2:焦げてるぞ
朝、目が覚めると、足元で寝ていた。
寝台の下でもなく、部屋の隅でもなく、彼の足の上だ。重い。
宿の寝台はどこも彼には短い。外に出ていた足首の上が、ちょうどよかったらしい。
(さて、どうしよう)
足をどけようとしたら、寝返りを打って、さらに乗ってきた。
山に戻してくればいい。
拾ったのは昨日の成り行きで、朝になれば話は別だ。腹は満たしてやったし、傷もない。
三十三にもなった大人の判断としては、それが正しい。
そこまで考えて、昨夜の話を思い出した。男衆が五、六人。犬を連れて。
山へ返すというのは、追い立てられる場所へ置いてくるということだ。
山狩りが済むまでの話だ。二日か三日おいて、騒ぎが収まってから戻せばいい。そう考えれば筋は通る。
足の上のそれは、彼が何を考えているかなど知らない顔で寝ていた。
決めかねたまま、顔を洗った。
ついでに、昨日洗いそびれた上着の返り血を洗った。袖口をぎゅっと絞る。乾くまでは袖を通さず腕にかけておくことにした。
窓の桟に、うっすらと自分が映っている。髪の根元だけが、明るい色になっていた。
指を通して、いつもどおりに撫でつける。明るかったところが、他と同じ焦げ茶に沈んだ。
髪を切る道具は、王都に置いてきた。持って出るものを選んでいたときには、思いつきもしなかった。
荷をまとめる。着替え、干し肉の残り、布に包んだ薬草。
荷の口を締めたところで、そいつが前に回り込んできた。昨日の続きを期待しているらしい。
「後でな」
「きゅーっ」
そいつは後ろ足で立ち上がって、彼を見上げた。
「立つな。人前でそれをやるなよ」
通じるはずもない。喉が鳴った。頬が膨らんで、しぼんで、また膨らむ。
(何をする気だ)
ふすん。
煙の輪が一つ出て、それだけだった。
鼻先が、うっすらと黒くなっている。
「……焦げてるぞ」
言ってから、手が止まった。
昨日の下草。手のひらほどの、丸い焦げ。燃え広がらずに、そこで消えていたもの。
(これも、お前か)
顔を上げると、そいつがこちらを見ていた。呼ばれたと思ったらしい。
「きゅ」
「……あ」
と思ったときには、もう遅かった。
名前をつけたら手放せなくなる。それくらいのことは、三十三年も生きていれば分かる。
「……コゲ」
試しに呼んでみると、そいつは前足を彼の膝にかけた。
「きゅるる」
「……分かった。分かったから」
荷の口を開けて中を指してやった。
「入るか。人の多いところでは、そのほうがいい」
「きゅ?」
コゲは荷を覗き込んで、それから彼の肩によじ登った。
「……そうか」
翼は畳ませて、背中に貼りつかせておく。四つ足でいる限り、遠目にはただのトカゲに見えるはずだ。実際、女将は最後まで疑わなかった。
階下で宿代を払った。
「もう発つのかい」
女将が手を止めた。
「朝飯くらい食べていきなさいよ」
「いえ、早いうちに」
「山狩りがあるからかい」
「……いえ」
「そりゃそうだね。薬草士さんには関わりのないことだ」
関わりはある。あるが、説明のしようがない。
「その子にも、何か持たせようか」
「……お願いします」
銅貨がまた出ていった。
包みを受け取ると、コゲが肩の上から首を伸ばした。片手で背中を押さえる。
女将はその様子をおかしそうに見ていた。
「その子、名前はあるのかい」
「コゲといいます」
「コゲ」
女将が繰り返して、それから少し笑った。
「あんたも、その子も、変わった名前だねえ」
村の広場では、男衆が集まっていた。五、六人。犬が二頭、しきりに鼻を鳴らしている。棒を持っている者もいた。
肩の上で、コゲが急に身を固くした。
トトは何も言わずに、腕にかけていた上着を肩へ回してやった。
それから、風下へ回るように広場を横切った。犬は鼻がいい。
誰も彼を見なかった。犬も、こちらへは来なかった。
道が下りになったところで、肩の上が少しだけ緩んだ。
「……もう平気だ」
「きゅ」
村を出る道で、畑の主に会った。倒れた柵を直している。
「おはようございます」
「おう、薬草士さん。もう行くのかい」
「はい」
トトは足を止めた。柵の内側に、昨日の窪みがまだ残っている。
「もう大丈夫だと思いますよ」
「あん?」
「畑です。もう来ないと思います」
男は手を止めて、彼を見た。それから、曖昧に頷いた。
「……そうかい」
信じていない顔だった。それでいい。
「気をつけて行きなさいよ」
「はい」
背後で、また杭を打つ音がしはじめた。
山狩りは今日じゅうに済む。何も出ず、逃げたんだ、と村は思うのだろう。
それで足りている。
街道に出ると、風が変わった。
刈り入れ前の畑がしばらく続いて、それから雑木林になった。すれ違うのは荷馬車と、荷を負った男が何人か。誰も彼を気にすることはなかった。
魔王が倒れてから、街道はずいぶん安全になったらしい。らしい、というのは、彼が最後に一人でこういう道を歩いたのが、十九の年だからだった。
肩の上のコゲは、朝からずっと機嫌がいい。人の姿が見えるたびに首を引っ込めて、四本の足をきちんと畳む。そこだけは飲み込みが早い。
昼過ぎに宿場を一つ通った。荷馬車が何台か止まっていて、その脇で商人らしい男が二人、立ち話をしている。
「そういえば、勇者様が秋の式に出なかったそうだ」
「病気かね」
「さあ。上のことは分からん」
「王都から役人が回ってるって話も聞いたが」
「どこの村にも来とらんよ。噂の噂だ」
男たちは笑って、荷の話に戻った。
トトは足を止めなかった。
コゲが荷馬車の積み荷のほうへ首を伸ばしている。
「……見るな」
宿場を出たところで、一度だけ振り返った。男たちはもう別の話をしている。
そろそろ騒ぎになっている頃だろうな、と昨日は考えた。
なっていないらしい。
置き手紙まで残してきた男としては、少しばかり据わりが悪い。
日が傾く頃、街道の脇に腰を下ろした。
包みを開くと、コゲが膝に上がってきた。肉の切れ端を一つつまんで、差し出す。
差し出しかけて、手が止まった。
何か、思い出しかけた。
昔は、いつも彼女が。
コゲが指ごと咥えようとした。
「痛い」
慌てて手を引くと、肉だけが持っていかれた。
思い出しかけたものは、それきり戻ってこなかった。
「きゅ」
食べ終えると、コゲは彼の膝で丸くなった。鱗は、思っていたよりも温かい。
しばらく動けなかった。動くと起きるからだった。
街道の先から、川の匂いがした。




