35:持っていけ
夜が明けた。
どこかの納屋で、牛が鳴いている。少し前の、あの落ち着かない鳴き声ではない。
トトは、借りた家の寝台に腰を下ろしていた。
肩は上がるようになっている。背中のほうは、まだ分からない。
ヨハンネが湯を持って入ってきた。
布を裂く手が、迷わない。一度、見た手つきだった。
「脱げますか」
「はい」
寝台に座り直して、背中を向けた。
上着に手をかける。腕は抜けた。
背中のところで布が張りついていて、そこから下りなかった。
ヨハンネが湯をかけて、少しずつ剥がしていく。
自分では、見えない。手も届かない。
「深くはありません。ただ、土が入っています」
「洗ってください」
「痛いですよ」
「お願いします」
洗って、絞って、また洗った。
「糸は、麻でいいですか」
「煮てあれば」
「煮てあります」
針を持つ音がした。
「動かないでください」
「はい」
針が入った。
息だけ、少し止めた。
縫われているあいだ、トトは膝の上を見ていた。
コゲが、そこで丸くなっている。
熱は下がっていた。
翼は、畳まれている。
目が開いて、また閉じた。それだけできれば、いい。
針の動きが小さな痛みになって、背中の上を動いていた。
「その子は」
「たぶん、大丈夫です」
「そうですか」
針が、また入った。
糸を切る音がして、それで終わった。
ヨハンネが布を当てて、胸の前まで回して留めた。
脱いだ上着は、桶の湯に沈めてあった。
湯が、赤黒くなっている。
「これは、もう駄目です」
「でしょうね」
荷から替えを出して、袖を通した。
昼前に、ヨハンネの家へ呼ばれた。
卓に七人が座った。残った者だけだった。
肩を裂かれた男は、夜のうちに峠道へ入っている。担ぎ手が二人、ついていった。
もう一つの担架は、道の脇に置かれたままだった。
峠の向こうへ行った者は、まだ帰ってきていない。
麦の粥に、干した肉を刻んで落としてある。
鍋が二つ出ていた。
トトの前の器だけ、盛りが多い。
誰も、そのことを言わなかった。
「食えるか」
ヘニングだった。向かいに座っている。
「いただきます」
「そうか」
コゲは、卓の下にいた。
「なあ」
男の一人が、下を覗き込んだ。
「あれ、本当にトカ――」
「おい」
隣の男が遮った。
少し間があった。
最初の男は、覗き込んだままでいる。
「……腹、減ってるか?」
「きゅ」
肉が一切れ、卓の下へ落ちた。
カーヤの隣に父親が座っていた。
髭は剃ってある。頬は、まだ落ちたままだった。
男の器だけ、粥が薄い。少しずつ、時間をかけて食べている。
食べながら、男が言った。
「あそこには、もう戻れんな」
誰も、すぐには答えなかった。
ヘニングが、粥を飲み込んだ。
「炭木なら、下にもある」
「細いのしか出ん」
「細いので焼く」
「そうだな」
男は、静かに匙を持ち上げた。
カーヤは、匙を持ったまま動かしていない。
器を置いてから、こちらを見た。
「ごめんなさい」
声が小さかった。
「止められませんでした」
卓の下で、コゲが動いた。
脚のあいだを抜けて、カーヤの足元まで行った。
「きゅ」
カーヤが、両手で持ち上げた。
「……重い」
今度は、よろけなかった。
トトは、匙を置いた。
「あれで、間に合いました」
カーヤは、しばらく分からない顔をしていた。
それから、コゲの背中に顎を乗せた。
器が下げられて、卓が空いた。
トトは膝をついて、カーヤの前に手を出した。
カーヤは、腰掛けに座ったまま、コゲを抱えていた。
コゲがトトを見て、カーヤを見た。
「きゅ」
カーヤが勢いよく腰掛けから降りて、両手でコゲを押し付けてきた。
トトが受け取ると、コゲは首を伸ばした。カーヤの指を舐めた。
カーヤは、その手を引っ込めなかった。
「くすぐったい」
トトは、頭を下げた。
昼を過ぎてから、借りた家へ戻った。
道は静かだった。峠のほうから戻ってきた者は、まだいない。
日が傾いてから、ヘニングが来た。
戸口に立ったまま、中へは入らなかった。
布に包んだものを、差し出してくる。
「持っていけ」
開くと、鉈だった。
刃は、あの刃だった。
柄が、新しい。まだ白い。
「握ってみろ」
握った。前より太い。
「太いか」
「少し」
「そのうち馴染む」
ヘニングは、それだけ言って戻っていった。
夜が深くなってから、荷をまとめた。
鼻先を突っ込んでくるコゲを押しやったが、その口にはすでに干し肉が咥えられていた。
「もう元気そうだな」
コゲが干し肉を齧っている間に、手を動かす。
着替えと、布に包んだ薬草。細々した旅のもの。
柄の白い鉈。
それから、木彫りの牛を掌に乗せて、しばらく眺めた。
角の片方が短い。紐は擦り切れたままだ。
荷の底に戻した。
草は採った。二人とも戻った。魔物は死んだ。
ここでできることは、もうない。
荷を背負うと、背中の傷に当たった。痛みはあるが、動けないほどではない。
鉈を腰に差した。
しゃがんで腕を伸ばすと、コゲは腕を伝って肩まで上ってきた。足で何度か肩を踏んでから、座って落ち着いた。傷には届かなかった。
「行くか」
「きゅ」
借りた家を出た。
祠のほうへ上った。
月が出ていた。
魔物の体は、まだそこにあった。
誰も手をつけていない。手のつけようがないのだろう。
曲がった剣が、鞘と並べて置いてある。
板戸は、閉まっていた。
トトは、一度だけ頭を下げた。
東の空は、まだ何も変わっていなかった。
コゲが肩の上で身じろぎする。鱗は、いつもの温かさに戻っていた。
村は暗かった。
どの家の戸も、開け放たれたままだ。持ちきれなかった荷が積まれたままになっている。
置いていかれた牛が、静かにしている。
柄の白い鉈が、歩くたび腰に当たった。
一つだけ、戸が閉まっている家があった。灯りがついていた。
ヨハンネの家だった。
トトは、そのまま通り過ぎた。




