21:どちらの話です
その村にも、宿帳はなかった。
イリス・エンデは、坂を上りきったところで一度足を止めた。
道が一本、上へ伸びている。両側に家。上の端に山への道、下の端に畑。数えるほどの戸数だ。
山は禿げていた。木が一本もない斜面が、村の上から峠まで続いている。
これが、記録にあった村だった。
最初に話しかけたのは、道で薪を負っていた男だった。
「王都から参りました。九年前のことを伺いたいのですが」
「九年前」
男は束を下ろした。
「あの秋のことかね」
「はい」
「そりゃ、ヤーコプに訊くのがええ」
ヤーコプという老人は、道の途中の家の戸口に座っていた。
豆の莢を剥いている。イリスが名乗ると、莢を籠に落として、それから腰掛けの隣を空けた。
「役人さんかね」
「調査官です」
「同じようなもんじゃろ」
否定しなかった。役人だと思われているほうが、話は早い。
語りは、頭から出てきた。
九年前の秋。刈り入れが済んだあと。夜中に峠のほうで音がして、犬が鳴きやまなかったこと。山が光ったこと。白いのが上まで真っ直ぐに伸びたこと。朝になっても何も下りてこなかったこと。
イリスは手を動かし続けた。
日付が正確だった。この手の証言で日付が出ることは、そう多くない。
「勇者様が止めてくださったと聞いた」
「どなたから」
「覚えとらん。じゃが、あれ以外に何がある」
イリスは頷いて、書いた。
九年前の秋、この山域で大魔法。目撃者は光のみ。撃った者を見た者なし。
書いてから、少し手を止めた。
撃った者を見た者は、いない。エンデ村でも、そうだった。
「あの年、勇者様は何度も動いておられました」
言ってから、余計なことだと思った。
「そうかね」
「南から順に。ここは、その途中です」
ヤーコプは莢を割った。
「順番があるんじゃろな」
その言い方には、聞き覚えがあった。
九年前、村の年寄りが同じ言い方をした。誰も悪くない。順番があるだけ。
イリスは頁をめくった。
「近ごろ、変わったことはありませんでしたか」
「変わったこと」
「人の出入りとか」
ヤーコプは、少し考える顔をした。
「薬草士が泊まっとった」
「薬草士」
「三日前に発った」
イリスは書いた。
「お名前は」
「トト、と言うとった」
「トト」
書いた。字が短くて、行の端が余った。
「どんな方でした」
「三十くらいかの。背は、あんたより高い。髪は焦げ茶で、伸びっぱなしじゃった」
人相書きを出そうとして、やめた。金の髪の男の絵だ。訊くまでもない。
「それから、でかいトカゲを連れとった」
「トカゲ」
「肩に乗せてな。子供らが懐いとったわ」
イリスは書いた。書きながら、手が止まった。
十八の町と村を回って、そんな話は出てこなかった。
「その方は、何を」
「炉を直していきよった」
「炉を」
「石を組み替えるんじゃ。風が入るようにな。湯が早う沸くようになった」
ヤーコプは自分の家の中を顎で示した。
イリスは覗いた。石を組んだ炉があって、上に棚が渡してある。棚には、黒くなった肉が並んで吊るされていた。
「あの肉は」
「猪じゃ。五頭も来てな」
「五頭」
「畑をやられた。追い立てとったら、あの人が仕留めた」
莢が籠に落ちた。
「一人でな」
イリスは、書く手を止めた。
「一人で、五頭」
「そうじゃ」
「猟師の方ですか」
「薬草士じゃと言うとった」
ヤーコプは笑った。
「戦に出とったそうじゃ。それだけ訊いた」
イリスは、別の頁を開いた。
勇者の記録とは、頁を分けている。九年前のことと、三日前のことは、別の話だ。
薬草士トト。三十前後。焦げ茶の髪。大きなトカゲ。三日前に発つ。行き先不明。
猪五頭を単独で仕留めた。元従軍。
書いてから、もう一度読んだ。
腕の立つ元兵が、薬草を売って歩いている。珍しくはない。あの戦のあと、そういう人間は何百人といる。
勇者の仲間たちも、それぞれの場所へ戻っていった。故郷に帰った者、司祭になった者、王都に残った者。仲間たちのうち、話を聞けたのは王都の一人だけ。会いに行けば、往復で半月が消える。だから行かなかった。
それは、正しい判断だったはずだ。
イリスはそのときの頁を開いた。
クラーラ・シェンク。王都の魔法使い。
第一声は「本人の意思は、確認しましたか」だった。
しばらく話をしたが、行き先の手がかりになるような話は聞けなかった。隠している様子はなかった。本当に心当たりはないのだろう。
イリスは、薬草士の記録の頁を開き直した。
「その薬草士は、どちらへ」
「峠は越えとらん。下りていった」
「下」
「街道のほうじゃな」
イリスは、日付と方角を書き足した。
名が偽りでも、日付と方角は嘘をつかない。
立ち上がるとき、ヤーコプが訊いた。
「あんたが探しとるのは、どちらの話です」
イリスは、手帳を鞄に入れた。
「九年前のほうです」
「そうか」
ヤーコプは、また莢を剥きはじめた。
村を出るとき、畑の縁で娘とすれ違った。
十七か十八くらいだろう。籠を抱えている。
イリスを見て、足を止めた。
「王都の人?」
「はい」
「勇者様のこと、調べてるの?」
「そうです」
娘は少し黙ってから、言った。
「勇者様って、王都に行けば会えますか?」
イリスは、答えなかった。
答えられなかった、と言うほうが近い。
「やっぱり簡単には会えないですよね」
娘はそう言って、坂を上っていった。
道を下る。
峠を振り返ると、木のない斜面が上まで続いている。
薬草士は、この道を下りていったという。三日前。
追う理由はない。
それでも、方角だけは書いてある。
九年前のことは、書けた。
探している男については、十九の村を回って、まだ一行もない。




