30:それなら、うちの小屋だ
まだ暗いうちから、外で人の声がしていた。
戸を開けると、息が白かった。コゲが足元に寄ってきて、トトの脛に背中を擦りつけた。
道に灯りが並んでいる。荷車の脇に二つ、そこから村のほうへ点々と。
裂いた布を巻いた棒が、筵の上に揃えてあった。
油の壺は、二つとも荷車に載っている。
誰も大きな声を出さない。支度の音だけがしていた。
数えると、十人いた。
年寄りが先頭で、そのうしろにヨハンネがいた。
カーヤは戸口に立って、列のほうを見ていた。隣に、近所の女が一人ついていた。
トトは、年寄りの前に立った。
「山の奥へは、入らないほうがいい」
「はい」
年寄りは、頭を下げた。
「ご心配は、ありがたいです」
「二人、戻っていません」
「ええ」
それきりだった。
断られたのではない。受け取られて、そのまま横に置かれた。
歩き出そうとする年寄りを、また引き留めた。
「昨日、山が鳴りました」
「はい」
年寄りは、灯りを持ち直した。
「だから、行くんです」
筋は通っている。山の神が怒っているなら、詫びに行くのは正しい。
止める言葉は、もうなかった。
「薬草士さんは、いいんですよ」
列の後ろから、そう言った者がいた。
「よその人に詫びてもらうことじゃ、ありませんから」
悪気のない声だった。何人かが頷いて、それで話が終わった。
ヨハンネと目が合った。
頭を下げられた。昨日、器を受け取ったときと同じ下げ方だった。
道の端に、イリスが立っていた。
手帳を開いて、書いている。
列が動いた。
山の口まで、村の道を一本行くだけだ。灯りが並んで上っていく。
トトはついていった。
コゲが足元を歩いていたが、暗がりで踏まれかねない。抱え上げて肩に乗せた。
祠の前で、年寄りが最初の灯心に火を入れた。
油が染みて、布がゆっくり燃えはじめる。石積みの前に一つ、二つと置かれていった。
コゲが肩の上から、その火を見ていた。
誰かが祈りの文句を唱えて、後ろが繰り返す。息が白く固まって、灯心の上を流れていった。
山の口の道は、そこから細くなる。
先頭が入りかけたときだった。
上のほうで、木が鳴った。
枝ではない。太いものが裂ける音がして、それから倒れた。
全員が止まった。
近い。
あの太い木の、すぐ上あたりだ。
道の上で、落ち葉を蹴る音がした。
コゲを肩から下ろして、前に出た。列と道のあいだに入って、鉈の柄に手をかける。
抜きはしなかった。
下りてきたのは、人だった。
木につかまりながら、足の運びが合っていない。途中で膝が折れて、そのまま前へ倒れた。
先に着いたのは、トトだった。
抱え起こすと、鹿を担いできた、あの男だった。あとから男衆が三人、駆け上がってくる。
左の肩から腕にかけて、上着が裂けている。布が黒く固まっていた。
もう片方の手は、指が二本、あらぬ向きに曲がっている。
目は開いていた。開いていて、こちらを見ていない。
「筵を一枚、外してください」
声が届くまでに、一拍かかった。
二人がかりで棒から布を抜いて、筵の両端に巻きつけた。
男を乗せて、四人で担いだ。村へ下りる。
コゲが、後ろからついてきた。
祈りの文句は、途中で止まったままだった。
借りている家に運んだ。
炉に火を入れて、湯を沸かす。
狭い部屋に、血の匂いが立った。
コゲが寝台の下へ入りたがったので、外へ出した。
「あとでな」
上着を切って外すと、肩の傷が出てきた。
三本、爪で裂いたような形をしている。深いが、骨には届いていない。
ヨハンネが湯を運んできて、そのまま脇に座った。
布を裂く手が、迷わなかった。何度かやったことのある手つきだ。
「押さえていてください。ここです」
「はい」
洗って、血を止めて、縫った。針を持つと、後ろで誰かが顔を背けた。
指は引いて戻して、添え木を当てて縛った。男は途中で二度、気を失った。
肩に布を巻くあいだ、ヨハンネは手を離さなかった。
布の端を留めてから、ヨハンネが言った。
「そういうことも、なさるんですね」
「旅の中で覚えました」
「そうですか」
それ以上は訊かれなかった。
戸の外に、人が溜まっていた。
「灯心は、まだ燃えとります」
「置いてきたままですからね」
「下げに行かんと」
「今日は、やめときましょう」
それきり、誰も祠のことを言わなくなった。
昼を回った頃に、男が口をきいた。
「暗かった」
トトは寝台の脇に寄った。
「はい」
「大きかった」
「はい」
荒い呼吸が、しばらく続いていた。
トトは呼吸が落ち着くまで待った。
「どのあたりですか」
「……分かりません」
「上ですか、下ですか」
「分かりません」
男は目を閉じた。
「詫びが、届かんかったんです」
戸口のほうで、そう言う声がした。誰のものかは分からない。
「あれだけ供えて、まだ足りんと」
「詫びに行くことも、許されんということですか」
灯心を裂いていた女の声だった。
年寄りの声は、しなかった。
日が落ちてから、男がもう一度目を覚ました。
水を飲ませると、少し落ち着いた顔になった。
礼を言われた。それから、思い出したように付け足した。
「そういえば、上の小屋のほうに、煙が出とりました」
「煙」
「ええ。昨日か、一昨日か。誰か焼いとるな、と」
戸口のところで、音がした。
ヘニングが立っていた。いつからいたのかは分からない。
入ってきて、寝台の脇まで来た。
「どっちの小屋だ」
「古いほうです。谷を一つ越えた」
ヘニングは、しばらく動かなかった。
「それなら、うちの小屋だ」
戸の隙間から、コゲが入ってきた。
床の匂いを嗅ぎながら歩き回って、最後に炉の前で丸くなった。
誰も追い出さなかった。




