3:ええ、トカゲです
川の音が、町より先に聞こえた。
街道が下りきったところで、視界が開ける。橋が一本、その両側に家が並んでいた。荷を積んだ舟が何艘か、岸に寄せてある。
ノイセ、と道標にあった。
肩の上でコゲが首を伸ばした。人の数が村とは違う。
肩に乗っているものは、遠くからでもよく見える。足元を四つ足で歩いていれば、たいていは犬で済む。
「降りろ」
「きゅ?」
「降りろ。歩け」
橋の手前で下ろした。翼は畳ませてある。それでも、すれ違う者の何人かが振り返った。
渡る前に、一度だけ足を止めた。
両岸で家の様子が違う。こちら側は木の壁に板葺きで、軒が低い。向こう岸は石を積んだ家が並んでいて、舟着き場も広かった。荷を下ろしているのも、向こうのほうが多い。
彼がこれまでに通った町も、だいたいこういう形をしていた。川が一本あれば、たいてい片側が先に太る。
立ち止まったのが、いけなかった。
「なにそれ」
子供が三人、正面から寄ってきた。真ん中の子がしゃがみ込んで、コゲと同じ高さで顔を突き合わせている。
「トカゲ?」
「ええ、トカゲです」
「でっかいね」
「大きいですね」
コゲは逃げなかった。逃げないどころか、首を伸ばして子供の指の匂いを嗅いでいる。
「さわっていい?」
「よしなさい。噛みます」
噛まないが、そう言っておくのが早い。
言った先から、もう撫でられていた。喉を鳴らして、目を細めている。
「噛まないよ」
「……気まぐれですから」
「なんて名前?」
「コゲといいます」
「コゲー」
「きゅ、きゅ」
得意げに返事をした。
トトは咳払いをした。
「トカゲですから、名前を呼んでも分かりませんよ」
「返事したよ」
「風です」
子供の一人が両手で持ち上げようとして、コゲが後ろ足に力を入れた。立ち上がりかけている。
トトは屈んで、何食わぬ顔でその背中を押さえた。
「そろそろ行きます」
「えー」
角を曲がるまで、コゲは子供たちのほうを見ていた。
人通りの切れたところで、しゃがんで抱え上げる。
「お前な」
「きゅるる」
叱られているとは思っていない顔だった。
宿は川沿いに三軒あった。いちばん川下の、看板の小さいところに入る。
「一晩、いいですか」
「はいはい」
帳場の奥から女将が出てきて、卓の上に帳面を広げた。
「書けるかい」
「はい」
「助かるよ。うちは、読み書きはあたしの役目でね」
トト、と書いた。それだけだった。
女将は帳面を覗き込んで、そのまま閉じた。
「お一人で」
「一人です」
「何日ほど」
「三日ばかり、と思っています」
鍵を渡された。足元のコゲには、目もくれなかった。
部屋は二階の川側だった。窓を開けると、水の音が近い。
荷を解いていると、女将が水を持って上がってきた。水瓶を置いて、その上に手をかざす。細かい濁りが、底のほうへ静かに沈んでいった。
「夕飯は下で。魚が出ますよ」
「ありがとうございます」
戸が閉まってから、コゲが寝台に飛び乗ろうとして、届かずに落ちた。
もう一度跳んで、また落ちた。
それから寝台のほうを向いて、口を開けた。
ふすん。
煙が少し出て、それだけだった。
「焼いても、届かないぞ」
日のあるうちに、町を一回りした。
橋のたもとには市が立ち、川べりでは女たちが洗い物をしている。荷を担ぐ人足の間を抜けるあいだだけ、コゲを抱えた。
市の人間は、目の前のことで手一杯らしい。旅の男が何を抱えていようと、いちいち顔を上げなかった。
それから、薬屋へ寄った。
街道で摘んだ草を売るためだった。二束と少し。宿代の足しにはなるだろう。
店は思っていたより大きかった。棚が天井まであって、包みが行儀よく並んでいる。奥で若い店員が量りを使っていた。
コゲを床に降ろす。棚には目もくれず、量りの分銅をじっと見ていた。
「買い取りはやってますか」
「見せてください」
布を開くと、店員は一つずつ手に取って、匂いを嗅いだ。慣れた手つきだった。
「乾かし方がいい」
「ありがとうございます」
待っているあいだ、棚を眺めた。
刻み方がいい。乾かしすぎているものが一つもない。値の張る根が、いちばん目につく高さに置いてある。
(いい店だ)
この規模の町で、これだけ揃えている店はそう多くない。
銅貨を数えて渡された。思っていたより多かった。
「この町で、薬草を売り歩く余地はありますか」
「どうでしょうねえ」
店員は量りの目盛りを直しながら答えた。
「薬は、うちで足りてますから」
「そうですか」
「うちの主人が、川向こうまで手広くやってますんで」
店を出るとき、量りの前に人が並びはじめていた。四人、五人。みな同じものを買っていく。小指の先ほどの紙包みで、出ていく銅貨は一枚や二枚ではなかった。
(高いな)
それだけ思って、コゲを抱え上げて、外へ出た。
宿屋で階下へ降りるとき、コゲを抱えるか歩かせるかで少し迷って、歩かせた。
四つ足で階段を降りるのは苦手らしい。一段ごとに前足から落ちるように降りていく。
危なっかしくて、結局途中で抱え上げることになった。
帳場のある広間が、そのまま食堂になっていた。床は土のままで、卓が五つ六つ並んでいる。厨房と、女将たちの住まいが奥にあるらしい。
夕飯は川魚だった。
塩をして焼いたものが一尾と、麦のパン。それから、干した魚を裂いたのが小皿に載っている。
「それはお茶請けみたいなもんでね」女将が言った。「うちの名物」
一口目は硬い。それを奥歯で噛み締めると、ぎゅっと旨みが出てきた。
旅の荷に入れておくといい類のものだった。
「そっちの魚はね、煮ちゃ駄目なんですよ」
女将が焼いたほうの皿を指した。
「煮ると身が痩せちまう。焼くか、干すか、どっちかだね」
「そういうものですか」
「そういうものです。この魚は」
麦酒を頼んだ。村の倍の値だった。
(町だな)
焼けた身を骨から外して、手の甲に近づけてから、卓の下へ落とした。
コゲは、彼が落としたものをきれいに片付けている。時々、卓の上に首を伸ばしかけては、押し戻された。
「行儀」
「きゅ」
卓は半分ほど埋まっていた。舟の人足らしいのが数人と、行商が一人。話し声は多いが、どこか緩い。
皿を下げに来た女将が、荷のほうへ目をやった。
「お客さん、薬草士さんかい」
「はい」
「道理で。荷から草の匂いがするもの」
「分かりますか」
「宿を長くやってるとね。荷の匂いで、だいたい商売が分かるようになるんだよ」
そのとき、隣の卓で誰かが咳をした。
乾いた咳ではない。
「このところ、たちの悪いのが流行ってましてね」
女将が声を落とした。
「咳が出て、熱がなかなか下がらないんです。うちの子も寝込んでてね」
「それは」
「でも、いい薬があるんです。あそこの薬屋の」
彼は、昼間の行列を思い出した。
「効きますか」
女将は皿を持ったまま、少しだけ間を置いた。
「……そのうち効くって、言われてますよ」
それから笑って、奥へ下がっていった。
トトは杯を置いた。
卓の下で、コゲが骨をかじっている音がする。
(そのうち、か)
しばらくして、奥のほうから子供の咳が聞こえた。細く、長く続いて、それから止まった。
コゲを抱えて部屋に戻り、寝台の上に置いてやった。
窓を閉めると、川の音が少し遠くなる。
荷を解いて、売れなかった草を布に広げ直した。町の湿りでは、放っておくとすぐ駄目になる。
コゲは寝台の足元で、もう丸くなっている。今日は歩かせすぎたかもしれない。
三日ばかり泊まって、川を渡って、次へ行くつもりだった。
階下から、また子供の咳が聞こえた。




