22:今は、誰も入っとらん
街道沿いの宿屋で、隣の卓の話が聞こえた。
「ブーヘ」
「峠向こうの炭焼きの村か」
「山に入った男が戻ってないそうだ」
「この前雪が降っただろう」
「ああ、それで探せなくなったと」
トトは、パンをちぎって卓の下へ落とした。
コゲが飛びついた。
(ブーヘ、か)
山際には、珍しい草があるかもしれない。
翌朝、街道を外れた。道が細くなって、荷車の轍が上へ続いている。
峠を下りきる前に、炭の匂いがした。
風は下から吹き上がってくる。木の焼ける匂いが、その中に混じっていた。
道の両側は林だった。葉を落とした木が、斜面の上のほうまで続いている。足元は落ち葉で、踏むと乾いた音がした。
コゲが肩の上で、鼻先を風上へ向けた。
「匂うな」
落ち葉を一枚拾って、指で割ってみた。ブナだ。
実も落ちている。踏まれて割れた殻が、道にいくらでもあった。
中身をつまんで掌に乗せると、コゲが鼻先を押しつけてきた。
「食えるが、お前の腹は膨れんぞ」
「きゅ?」
それでも咥えて、口の中で転がしていた。
山の上のほうだけ、白かった。
日の当たる側から消えかけていて、木の間にまだらに残っている。あの卓で聞いた雪だろう。
アーレ村を出て、十日になっていた。
道が曲がって、村が見えた。
峠を下りきったところが、平らに開けている。
道が一本、その真ん中を真っ直ぐに通っていた。両側に家が並んでいる。
端から端まで見通せた。向こうの突き当たりが山で、そこから細い道が上へ伸びている。
アーレ村の倍はある。屋根の新しい家が、いくつか混じっていた。
道の脇に荷車が二台。片方に炭俵が積んである。積み方に迷いがなかった。
子供の声が、どこかでしている。一人ではない。
畑は村の外れに少しだけで、あとは山だ。木を売って、食い物を買う村だろう。
肩の上が落ち着かなくなった。下ろしてやると、鼻を上げたまま先を歩いていく。
「そっちは人の家だ」
聞いていない。匂いのするほうへ、まっすぐ行く。
道の途中に、土を盛った窯があった。
上のほうから細い煙が出ている。脇に男が座って、それを見ていた。五十くらいだろうか。手も袖も、黒い。
トトは足を止めた。
「こんにちは」
男は顔を上げて、それからトトの足元を見た。
「……なんだ、そりゃ」
「大きなトカゲです」
「トカゲ」
「ええ」
コゲは四つ足のまま、窯の縁の匂いを嗅いでいた。男はしばらく見ていて、それから煙のほうへ目を戻した。
「泊まるところ、ありますか」
「宿はない」
男は膝に手をついて立ち上がった。腰が、一度では伸びない。
「……一軒、空いとる」
顎で指したのは、道の途中の一軒だった。
「戦の頃からだ。屋根は落ちてない」
「お借りしても」
「勝手に使え。誰も困らん」
男は窯のほうへ戻りかけて、振り返った。
「ヘニングだ」
「トトといいます。薬草士です」
「薬草士」
繰り返しただけで、あとは何も続かなかった。
家は思ったより広かった。
床は土のままで、真ん中に石を組んだ炉がある。奥に寝台が一つ。窓は板で塞いであった。
埃をはたいて、荷を下ろした。コゲは先に入って、部屋の隅から隅まで嗅いで回っている。
寝台の下まで潜って、また出てきた。
「気に入ったか」
炉に手をやると、火が点いた。
薪は残っていた誰かの分だ。細いのから足していく。煙が上がって、屋根の隙間へ抜けていった。
コゲが火の前に座り込んで、頬を膨らませた。
「よせ」
ふすん。
煙だけが出た。手で払ってやると、不服そうに首を引っ込めた。
「煙なら足りてる」
荷を解いた。
壁に板が何枚か立てかけてある。一枚下ろして、布に包んだ草を広げた。
十日も包んでいたので、湿りが入っている。火の近くは避けて、風の通るほうへ寄せた。
水は家の裏の桶に溜めてあった。
汲んでみると、濁っている。長いこと放ってあった水だ。
手をかざした。
濁りが下りて、澄んだ。
器に入れて、床へ置いてやる。
コゲが首を伸ばして、飲んだ。
残りを鍋に移して、炉にかけた。荷から草を出して一つまみ落とす。体が温まるだけのもので、薬というほどのものではない。
日が落ちるころ、戸を叩く音がした。
ヘニングが立っていた。布に包んだものを抱えている。
「何もないだろ」
布から出てきたのは、黒くなるまで干した肉と、パンと、豆を煮たものだった。
「助かります」
肉を裂くと、繊維に沿って気持ちよく割れた。噛むと塩気が出てくる。
「これは、よく干してありますね」
「炭焼きだ。火だけはある」
パンは麦だった。買ったものだろう。
豆には木の実が混ぜてある。潰して煮てあるので、甘みだけが残っていた。
器に湯を注いで、手の甲に近づけた。
少し待って、それからヘニングに渡した。
ヘニングは戸口に立ったまま受け取った。中へは入らない。
「……なんの草だ」
「体が温まるだけのものです」
「ふん」
匂いを嗅いでから、口をつけた。
「炭は、どこまで運ぶんです」
「峠の向こうだ。半日ある」
「あの荷車で」
「二日に一遍。今年は多い」
ヘニングは指を折りかけて、やめた。
「家を建て直しとるからな」
肉を一切れ、床へ落としてやった。
コゲが咥えて、そのまま横を向いて食べはじめた。
「そいつも食うのか」
「見た目の倍は食います」
ヘニングが笑った。笑うと、目のまわりの皺だけが黒いままになった。
「草を売りに来たのか」
「そのつもりです。この辺りは、山のものが出ますか」
ヘニングは、すぐには答えなかった。
窯のほうを一度見てから、言った。
「出るには出る」
「では」
「今は、誰も入っとらん」
それだけ言うと、器を突き出した。
トトが受け取ると、ヘニングは戸を閉めていった。
夜、コゲは火の前で丸くなっていた。
トトは荷の底から木彫りを出して、掌に載せた。
不恰好な牛の木彫りだ。角の片方が短い。足も彫りきれていない。
紐は擦り切れたままだ。
しばらく眺めて、それから荷へ戻した。
寝る前に、戸を少し開けた。
道の突き当たりに、山への口がある。暗くて、木の影しか見えなかった。
窯の煙は、細くなっていた。




