4:これは、悪くないですよ
夜のうちに、下で二度ほど咳が聞こえた。
朝、顔を洗うついでに、髪の根元を撫でつけた。
階下へ降りると、咳はまだ続いていた。
広間には薬草の匂いが薄く残っている。薬草の匂いというのは、遠くからでも分かる。
「おはようございます」
「あら、早いね」
女将が湯気の立つ器を持って、奥へ入っていくところだった。そのまま戸の向こうへ消える。
トトは卓についた。コゲが床に降りて、奥の戸のほうへ寄っていこうとしたので、首根を押さえて引き戻した。
「行くな」
「きゅーっ」
しばらくして、女将が空の器を持って戻ってきた。
「飲みましたか」
「飲みましたよ。えらいもんだ、あの子は」
女将は不安そうな視線を奥へと向けた。
「五日になるんですけどねえ」
トトはわずかに眉を寄せた。
「咳と、熱でしたか」
「熱は下がったり、また上がったり。夜になるとひどくてね」
「食べていますか」
「粥なら。昨日から少し減りました」
女将は空の器を布で拭いている。拭くというより、持て余しているように見えた。
「……見てみましょうか」
言ってから、少し後悔した。
三日で発つと言った男が、他人の家の子を見せてくれと言っている。
女将は目を丸くして、それから頷いた。
「いいのかい」
「薬草士ですから、そのくらいは」
医者ではない、とは言わなかった。
「そういえば、お客さん」
「トトです」
「ああ、帳面に書いてもらったんだったね。……あたしはマレン」
奥の部屋は、思ったより狭かった。
寝台が二つと、着替えを入れる箱が一つ。窓は高い位置に一つだけある。
寝ているのは男の子だった。六つか七つか、それくらいに見える。頬が赤い。
「お客さんだよ。薬草士さんだって」
子供は目だけ動かして、それからトトの足元を見た。
「……なにそれ」
「トカゲです」
昨日から数えて、四度目だった。
コゲは呼ばれてもいないのに寝台の脇まで歩いていくと、着替えの箱によじ登った。ちょうど、寝台と同じ高さになる。
上掛けの下から、子供の手が出てきた。
「さわると噛みますよ」
噛まなかった。
鱗を撫でられて、目を細めている。
子供が、少しだけ笑った。
「……温かい」
「そういう生き物です」
「なんで温かいの」
「さあ。生まれつきでしょう」
答えになっていないが、子供は納得した顔をした。
額に手を当てた。熱はある。高くはない。
脈を見て、喉を見せてもらった。咳は乾いていないほうで、これも悪い形ではない。
「痛いところは」
「ない」
「息が苦しいのは」
「夜だけ」
受け答えは、はっきりしていた。それだけで、大したことはないと分かる。
五日ならもう楽になっていておかしくない、という程度の病だ。
「よく食べて、よく寝てください」
「うん」
コゲが箱の上で丸くなろうとしたので、首を掴んで引き剥がして、床に降ろした。子供が少し不服そうな顔をした。
「また連れてきますよ」
言ってから、また後悔した。
三日で発つ男が、今日はもう二度、先の約束をしている。
「薬を、見せてもらえますか」
マレンは一度厨房へ引っ込んで、紙包みを持って戻ってきた。小指の先ほどの、昨日、店で見たのと同じものだ。
開くと、刻んだ草が出てきた。
匂いを嗅ぐ。指の腹で少し潰して、また嗅ぐ。それから、窓の下へ持っていって光にかざした。
刻む前の形が想像できるくらい、葉の縁が残っている。刻んだあとに湿気を吸った様子もない。根も茎も混じっていない ―― つまり、要るところだけを選って採ってある。
もう一度、匂いを嗅いだ。
二度嗅ぐ必要はない。一度で分かっている。
「これは、悪くないですよ」
「そうでしょう」
マレンの声が、少し明るくなった。
「高いんだから」
「ええ。高いでしょうね」
実際、この草をこの状態で揃えるなら、それなりの値になる。
薬としても、間違っていない。咳と熱には、これでいい。
トトは包みを畳んで返した。
(なのに、効いていない)
広間へ戻ると、粥が出てきた。
塩と、干した魚が少し。昨日の残りだろう。コゲには魚の頭をやった。
「薬屋さんはね、まだ足りないんだって」
マレンが向かいに腰を下ろした。
「三日で効かなきゃ、倍にしなさいって」
「……倍」
「そうしてるんですけどねえ」
匙が止まりかけて、そのまま口へ運んだ。
量ではない、ということだけは、これで分かった。
「うちだけじゃないんですよ」マレンが続けた。「向かいの子も、桶屋の奥さんも、渡し場の爺さんも。みんな、同じのを飲んでる」
「同じものを」
「そりゃあ、あそこしか売ってませんから」
「よく効くと」
「先代からの店ですからね。川向こうの旦那衆の荷を任されてるんですよ。あそこが駄目なら、どこも駄目でしょう」
誰も治っていない、という話を、マレンは困り顔で笑いながらしている。
まだ困り切ってはいない。困り切る前の顔だった。
トトは器を置いた。
飯のあと、町を歩いた。
昨日と同じ道だ。市が立って、洗い場に人がいて、舟が着いて、荷が下りる。
違うのは、耳のほうだった。
繕い物の店の奥で、誰かが咳をしている。橋を渡る途中でも、荷を担いだ男が二度咳をした。
昨日も鳴っていたのだろう。聞いていなかっただけだ。
肩の上のコゲは、市の魚のほうばかり見ていた。
薬屋の前には、今日も人が並んでいた。昨日より少し長い。
みな同じ包みを買って、同じように懐へ入れて帰っていく。文句を言う者は一人もいなかった。
トトは並ばずに、その前を通り過ぎた。
日が暮れてから、宿へ戻った。
夕飯は、また川魚だった。
マレンが奥から出てきて、卓を拭きはじめた。
「どうです」
「昼間は少しよかったんですけどね。日が落ちると、また」
五日、同じことが続いている。
「マレンさん」
「はい」
「あの薬は、悪くありません」
「ええ、そう言ってくださいましたね」
「悪くないのに、効いていません」
布巾を動かしていた手が止まった。
「……まだ足りないからでしょう」
「五日です。あの薬なら、二日か三日で楽になっていておかしくない」
「倍にしてますよ」
「倍にして、よくなりましたか」
答えはなかった。
マレンは布巾を絞って、卓の端に置いた。
「……お客さんは、薬草士さんでしたね」
「はい」
「うちの子を診てくださったのは、ありがたいと思ってます。でもね」
声は荒くなっていない。荒くならないぶん、固かった。
「あの店は、あたしが子供の頃からあるんですよ。旅の人がたった一日いて、分かることじゃない」
トトは頷いて、それ以上は言わなかった。
卓の下で、コゲが骨をかじっている。硬いらしく、何度も咥え直していた。
(薬は悪くない)
保存も悪くない。量も足りている。草そのものも間違っていない。
(それでも、効いていない)
疑問が一つ増えただけだった。
奥で、また咳がした。
三日、と宿帳のときに言ってある。
たった一日いて分かることじゃない、とも言われた。
旅の薬草士の出番では、ないのだろう。
「……三日のままで、いいか」
コゲは骨に夢中で、返事をしなかった。




