18:戦に出とったのか
声が聞こえたのは、昼を少し過ぎたころだった。
トトは村の道の途中で、六軒目の炉に石を据えているところだった。アニカが灰の桶を持って、外に出ようとしていた。
その桶が、戸口で止まった。
「……なんか言ってる」
外へ出ようとして、足元を見た。コゲが先に戸口へ回り込んでいる。
抱え上げて、家の中に戻した。
「出るな」
「きゅ?」
戸を閉めた。
上の端のほうから、人が下りてくるところだった。
走っている。走りながら、何か叫んでいる。
「畑! 畑!」
道の左右の戸が次々に開いた。鍬を持った男が出てきて、棒を持った女が出てきて、子供が出てきて、母親がその子を家の中へ押し戻した。
誰も慌てていない。手順が決まっている顔だった。何度もやっているのだろう。
その手順のまま、村じゅうが下へ走った。
畑の縁に着いたときには、もう入られていた。
畝がめくれている。播いたばかりの列が、二本、根こそぎ掘り返されていた。
黒いものが、その上に四つ。いや、五つ。上のほうから、まだ下りてきている。
大きい。どれも腹が薄い。
村の男たちが、棒を叩いて声を上げた。
「回れ、右へ回れ!」
「そっちへ行くぞ!」
「畝に入るな、踏むな!」
輪になって、少しずつ詰める。猪が一頭、鼻を上げて向きを変えた。
棒が届く距離ではない。届く距離まで行けば、突かれる。
だから届かない距離で叩いている。それが村のやり方なのだろう。追い立てて、畑から出す。
トトは鉈に手をかけて、そのまま止めた。
村のやり方がある。手を出すのは余計かもしれない。
一頭が輪を割った。
真っ直ぐ抜けて、男の一人にぶつかった。男が飛ばされて、畝の上を転がった。
「押さえろ!」
誰かが叫んだ。誰も押さえられない。
トトは走りながら鉈を抜いた。
一頭目は、輪を割ったやつだ。転がった男に向き直ろうとしたところに割り込んだ。
走ってきた勢いのまま、鉈を低く走らせて脚を払った。すぐに返して首を叩く。
大きな体が畝の上に落ちて、重い音がした。
二頭目は、そのまま走った先にいた。首を大きく振って、こちらを向いた。
その時にはもう、鉈が首を切り裂いていた。
その隣に三頭目。大きく踏み込んで、首を叩く。
声が減った。
叩く音も減った。村の男たちの動きが止まって、それから、道を空けるように後ろへ下がった。
四頭目は畑に尻を向けて走り出すところだった。そのままでは、畑を囲む男たちに突っ込んでいく。
トトは大きく跳んで、着地の勢いで首を叩いた。
少し遅れて、男たちがさらに下がった。
顔を上げる。
男たちの向こうにアニカが立っていた。
桶を抱えて道を下りてきたそのままの姿だった。
五頭目がトトの横を駆け抜けていく。まっすぐ進めばアニカがいる。
トトは手を返した。
横を抜ける猪の首に、鉈の刃が下から入る。
猪の走る勢いはすぐには止まらず、アニカの二歩ほど手前で倒れた。
灰が舞った。桶が落ちて、白いものがアニカの足元に広がった。
「……あ」
アニカの声が漏れた。
それだけだった。
六頭目は、もう畑にはいなかった。
斜面を駆け上る尻だけ見えた。
猪の体が、五つ転がっている。
風が吹いて、灰が畝の上を流れていった。
トトは鉈を下げたまま、立っていた。
村の誰も、動かなかった。
二十人ばかりが、畑の縁に並んで、こちらを見ている。棒を持ったまま、下ろすのも忘れている顔だった。
「怪我をした方がいます」
声を出した。
それで、村が動いた。
飛ばされた男は、畝の上で腿を押さえていた。
トトは膝をついて、その手をどかした。
「離してください」
「痛い」
「離さないと、止まりません」
布を裂かせて、傷の上と下を押さえさせた。傷は深くないが、幅がある。牙が横に払ったのだろう。
「そこ、強く。離さないでください」
「……はい」
近くに立っていた男が、言われた通りに足を押さえた。
「水を。濾したのがあるでしょう」
「濁っとるぞ」
「濾したほうです。上の桶の」
「持ってくる!」
女が走った。
トトは荷を持ってこさせて、布の包みを開けた。
昨日ヤーコプに教わって摘んだ草が、三本入っている。
石の上でそれを焼いた。焦げるまで焼いて、指で押して粉にした。
粉を傷に置いて、布で押さえた。
「これは」
ヤーコプが後ろから覗き込んだ。
「あなたに教わった草です」
「……昨日のか」
「はい」
ヤーコプは、何も言わなかった。
血は、じきに止まった。
男は白い顔をしていたが、自分で座り直せる程度だった。
「話せますか」
「話せる」
「歩かないでください。運びます」
板を持ってきた者があって、四人がかりで運んでいった。
猪が五つ、転がったまま残った。
誰も、まだ手をつけていない。
「あんた」
棒を持った男が言った。四十くらいの、髭の濃い男だ。
「あんた、薬草士だと言うたな」
「はい」
「……そうか」
男は棒を下ろした。
「助かった」
「畑は、やられました」
「二本じゃ。去年は五本やられとる」
男は笑わずにそう言って、それから猪のほうを見た。
ヤーコプが、その横から言った。
「戦に出とったのか」
トトは、鉈の刃を布で拭いていた。
拭き終わるまで、少し間があった。
「……ええ」
「そうか」
誰も、それ以上訊かなかった。
この国の男で、あの年に何もしなかった者は少ない。訊くほどのことではない。
棒を持った男が、猪の一頭を足で押した。もう動かないことを確かめて、それから声を上げた。
「運ぶぞ!」
村が、そこでようやく騒ぎ出した。
夕方まで、畑と道は人の出入りが続いた。
男たちが猪を担いで、女たちが桶と縄を持って上がってきた。子供が畝の間を走って、母親に叱られた。
畝は二本、駄目になっていた。それでも、村は上機嫌だった。
「今年は、数が多い」
縄を掛けながら、ヤーコプが言った。
「山に、食うものがないんです」
「そうじゃな。毎年、そうじゃ」
ヤーコプは縄を締めた。
「去年もきた。今年も来た。来年も来るじゃろう」
ヤーコプは、そこで少し笑った。
「今年は五頭も置いていった」
アニカは、畝の上に座っていた。
落ちた桶を膝に抱えて、灰を集め直している。集めても仕方のない灰だった。
「大丈夫ですか」
「うん」
彼女は顔を上げなかった。
「桶、割れた」
「そうですか」
「あんた、走るの速いね」
トトは荷を担ぎ直した。
アニカは小さく息を吐いた。
「猪より速いんだ」
「そんなことはないです」
「あったよ」
アニカは灰のついた手を膝で拭いて、それから立ち上がった。
「息、切れてないよ。また」
そのまま、桶を抱えて坂を上っていった。
コゲは、家の戸口から一歩も出ていなかった。
トトが戻ると、床で丸くなっていた。近づくと顔を上げて、それから匂いを嗅いだ。彼の上着を、長いこと嗅いでいた。
それから、こちらを向いて口を開けた。
ふすん。
煙を見て、トトは小さく息を吐いた。
「洗うから」
上着を脱いで、裾を見た。血が跳ねている。思ったより広くついていた。
汲んであった水は、さっき全部使ってしまっていた。
樋のところまで汲みに行くしかない。日はまだ落ちていなかった。
家の外では、まだ猪を運ぶ声がしていた。




