料理にソーセージ、サラダと
次々と皿に乗せていく。
海側の席に腰を下ろす。
大きな窓の向こうには、
どこまでも続く青い海。
駿はしばらく海を眺めてから、
コーヒーを一口飲んだ。
蓮はそんな駿を見て、
「……それ何杯目だよ」
と呆れたように聞く。
「まだ二杯目」
そう言って駿は、
パンをちぎって口に運ぶ。
蓮は寝起き感の残る顔のまま、
ぼんやりと駿の皿を見る。
そして。
「あ……それ、うまそう」
フォークを持つ手が、
自然と駿の皿へ伸びた。
「……それ一口くれ」
「じゃあ、お前のも寄越せ」
「交換かよ」
「公平だろ」
そう言いながら、
駿は蓮の皿からソーセージを一本奪った。
しばらくして
駿はテーブルの上に置かれていた
船内マップを広げた。
駿
「色々あるな」
蓮は
コーヒーを飲みながらマップを覗き込む。
プール。
シアター。
ラウンジ。
ゲームルーム。
スポーツデッキ。
ショップ。
スパ。
蓮、少し考えて
「まずは…これか?」
蓮が指差した先には
『ショッピングエリア』
の文字。
駿はニヤッと笑う。
「お前が?」
「何だよ」
「買い物とか興味ねぇだろ」
「見るだけだ」
二人はレストランを出て、
『ショッピングエリア』へ向かった。
船内へ足を踏み入れると、
吹き抜けのアトリウムが目に入る。
何階分もの高さがある空間には、
大きなシャンデリアが輝いていた。
朝の光を受けたガラス細工は、
まるで海の雫のようにきらめいている。
磨き上げられた床には、
天井の光が柔らかく映り込んでいた。
ゆるやかな階段の先にはラウンジ。
大きな窓の向こうには青い海が広がり、
ソファに腰掛けた乗客たちが
思い思いの朝を過ごしている。
「広いな」
駿が辺りを見回しながら呟く。
「船っていうよりホテルだな」
蓮も周囲を見渡した。
静かなピアノの音色がどこからともなく
流れてくる。
すれ違う乗客たちは皆どこか穏やかで、
急いでいる者は一人もいない。
船は海の上を進んでいるはずなのに、
不思議と揺れはほとんど感じなかった。
やがて二人は、
ガラス張りのショーウィンドウが並ぶ
一角へ辿り着く。
『ショッピングエリア』
金色の文字が掲げられた入口の先。
服にカバン、腕時計にメガネ
高級ブランド店が並ぶ。
その中を見て歩く駿と蓮。
そして駿は、並んだ高級ブランド店の先にあるギフトショップの前で足を止めた。
「おっ」
「ん?」
迷いなく入って行く駿。
蓮、少し息を吐く。
ギフトショップには
船のロゴが入ったグッズや旅の記念品が並ぶ。
船のロゴ入りマグカップ。
船のキーホルダーにマグネット。
そして記念になりそうな
ポストカード。
駿は、面白そうに見てる。
その時
駿は、キャップを見つける。
「蓮!これ似合うんじゃね⁈」
キャップのつばさ部分が赤。
正面にはカラフルな色で
welcome to cruise shipの文字。
そして横にクルーズ船の絵。
蓮
「は?」
「そのアロハに似合うぜ!被ってみろよ!」
駿、ニヤニヤしながら、
蓮の頭にキャップを被せた。
「…ちょっ!お前!やめろよ!」
蓮は帽子を取ろうとして——
駿の動きが止まる。
「あ?」
不機嫌そうな蓮。
アロハシャツ。
少し乱れた茶色い髪。
そして
観光客丸出しの派手なキャップ。
本来なら絶対に
似合わないはずなのに。
妙に似合っていた。
「……」
「何だよ」
「いや……」
駿は思わず視線を逸らす。
「似合ってる」
「は?」
「いや、似合ってる…」
蓮は怪訝そうな顔をする。
「だから買えよ、それ…」
「買うか!」
蓮、即答。
駿は肩をすくめる。
「絶対似合うのになぁ」
「しつこい」
「記念になるぞ」
「いらねぇ」
そんなやり取りをしながら、
二人はギフトショップを後にした。
ショッピングエリアを歩いていると、
甘い香りが漂ってくる。
駿が足を止めた。
「ん?」
「どうした」
駿はある方向を指差す。
そこには色鮮やかなジェラートが並ぶ店。
「食うか」
「いいな」
駿と蓮、二人は店に入って行く。
蓮
「お前、どれにするよ?」
「こんだけあると、迷うな」
蓮、ケースを見ながら
「俺これ」
指差した先にはマンゴージェラート。
鮮やかなオレンジ色が目を引く。
駿、真剣に考えながら
「お前がそう来るなら…俺これ」
駿が選んだのはエスプレッソ。
深い茶色のジェラート。
「朝からコーヒー飲んでただろ」
「だからだ」
蓮、笑う。
「意味わかんねぇー」
二人は、ジェラートを受け取ると
海が見えるベンチに腰を下ろす。
目の前には青い海。
駿はエスプレッソジェラートを一口。
ほろ苦いコーヒーの香りが広がる。
「うまい」
蓮もマンゴージェラートを口に運ぶ。
「ん」
蓮は、爽やかな甘さ
少しだけ目を細めた。
「どうだ?」
駿が聞く。
「うまい」
「だろ」
「お前が作ったみたいに言うな」
そして数分後。
蓮は駿のジェラートを見る。
「……それどんな味?」
「コーヒー」
「一口」
蓮がスプーンを伸ばす。
エスプレッソジェラートを口に入れた瞬間、
「苦っ!」
思わず顔をしかめた。
駿が吹き出す。
「何で食えるんだよ」
「うまいから」
「意味分かんねぇ」
今度は駿が
蓮のマンゴージェラートを一口。
「甘っ!」
駿が即答。
「甘くねぇーだろ」
「甘い」
「甘くねぇ」
「いや、甘い」
「お前が苦いの食い過ぎなんだよ」
と、いいながら互いのを
ひと口、ふた口と食べる二人。
そして
ジェラートを食べ終えると、
駿は近くに置かれていた船内新聞を
手に取った。
「何見てんだ?」
蓮が覗き込む。
駿は新聞の一角を指差した。
『スパ施設見学ツアー
本日開催
お試しマッサージ付き』
「へぇ」
蓮は興味があるのかないのか、
よく分からない声を出す。
「行ってみるか?」
駿が聞く。
「別にいいけど」
「決まりだな」
駿は新聞を畳んで立ち上がった。
二人は海の見えるベンチを後にする。
ショッピングエリアを抜け、
エレベーターホールへ向かう。
吹き抜けのアトリウムには、
昼の光が差し込んでいた。
磨き上げられた床には
シャンデリアの光が揺れている。
駿は船内新聞を見ながら言った。
「スパは十四階らしい」
「上だな」
蓮はエレベーターの表示を見上げる。
しばらくして扉が開いた。
二人は乗り込み、
ゆっくりと上階へ向かう。
数字がひとつずつ増えていく。
十階。
十一階。
十二階。
やがて扉が開く。
そこは先ほどまでの賑やかな船内とは、
まるで別世界だった。
柔らかな照明。
静かに流れる音楽。
ほのかに香るアロマ。
大きな窓の向こうには、
どこまでも続く青い海が広がっている。
「……すげぇな」
蓮が思わず呟く。
「ああ……」
駿も辺りを見回した。
受付の奥には、
温水プールやサウナへ続く通路が見える。
『SPA TOUR
本日開催』
案内板の前には、
すでに数人の乗客が集まっていた。
案内スタッフは笑顔で説明を続ける。
「こちらはアロマトリートメントルームです」
駿
「おぉー」
蓮
「すげぇな」
柔らかな照明に包まれた室内には、
落ち着いた香りが漂っている。
ゆったりとした音楽が流れ、
窓の向こうには青い海が広がっていた。
「本日はお試しマッサージもご用意しております」
案内スタッフがそう言うと、
奥から別のスタッフが現れる。
「よろしければこちらへどうぞ」
スタッフはタオルを手に、
にこやかに二人を案内した。
駿と蓮は顔を見合わせる。
「やるか?」
「せっかくだしな」
マッサージスタッフ
「ご旅行ですか?」
「まぁ」
終始にこにこしながら
「肩や首など、お疲れのところはありますか?」
「肩は特に」
「力加減は大丈夫ですか?」
「あぁ…」
マッサージスタッフ
「どちらから?」
「日本」
マッサージスタッフ
「何かスポーツでもされてますか?」
駿
「いや?」
蓮
「別に」
「お二人とも肩周りがしっかりされてますね」
「仕事柄です」
蓮が答える。
「お仕事は何をされてるんですか?」
駿と蓮は顔を見合わせる。
ほんの一瞬。
そして。
「農家です」
駿が言った。
蓮は吹き出しそうになる。
「へぇ!」
スタッフは素直に感心した。
「どんなものを?」
「……色々」
「お二人で?」
「そうです…」
スタッフは感心したように頷く。
「ご兄弟で農家さんなんですね」
「まぁ……」
蓮は視線を逸らした。
「素敵ですねぇ」
「そうですか?」
「ええ。何を育てているんですか?」
沈黙。
駿と蓮は顔を見合わせる。
一秒。
二秒。
三秒。
そして。
「……野菜です」
駿が言った。
「何の野菜ですか?」
再び沈黙。
「トマト」
駿が答えた。
蓮が駿を見る。
「トマト?」
「トマト」
「へぇ」
スタッフは頷く。
「収穫は大変そうですね」
「そうですね」
駿も頷く。
蓮、笑いを堪えるのに必死。
「忙しい時期とかあります?」
「あります」
「いつ頃ですか?」
「……」
「……」
「……」
「色々です」
「そうなんですね」
スタッフは満面の笑みだった。
二人は同時に思う。
(助かった……)
二人が去った後、
スタッフさんが同僚に
「素敵なご兄弟でしたね!
農家さんなんですって」
駿と蓮に悪気はないのだが…。
———
スパ施設を後にした二人は、
再び船内新聞を広げた。
駿の目がある記事で止まる。
『鉄板焼きステーキ
無料デモンストレーション』
「次これ」
駿が指差した。
蓮は新聞を見る。
そして。
「お前、さっき朝飯食っただろ」
「見るだけだ」
「嘘つけ」
二人は会場へ向かった。
⸻
会場には既に多くの乗客が集まっていた。
中央には大きな鉄板。
白いコックコートを着たシェフが立っている。
「本日は鉄板焼きステーキの実演をご覧いただきます」
シェフが笑顔で頭を下げた。
直後。
熱せられた鉄板の上に肉が置かれる。
ジュゥゥゥゥゥ―――!!
辺りに香ばしい音が響いた。
「……」
駿が黙る。
蓮も黙る。
肉が焼ける。
ジュゥゥゥゥ―――!!
シェフが手際よく肉を裏返す。
香りが広がる。
「……」
「……」
二人とも何も言わない。
「お前」
蓮が小声で言った。
「ん?」
「腹減っただろ」
「減った」
即答だった。
そして試食タイム。
小さく切り分けられたステーキが配られる。
駿は一口食べた。
「うまい」
蓮も続く。
「うまいな」
二人は頷き合う。
珍しく意見が一致した。
小さく切り分けられたステーキを食べ終える。
「うまかったな」
蓮が呟く。
「あぁ」
駿も頷いた。
数秒の沈黙。
そして。
「……」
「……」
二人は同時に会場の奥を見る。
そこには鉄板焼きレストラン。
大きな窓から海が見える。
シェフたちが忙しそうに料理をしていた。
「……」
「……」
再び沈黙。
駿が言う。
「行くか」
「だな」
即決だった。
大きな鉄板を囲むカウンター席。
目の前で
ニンニク
きのこ
ステーキ
が焼かれる。
シェフがフランベ
を始めると
駿
「おぉ」
蓮
「おぉ」
そしてランチ到着。
⸻
ジュゥゥゥゥ……
熱々の鉄板の上に、
美しく焼かれたステーキ。
付け合わせの野菜。
ガーリックライス。
香ばしい香りが立ち上る。
駿はナイフを入れた。
「やわらかっ」
蓮も続く。
「うまいな」
「うまい」
2人はステーキを堪能した。
窓の向こうでは、
青い海がどこまでも続いている。
「食ったな」
蓮が満足そうに言う。
「あぁ」
駿はグラスを持ち上げた。
琥珀色のビールが揺れる。
蓮もまた、グッっとビールを飲む。
しばらく席で休んだ後、
二人は鉄板焼きレストランを後にした。
———
船内を抜け、
海風の吹くデッキへ。
デッキにあるカフェでは、
乗客たちが思い思いの時間を過ごしている。
「コーヒー飲むか」
駿が言った。
デッキのカフェに腰を下ろす。
午後の陽射しが海面に反射していた。
遠くまで続く青い海。
潮風が心地良い。
駿は迷わずコーヒーを注文する。
「お前は?」
蓮は呆れた顔をして。
「またかよ」
「頼むもんないだろ」
蓮、スタッフの方を見て
「コーヒーで」
駿
「同じじゃねぇーか」
蓮、少し笑う。
午後の光が少しずつ柔らかくなる。
海は昼の青から、
ゆっくりと金色へ変わっていく。
デッキでは乗客たちが足を止め、
サンセットを待っていた。
その時だった。
どこからか、
弦楽器の音が風に乗って聞こえてくる。
ごく小さな音。
けれど。
駿の視線が動いた。
蓮も同じ方向を見る。
「……聞こえたか?」
駿が言う。
「あぁ」
蓮が頷く。
二人は自然と耳を澄ませた。
ヴァイオリン。
それだけではない。
ヴィオラ。
チェロ。
重なり合う音。
「ラウンジか」
駿が立ち上がる。
蓮もカップを置いた。
「行くか」
「あぁ」
ラウンジへ向かう途中、
船内の窓から夕日が見えて、
音が少しずつ大きくなる。
そして扉を開くと――
⸻
ラウンジの中央には小さなステージ。
第一ヴァイオリン。
第二ヴァイオリン。
ヴィオラ。
チェロ。
弦楽四重奏が演奏を始めていた。
大きな窓の向こうでは、
夕日がゆっくりと海へ沈んでいく。
乗客たちが静かに席へ着いていく。
そして
駿と蓮も後方の席につく。
「上手いな」
蓮が呟く。
駿が頷く。
「音が綺麗だ」
弦楽器の音色が静かに響く。
音楽と海。
ただそれだけ。
そしてその後、
演奏会が終わった帰り道。
駿がぽつりと
「久しぶりに客席で聴いたな」
蓮が
「たまには悪くねぇ」
———
夕陽が水平線の向こうへ沈み、
船は静かな夜の海を進んでいた。
船内のメインダイニング。
ディナーの案内を見た蓮が足を止める。
「待て」
「ん?」
駿が振り返る。
蓮は案内板を指差した。
『本日のドレスコード
スマートカジュアル』
数秒の沈黙。
「……」
「……」
二人は自分の格好を見る。
アロハシャツ。
ジーンズ。
デッキシューズ。
「……戻るか」
蓮が言った。
「あぁ」
珍しく駿も即答だった。
———
2人は船室に戻り、ドアを閉めた。
しばらくして――
着替えを終えた駿が、先に船室を出る。
黒いシャツに、濃紺のジャケット。
昼間のラフな姿とはまるで違う。
海風にさらされていた黒い髪も、
今は整えられている。
船内の柔らかな照明が、
その横顔を静かに浮かび上がらせた。
少し遅れて、蓮が出てくる。
白いシャツに、グレーのジャケット。
昼間のアロハシャツ姿から一変して、
落ち着いた大人の雰囲気をまとっている。
茶色い髪が照明を受け、
柔らかな色に見えた。
駿が振り返る。
蓮も、駿を見る。
一瞬。
互いに何も言わなかった。
昼間とは違う相手が、
そこにいるような気がした。
駿の視線が、
ほんの少しだけ蓮に留まる。
蓮もそれに気づいたのか、
わずかに眉を上げた。
「……なんだよ」
「別に」
駿は視線を逸らす。
「行くぞ」
「ああ」
二人は並んで歩き出した。
———
船内のメインダイニングへ。
扉の向こうに広がっていたのは、昼間までのカジュアルな船内とはまるで違う空間だった。
高い天井からは大きなシャンデリアが
下がり、無数の灯りが柔らかく輝いている。
広々としたフロアには、白いクロスが掛けられたテーブルが並び、磨き上げられたグラスと銀色のカトラリーが整然と置かれていた。
大きな窓の向こうには、夜の海。
船の明かりが波に揺らめき、
遠くまで続く暗い海を静かに
照らしている。
駿は思わず周囲を見回した。
「すげぇな」
蓮も窓の外へ目を向ける。
「船の中とは思えねぇ」
スタッフが二人に気づき、
笑顔で近づいてきた。
「駿様、蓮様ですね。
こちらのお席へどうぞ」
案内された席に腰を下ろす。
スタッフがメニューを開く。
「本日のおすすめはこちらでございます」
二人はメニューを覗き込む。
駿
「……これにするか」
蓮
「俺もそれでいい」
二人が料理を決めると、
スタッフが続けた。
「お飲み物はいかがなさいますか?」
駿と蓮は顔を見合わせる。
駿
「おすすめは?」
スタッフは慣れた様子で微笑んだ。
「お選びいただいたお肉料理でしたら、こちらの赤ワインがおすすめでございます」
スタッフがワインを一つ示す。
「じゃあ、それで」
二人は即決した。
———
やがて、ワインが運ばれてくる。
グラスに注がれた深い赤色の液体が、
シャンデリアの灯りを受けて静かに輝いた。
駿はグラスを持ち上げる。
「乾杯」
「何にだよ」
「船旅」
蓮は少し笑った。
「まぁ、いいか」
軽くグラスを合わせる。
カチン――。
小さな音が、二人の間に響いた。
その直後、前菜が運ばれてきた。
色鮮やかな野菜に、
薄く仕立てられた魚料理。
皿の中央にはソースが美しく添えられ、
立ち上る香りが食欲を誘う。
「うまそう」
駿がナイフとフォークを手に取る。
一口食べると、蓮も続けて口に運んだ。
「……これ、うまいな」
「だろ?」
赤ワインを口に含む。
濃厚な味わいが、料理の余韻を包み込む。
やがてメイン料理が運ばれてきた。
蓮の前には、焼き上げられた牛ヒレ肉。
表面には香ばしい焼き色がつき、
切り分けると、柔らかな赤身が現れる。
添えられた野菜とソースが皿を彩り、
湯気とともに肉の香ばしい香りが漂った。
蓮はフォークを入れる。
すっと刃が入る。
「……」
一口食べ、蓮は小さく頷いた。
「これ、正解だな」
「だろ?」
二人はワインを飲みながら、
今日一日の出来事を話していた。
ギフトショップでのこと。
スパで農家を名乗ったこと。
思い返せば、
なかなか濃い一日だった。
料理を楽しみながら、
二人の会話は続いていく。
そんな中、ふいに駿が言った。
「そういや明日だな」
蓮は牛ヒレ肉を切り分けながら聞き返す。
「何が」
「演奏」
蓮の手が止まる。
「……」
駿を見る。
駿も蓮を見る。
数秒。
蓮はようやく思い出したように頷いた。
「あぁ」
駿は吹き出した。
「おっそ!」
「仕方ねぇだろ」
蓮も少し笑う。
二人はグラスを傾ける。
窓の外では、夜の海が静かに流れていた。
船の明かりが波に揺らめき、
遠くの水平線は暗闇に溶けている。
しばらく二人は、料理を味わいながら
他愛のない話を続けた。
今日見たもの。
今日食べたもの。
船内で起きた、くだらない出来事。
笑っているうちに、いつの間にか
皿の上の料理はなくなっていた。
やがてデザートが運ばれてくる。
駿の前には、色鮮やかなフルーツを添えたアイスクリーム。
蓮の前には、
濃厚なチョコレートのケーキ。
駿
「お前、そっちの方がうまそうじゃね?」
「やらねぇよ」
「まだ何も言ってねぇだろ」
蓮
「顔に書いてある」
「……」
駿は笑った。
デザートを食べ終える頃には、
二人ともすっかり肩の力が抜けていた。
食後のコーヒーが運ばれてくる。
カップから立ち上る香りに、
駿がふっと息をつく。
「今日一日、遊び過ぎた」
「確かにな」
二人が
ゆっくりコーヒーを飲んでいると――
一人の男性がテーブルへ近付いて来た。
船の支配人だった。
「お食事はいかがでしたでしょうか」
穏やかな笑顔。
蓮は頷く。
「うまかったです」
「それは何よりです」
支配人も笑った。
そして、少しだけ声を落とす。
「明日の演奏、楽しみにしております」
「ありがとうございます」
駿が答える。
支配人は軽く一礼すると、
その場を離れて行った。
しばらく沈黙。
隣のテーブルの乗客が、
ちらりと二人を見る。
「……」
「……」
駿がコーヒーを飲む。
「バレたな」
「最初から隠してねぇだろ」
二人はコーヒーを飲み干した。
席を立つ。
歩きながら。
「そういや」
駿が言う。
「ん?」
駿
「明日何時集合だっけ」
蓮が止まる。
「……」
「……」
駿
「お前、本当に覚えてねぇのか」
第1話 「旅のはじまり」 完。
お読みいただきありがとうございます。
次回、第2話「ギリシャ・ミノコス島」です。
お楽しみに。




