36:手掛かりだ
隣村に使いが来たのは、日暮れだった。
「終わりました」
「誰が」
「……そこまでは」
夜の峠は越えられない。
だから、夜明けを待って発った。
供の男は残した。七十人を連れて戻るのを任せた。
この村へ来たのは、確かめずに通り過ぎる理由が、なかっただけだ。
峠を下りきると、道がまっすぐに伸びている。
両側の家は、どれも戸が開いたままだった。持ちきれなかった荷が、道の脇に積まれている。櫃が一つ、庇の下に寄せてあった。
納屋のほうで、牛が鳴いた。
馬を引いて、村を端から端まで歩いた。
突き当たりに、石を積んだ祠がある。その手前で、道が塞がっていた。
イリスは、足を止めた。
四つ足だった。上半身が厚い。そして大きい。炭焼き窯くらい、いや、もっと大きいかもしれない。
毛はない。厚い皮が、肩のあたりで幾重にも垂れていた。
手綱を木に回してから、近づいた。
地面を見た。
荒れているのは、魔物の側だけだった。道の端の下生えが、まとめて薙がれている。折れ口が、まだ白い。
人の足跡は、一人ぶんしかなかった。前へ出た跡が一つあって、そこで土が後ろへ飛んでいる。
囲んだ跡はない。引きずった跡もない。倒れた場所に、そのままある。
しゃがみ込んで、魔物の体を見た。
深い傷は、一つだった。
喉から入って、顎の下へ向かっている。下から上へ。柄まで入ったのだろう。
前足に、別の傷があった。
爪が一本、根元から落ちている。折れたのではなく、切り離されている。
裏側にも、浅いのが幾つか。
小さい刃だ。喉のものとは、別の得物である。
イリスは、手帳を出した。
どの頁に書くべきか少し迷って、新しい頁を開いた。
この大きさの魔物を倒せる人間は、そういない。
この村には猟師もいるが、罠を使うものばかりだ。
魔物と戦えるような人間がいるとは思えない。
であれば、これは外部の人間の仕業ということになる。
書く手を止めて、頁を遡る。
しばらくめくって、手を止めた。
薬草士トト。三十前後。焦げ茶の髪。大きなトカゲ。三日前に発つ。行き先不明。
猪五頭を単独で仕留めた。元従軍。
この村で会った男は、同じ名前で、同じ連れだった。
街道は一本だ。それだけなら、偶然で済ませていた。
草を採っていると言った。姓はないと言った。
伸びて跳ねた焦げ茶の髪の、薬草士。
イリスは立ち上がって、周りを歩いた。
焼けた土はない。抜けた草もない。石も割れていない。
勇者がその力を振るえば、土地は荒れる。
薬草士が魔物を倒した。そう思えるだけの状況だ。
でも、勇者ではない。
祠の前に、剣が置いてあった。
鞘と、並べてある。
持ち上げると、半ばから曲がっていた。もう真っすぐには戻らない。
古い剣だった。金具は色が抜けている。それでも、柄は巻き直してあった。
板戸は、閉まっていた。
祠のものだろう。持ち込んだのなら、鞘までここへ置く理由がない。
小さい刃で始めて、途中でこれを借りた。
剣を持たない男が、やったことになる。
イリスは頁をめくって、曲がった剣についても書いた。
馬を引いて道を戻ると、家の前に人が出ていた。
女が一人。それから、五十がらみの男。
「調査官です。昨日のことを伺います」
「はい」
女は、手を前で合わせた。
「ヨハンネといいます」
イリスは手帳を開いて、ヨハンネと名前を記す。
「残っていたのは、何人ですか」
「七人です。動けない者と、看る者と、担ぎ手が二人」
「魔物は、誰が」
「日が昇る前で暗かったので」
「見ていない」
「はい」
目撃者、なし。
「村には、あれを倒せる人間はいますか」
ヨハンネは、大きく首を振った。
「いいえ、とんでもない」
「では、旅人は」
「トトさんという薬草士がいました」
「知っています。それ以外に、よそから来た者は」
「いいえ」
旅人、薬草士のみ。
やはりあの男だろう。
「薬草士の方は、何をしていましたか」
「手当てをしていました」
ヨハンネは、そこで少しだけ笑った。
「うちの人も、あの人が連れて下りてくれました」
イリスは書いた。手当て。
「薬草士の方は、今どちらに」
ヨハンネは、視線を動かした。その先にはあの男が寝泊まりしていた空き家があった。
「朝にはいませんでした」
「行き先は」
「訊いておりません」
行き先不明。この男について、これを書くのは二回目だ。
女の後ろから、女の子が出てきた。
山のほうを指している。
「火を吐いたよ」
男が、女の子の肩に手を置いた。
「トカゲだったな」
子供は、男を見た。それから、黙った。
大きなトカゲ、子供が懐いていた。
火を吐いた? ただし、子供の言。
手帳を閉じると、頭を下げた。
「ありがとうございました」
村の外れで、手帳を読み返す。
勇者の頁は、九年前の秋のところで止まっている。
この村で、その内容は増えていない。
集まったのは、トトという薬草士の話ばかり。
勇者と薬草士は、別の頁である。
今日のぶんを書き足すために、薬草士の頁を開いた。
腕の立つ薬草士。元従軍。
元従軍。
あの大きさの魔物を一人で倒せる人間は、そういない。
戦の最中なら、なおさら放っておかれなかったはずだ。
それだけ腕の立つ男なら、勇者の近くにいたかもしれない。
であれば――。
「手掛かりだ」
言ってから、可笑しくなった。
手掛かりといっても、あるのは名前が一つきりである。
トト。短くて、行の端が余る。偽名だろう。
名が偽りでも、日付と方角は嘘をつかない。
いつも、そう書いてきた。
今度は、その方角がない。
峠のほうから、声が聞こえはじめた。
村が、戻ってくる。
イリスは道の脇へ寄った。
七十人が下りきるまでには、まだかかる。供の男は、その最後にいる。
列が通ってから、峠を越える。
下りきったところが街道で、宿がある。
宿には、名前が残る。




