27:毎年、少しずつだ
朝のうちに、牛の声が止んだ。
道には、夜の灯りの跡が残っていた。藁が散って、踏まれている。
繋ぎ直された牛が、飼葉に鼻を突っ込んでいた。
「今朝は、静かなもんです」
引いてきた男が、縄を柱に回しながら言った。
「夜通し鳴かれて、どこも寝ちゃいません」
「でしょうね」
「供えたのが、届いたんでしょう」
山へ入るのは、三日ぶりだった。
三番目の谷を探すつもりだった。ヘニングは大きな岩が三つ重なっている、と言っていた。
コゲを肩に乗せて、上りはじめた。
斧の音は、今日も山に入ってすぐのあたりでしていた。あの太い木より下だ。
伐っている二人の脇を通ると、片方が手を止めた。
「また上ですか」
「三番目の谷まで」
「あのへんは、水が切れてますよ」
「上でまた出ると聞きました」
「よく知っとられる」
「今日は、尾根のほうにも一人入ってます」
「上へは、誰も行かないと」
「止めたんですよ。でも、罠を見て、帰りに炭木を負ってくる、と言って」
もう片方が、束ねた木を足で寄せた。
「昨日、鹿が掛かりましたから。神さんは許してくれた、と」
二人とも、上のほうを見ていた。
「薬草士さんも、ほどほどに」
「……はい」
トトが歩き出しても、斧の音は聞こえてこなかった。
太い木の手前まで来て、足が止まった。
その先は踏み跡が細くなる。三日前は、そこを通り過ぎただけだった。
足元は、今年の伐り跡だった。切り口が白く、年輪がそのまま読める。
振り返ると、斜面を伐り跡が点々と下っていた。
すぐ下の株は切り口が灰色で、縁が崩れかけている。株の脇から出た枝は、もう腕ほどの太さがある。
いちばん下のものは苔に埋もれて、萌芽が木になっていた。
コゲを下ろして、下から順に上がり直した。
灰色の切り口は、まだ数えられた。二つ、三つ。
苔に埋もれたものは読めない。そちらは、株から出た枝の太さで測った。
コゲは株から株へ、続きの道のように渡っていった。
草も、同じことを言っていた。
伐って日が入ったところには、まずキイチゴのような藪が来る。
下の伐り跡は、それがもう終わって、日陰の草に戻っていた。上へ行くほど、藪が濃い。
道も、そうだった。
下のほうは広く踏まれている。上へ行くほど細くなって、太い木のところで消えかかる。
三日前は、そこが境目だと思っていた。境目のほうが、毎年動いていた。
伐り跡は、斜面を横につながって並んでいた。
同じ段の株は、どれも同じ古さだ。その上に、もう一段。さらに上に、また一段。
一段上がるごとに、一年ぶん新しくなる。
下から順に数えた。伐り跡の段は八つあった。
下りて、数え直した。やはり八つだった。
「毎年、少しずつだ」
コゲは聞いていなかった。株の裏で、何か掘り返している。
一段の幅は、畑を一つ広げるほどしかない。
去年との差なら、並べて見ても分からない。
いちばん下の段まで下りて、足を止めた。
村がよく見えた。屋根と、窯の煙と、道が一本。
ヘニングが指したのは、この高さだった。
ここから上が、八年ぶんだ。
戦が終わって、八年になる。
息を一つ吐いた。
斧の音は、まだ下でしている。
コゲが株の上に乗って、こちらを見ていた。
「行くぞ」
歩き出すと、コゲは素直についてきた。
三番目の谷は、太い木を過ぎて、しばらく上ったところにあった。
大きな岩が三つ、重なるというより寄りかかっていた。教わったとおりだ。
水は途中で切れて、少し上でまた出ていた。これも聞いたとおりだった。
草は多くなかった。それでも二種類、採れた。
根を切って、土を落として、布に分ける。指が冷えて、途中で息を吹きかけた。
顔を上げると、コゲが岩の上で後ろ足で立って、あたりを見回していた。
背中の翼が、少しだけ開いている。
こちらを向いて、口を開けた。
ふすん。
白い息と、どちらが煙か分からなかった。
「下りられるか」
「きゅう」
下りられなかったので、抱えて下ろしてやった。
谷の口からは、尾根が見えた。
こちらの斜面より一段高く、雪が筋になって残っている。木は、まだ詰まっていた。
あの向こうに、今日一人入っている。
コゲがふくらはぎを引っ掻くようにしたので、肩に乗せてやった。
そのまま、山を下る。
下りながら、ヘニングに何と言うか考えた。
山の奥へは、入らないほうがいい。言うだけなら、すぐ言える。
三日前は、もう一度探しませんか、と言った。行かんのです、と返ってきた。
旅の人に言われてもねえ。よその土地で、何度も聞いた言葉だ。
それでも、言うだけは言う。
村へ下りた頃には、日が傾いていた。
窯へ寄るつもりだった。
その窯の前に、人が集まっていた。
「まだ戻らんのです」
言ったのは、若い女だった。昨日、祠の前で拝んでいた中にいた顔だった。
「どなたが」
「昨日、鹿を担いできた、あれです」
トトは、その顔を思い出した。棒の前を持っていたほうだ。
「いつ出たんです」
「昼前です。罠と炭木に、尾根の向こうまで」
「一人で」
「一人です」
脇にいた男が、荷縄を握ったまま付け足した。
「明るいうちには戻ると、言うとりました」
女は道の先を見ていた。
「供えたのが届いた、と思ったんです。みんなで」
女が振り向いた。顔色が白い。
「詫びが、足りんかったんでしょうか」
二人ばかりが、黙って頷いた。
誰かが灯りを持ってきた。
先に立ったのは、ヘニングだった。窯の火はそのままにしてある。
男衆が四人、道を山のほうへ歩いた。トトはヘニングのすぐ後に続いた。
ヘニングが灯りを高く上げた。
「今日は、どこまで行った」
「三番目の谷まで」
「あそこは、まだ浅い」
それだけ言って、また上を向いた。
山の口で、男たちが名を呼んだ。
声が木のあいだへ入って、そのまま消えた。
もう一度呼んだ。今度は、長く待った。
風が下りてきて、灯りの火が横に流れた。
山の口から上へは、誰も行かなかった。
灯りが一つずつ、引き返しはじめる。
コゲが身じろぎしたので、手をやって背中の鱗を撫でた。
祠の前に、年寄りがしゃがんでいた。
供物を置き直している。手元だけが明るかった。




