33:それ、借ります
背中のほうで、男衆の声がした。担架を上げたらしい。
峠道の灯りは、まだ半分も上っていないだろう。
目の前の斜面で、また枝が鳴った。
下生えが割れた。
道いっぱいだった。
色は見えない。輪郭と、動くところだけが分かる。
頭の位置が、祠の屋根を越えている。四つ足で、前が高い。
毛はない。厚い皮が、肩のあたりでたるんで重なっている。
鼻先が下がって、こちらを向いた。
(来た)
トトは、動かなかった。
道の真ん中で、鉈を下げている。
魔物が、前足を持ち上げた。
(速い)
半歩、左へ。
振り下ろされた前足が、さっきまで立っていた土をえぐった。石が飛んで、祠の板を叩いた。
掻い潜る。前足の裏へ抜けて、腱のあたりを一度。
手応えは、木を打ったのに近かった。
魔物は止まらない。上半身を捻ってこちらを向いた。
正面は外さない。二歩下がって、また半歩、今度は逆へ。
薙ぎ払われる前足をしゃがんで避けて、踏み込む。
二度目は爪の付け根を狙った。
刃は入った。入って、そこで止まった。
骨が硬い。
鉈で通る厚さではなかった。
鉈を握り直す。
それでも、狙う場所は変わらない。
(倒さなくていい。前へ出させなければいい)
道は狭い。
両脇の下生えは、魔物の体では抜けられない。回り込めない。
こちらが半歩動けば、体ごと向き直すことになる。
その分だけ、こちらが先に届く。
三度目は、同じ傷に重ねた。
傷は見えない。刃が止まったときの、手の高さで測った。
入った。前より深い。それでも、骨には届かない。
一度で倒れる木はない。
同じところに、何度も入れる。木を伐るのと変わらない。
一歩、下がった。
背中のほうで、短く声が上がった。
担架は、まだ峠道へ入っていない。
魔物が向き直る。
半歩ずらす。振られた前足が、道の端の下生えを薙いだ。
折れる音が、奥のほうまで続いた。
薙がれたぶんだけ、道が広くなる。
四度目。
大きくは振らない。振れば、その分だけ戻りが遅れる。
肘から先だけで、同じ縁へ入れた。
刃が、途中で滑った。
(あと何回、保つ)
半歩、逆へ。
いつもと同じ半歩だった。
そこに、もう前足があった。
体ごと向き直っていない。広くなった分を、斜めに詰めてきている。
避けきれずに、下生えへ飛んだ。
枝が折れて、腰まで沈む。足が抜けない。
鼻先が、上から下りてきた。
この近さで、はじめて顎の下が見えた。喉から胸にかけて、皮が薄い。あばらが浮いている。
そこなら通る。届かないだけだ。
体をねじって、横へ倒れる。
鼻先が下生えを叩いた。さっきまで体のあったところだった。
枝を掻き分けて、立った。
一歩ぶん、押し込まれている。
さっきより、半歩広い。
薙いだぶんだけ、あれは自分の通り道を広げている。
こちらが半歩動いても、もう体ごと向き直らない。前足だけで足りてしまう。
この幅では、先に届かない。
下がる。
祠のほうは、まだ薙がれていない。
二歩、三歩。
背中側の道が、元の狭さに戻った。
息は、変わっていない。
減っているのは、鉈のほうだった。
押し返してはいない。押される速さも上がっている。
でも、まだ通していない。
半歩、また左へ。
この幅では、前足だけでは足りない。
魔物が体ごと向き直る。向き直るあいだ、前足は地面についている。
そこへ踏み込んだ。
肘から先ではない。体ごと入れた。
五度目は、届いた。
三度ぶんの刻みが、そこで開いた。
骨には当たらない。当たらないまま、刃が向こうへ抜けた。
爪が一本、根元から落ちた。
魔物が沈んで、はじめて声を出した。低い音が、腹の底を殴ってくる。
振り抜いたところへ、その頭が返ってきた。
横に薙いでくる。避ける先は、道の外しかない。
鉈で受けた。
受けた、と思ったのは一瞬で、次には手の中が軽くなっていた。
鼻先が肩に入って、体が浮いた。
石混じりの地面に落ちて、二度跳ねて、石積みの手前で止まった。
鉈の刃は、離れたところに落ちている。
柄は半分から先が無かった。折れ口だけが白い。
背中が熱い。
手をやると、指が濡れた。深さは分からない。届かない場所だった。
(参ったな)
立った。
手に残っているのは、柄だけだった。
魔物が身を起こす。
土を掻いて、また前へ出てくる。前足の一本が、うまく着いていない。
速くはない。止まりもしない。
後ろでは、まだ声がする。
ここを通せば、追いつかれる。
背中のすぐ後ろに、石積みがあった。
板の屋根の下、戸が閉まっている。
この戸が開いたところを、見ている。
粉と塩を供えた日だ。
中に、剣が一振り納めてあった。古い。鞘の金具は色が抜けて、それでも柄は巻き直してあった。
祠には、誰もいない。
村じゅうが、峠のほうへ行ってしまった。
折れた柄を、足元に落とした。
トトは、板戸のほうへ顔を向けた。
「それ、借ります」




