1:食べ物、何か残っていませんか
山道の先で、何かが鳴いた。
獣の声ではない。もっと小さくて、もっと切羽詰まった音だった。
トトはセージの束を布に包んで、顔を上げた。切り時を逃した焦げ茶の髪が揺れた。
(放っておけ)
そう思ったのに、立ち上がってすぐ、鳴き声の方に歩き出していた。
下生えを分けて入ると、魔物が一匹いた。犬ほどの大きさで、背の毛が針のように逆立っている。村の男なら、鎌や鉈を持って三人で囲み、ようやく追い払える相手だ。
はぐれだろう。群れの気配はない。
その鼻先で、灰色の小さいものが木の根の窪みに背中を詰まらせていた。逃げる場所を間違えたらしい。
「きゅーっ!」
小さい生き物が鳴く。
トトは足元の小石を拾って、魔物に向かって投げた。魔物が身を捩って彼の方に顔を向けた。
空いた手で、鉈を取った。
魔物の体が沈んで、彼に向かってまっすぐに跳んだ。
跳ぶ前から、どこへ来るかは分かっていた。魔物の跳び方は、五年前と何も変わっていない。
彼は半歩、左に動いた。
鉈が下りたのは、その途中だった。振りかぶらない。構えない。狙いもつけない。さっきセージの根を切ったのと同じ手つきで、腕を伸ばした先に相手の首が通りかかった、というだけの動きだ。
魔物は勢いのまま三歩進んで、前のめりに崩れた。
息は上がっていない。鉈を握り直す必要もなかった。
袖に返り血が跳ねている。
「……洗わないとな」
声に出してから、誰も聞いていないことに気づいた。
いや、一つだけ聞いていた。
灰色のそれは、逃げるのも忘れて固まっていた。窪みから抜け出したまま、まだそこにいる。
泥だらけの四つ足で、猫より少し重そうに見える。泥の下から覗く鱗は、濡れた石のような色をしていた。
しゃがんで覗き込むと、背中で何かが動いた。たたまれていたものが、ぎこちなく開く。
翼だった。
「……ドラゴン?」
言ってから、あたりを見回した。誰もいない。当たり前だ。
一度だけ、見たことがある。山の奥にいて、大きくて火を吐く生き物だ。
目の前のそれは、彼の膝より低かった。広げた翼は、体に対して明らかに小さい。どう畳めばいいのかも分からないらしい。
指を伸ばして、付け根を軽く押してやった。翼は背中にすとんと収まった。
「……そうか」
魔物の体を下生えの奥へ押し込んだ。手を離すと、枝が上で閉じた。
鉈を布で拭って、荷に納めた。返り血は思ったより少ない。
三十三歳。職業、薬草士。名前はトト。
――ということに、してある。
八年前に魔王を討った。十日前に置き手紙を残して王都を出た。剣と本当の名前も置いてきた。
(そろそろ騒ぎになっている頃だろうな)
思うだけで、特に何かする気は起きない。
「じゃあな」
背を向けて歩き出すと、ひたひたと音がついてきた。
立ち止まる。向こうも止まる。歩き出す。ついてくる。
「……山はあっちだ」
指さしてやった。そいつは指の先ではなく、指そのものを見ている。
「きゅ」
通じていない。
「親は」
「きゅ」
「そうか」
三度追い払って、三度とも戻ってきた。四度目に、そいつは翼を広げて跳んだ。握り拳ひとつもあるかないかの高さだった。ぱたぱたと二回はためかせて、そのまま落ちた。
落ちてから、何事もなかったような顔で足元まで歩いてくる。
(飛べないのか)
置いていかれたのか、はぐれたのか。こいつにも分からないだろう。
歩く速さが合わなかった。十歩に一度立ち止まって待つのにも飽きて、途中から肩に乗せた。そのほうが早いからだ。
日が落ちる前に村へ下りた。ザーム村という名の、小さな村だった。
刈り入れ前の麦畑に囲まれていて、道の両側の穂が重そうに垂れている。畑の縁で、女が二人立ち話をしていた。宿は一軒しかなかった。
「一晩、泊めてもらえますか」
「はいはい、空いてますよ。……あら」
女将の目が、彼の肩で止まった。
「大きなトカゲです」
「へえ」
「トカゲです」
肩の上で、そいつは四本の足をきちんと畳んで、置物のような顔をしていた。小さな翼は背中に貼りついている。二本足で立たれると途端に面倒なことになるのだが、今のところその気配はない。
「お名前は」
「トトといいます」
「ああ、いえ、トカゲでなくてあんたの」
「いや、俺の名前です。トト」
「トト」
女将が繰り返した。
「……子供みたいな名前だねえ」
「よく言われます」
「薬草士さん、湿布に使う葉はあるかい。うちの人が腰をやっちまってね」
「ありますよ」
二束買ってくれた。それから、頼んでもいないのに話しはじめた。旅の者というのは、どこの村でも便利な聞き役らしい。
「あんた、夜は出歩かないほうがいいよ」
「何かありますか」
「畑を荒らすのが出るんだよ。三日にいっぺんくらいねえ」
「熊とか、そういう」
「さあねえ。誰も見てないんだよ」
女将は小さく首を振った。
「一晩でごっそりやられるんだから、相当でかいのが下りてきてるんだろうって」
「なるほど」
「うちの人なんか、熊なら仕留めてやるって。腰を痛めてるっていうのにさ」
麦酒を一杯とパンをもらった。蜂蜜でもあればよかったが、贅沢は言うまい。
肩の上のそいつが、卓の上に首を伸ばした。食べ物の匂いが気になるらしい。
同じ卓の端では、村の男が二人、どこの畑が先にやられたかで揉めていた。
少なくとも、彼の知っている本当にまずい村は、そんな話をしなかった。
荷を置いてから、村の外れまで歩いた。
薬草の生えていそうな斜面を先に見ておきたかったというのは半分本当で、残りの半分については自分でも説明がつかない。
荒らされた畑はすぐに分かった。柵が一箇所倒れている。
「見物かい」
声をかけてきたのは年配の男だった。畑の主らしい。
「すみません。つい」
「構わんよ。減るもんでもなし」
男は諦めた顔で自分の畑を眺めている。
「うちは、これで三度目でな」
「三度」
「一度目は柵が倒されただけだ。二度目から、中に入られるようになった」
荒らされ方は、思ったより中途半端だった。畝が一列ぶん踏まれている。物置の脇に干してあった果物が散らばって、豆の莢がいくつも、かじりかけのまま落ちていた。
高いところの枝が二本、引き倒されている。折られてはいない。届かなかったから、たぐり寄せたという形だ。
「もったいないねえ。食うなら全部食っていきゃあいいのに」
「……そうですね」
「熊だと思いますか」
「熊だろうな」
男は倒れた柵を靴の先で起こそうとして、諦めた。
「これだけやるのは熊だ」
男は畝の先へ目をやった。麦が、風で一斉に傾いている。
「あと十日もすりゃ刈り入れでな。そこまで持ってくれりゃいいんだが」
崩れた土に紛れて、崩れかけた小さい窪みがあった。それから、何かを引きずったような跡も。
彼は屈んで、指の幅と比べた。
(足跡と……尻尾?)
それから、肩の上を見た。
そいつは、散らばった莢のほうへ首を伸ばしていた。
(お前か)
畑を出るまで、彼は何も言わなかった。男は熊がどこから下りてくるかという話をしていて、肩の上には一度も目を向けなかった。
山際まで足を伸ばしたのは、ほとんど気まずさからだった。
下草に、妙なものがあった。手のひらほどの焦げが一つ、燃え広がらずにそこで消えている。周りの草は濡れてもいない。
指で触れると、灰は乾いていた。焚き火にしては、小さすぎるし、丸すぎる。
しばらく眺めて、諦めた。
(分からん)
肩の上のそいつは、その焦げには見向きもしなかった。
宿の部屋は狭く、寝台と小さな窓しかなかった。
女将が灯りをつけに上がってきて、指先を炉に向けた。薪の端に火が移る。
「ごゆっくり」
戸が閉まると、部屋は急に静かになった。
荷から干し肉を出して、床に一切れ置いてやった。
消えた。
もう一切れ置いた。消えた。三切れ目を出したところで手が止まった。
(この大きさで、これか)
「お前、さっきまで死にかけていただろう」
「きゅ」
四切れ目を探しているあいだに、そいつは荷の口へ首を突っ込んでいた。
「こら」
首を掴んで引き剥がす。抵抗はしなかったが、口には既にパンを咥えている。
「返せ」
「きゅ」
「返せ」
諦めたのはトトの方だった。
荷の底から、小さな木彫りを出した。牛だ。ひどい出来で、角の片方が短い。
紐は、彼が通したものではない。
しばらく指の腹でなぞってから、布に包み直した。
寝台に腰を下ろすと、足元から視線を感じた。
「……まだ食うのか」
「きゅ」
彼は立ち上がると、そいつを腕に抱え上げた。
階下では、女将が卓を拭いていた。
「すみません。食べ物、何か残っていませんか」
いい大人が夜に口にする台詞ではない。
「その子かい」女将が笑った。「よく食べるねえ」
「……はい」
パンの残りと肉の切れ端を包んでくれた。銅貨が二枚出ていく。
王都を出るとき、財布の中身は一人ぶんで数えていた。
「そうだ、薬草士さん」
女将が手を止めた。
「明日、山狩りをするんですよ」
「山狩り」
「畑の件でね。男衆が五、六人で。犬を連れて追い立てるんだと」
「……そうですか」
女将は布巾を絞って、それから思い出したように顔を上げた。
「薬草士さん、山に入るなら気をつけてくださいね」
腕の中で、そいつが小さく身じろぎした。
「……ありがとうございます」
彼は包みを受け取った。




