17:それは、知りませんでした
朝、湯が沸くのを待っているあいだに、炉の石を見ていた。
三つの石が鍋を支えて、その周りに灰が溜まっている。火は真ん中で燃えて、熱は上へ抜けていく。抜けた先には鍋があるが、鍋の横は素通りだ。
風の入るところがない。
「見とるな」
ヤーコプが莢の籠を膝に載せた。
「この炉は、三年前に積んだんじゃ」
「そうですか」
「それまでは、地面に石を置いて焚いとった。鍋は脇に置いて、火から離して」
莢が割れた。
「これにしてから、少しは楽になった」
トトは湯を飲んだ。
沸くまでに、ずいぶんかかった。
コゲは灰の手前まで来て、暖かいところを探している。それから、日の当たる土の上で丸くなった。
「石を、動かしてもいいですか」
ヤーコプは彼を見た。それから、炉を見た。
「壊さんならな」
石は三つとも動かした。動かしてから、一つ足した。
外に転がっているのを拾ってきて、風の来る側に低く据える。
その低い石と、もとの石の間を、指の幅ほど開けた。
石を持ち上げると、下から虫が出た。コゲが首を伸ばして、それを追った。
「そこは、埋めんのか」
「埋めません。そこから入れます」
「何をだ」
「風です」
昼前に、アニカが来た。
戸口から中を覗いて、石が動いているのを見て、それから何も言わずに入ってきた。
「何してるの」
「石を動かしています」
「見れば分かるよ」
アニカは屈んで、低い石の隙間を覗いた。指を入れて、風が来るのを確かめた。
「これ、なんのため」
「風です」
「ふうん」
反対側の石は、逆に高くした。
高くして、上に平たい石を渡す。
トトが端を持ち上げると、アニカが反対側を持った。
言われる前に持った。
渡した石と鍋の間に、隙間を残す。煙はそこを通って、梁のほうへ抜ける。
抜けるところを一つに絞ると、入るほうが引かれる。
北の山で、そう組んでいる家を見た。
二人の足元で、コゲがうろうろと歩き回っている。まるで自分も働いているかのような顔をしていた。
火を入れた。
最初は煙が多い。少し待つと、低い石の隙間から風が入って、煙が上へまとまった。
部屋に溜まる分が減った。
「湯が早いな」
ヤーコプがそう言ったのは、二度目に沸かしたときだった。
「はい」
「同じ薪で、同じだけ入れとる。それで早い」
ヤーコプは鍋の底を覗き込んだ。
「なんで?」
アニカが横から言った。
「風が入るからです」
「風が入ると、なんで早いの」
トトは少し考えた。
「よく分かりません」
「知らないの?」
「北の山では、こう組んでいました。それだけです」
アニカは彼を見て、それから炉を見て、もう一度彼を見た。
「あんた、ほんとにそれしか言わないね」
ヤーコプが笑った。
次の日、何軒か回った。
一軒目は、こちらから言った。二軒目は、隣の家の女が呼びに来た。三軒目からは、待っている人がいた。
やることは同じだ。石を一つ足して、一つ高くする。隙間を作る。鍋との間を開ける。
どの家でも、彼は同じ説明をした。
「風です」
それ以上は言わなかった。言えることが、それしかない。
アニカとヤーコプもついてきた。
ヤーコプは戸口の腰掛けに座って見ていた。
アニカは石を運び、灰を掻き出し、彼が手を出す前に薪を寄せた。
コゲが足元をうろうろするのは、変わらなかった。踏みそうになるのでじっとしていてほしいが、伝わらなかった。
日が傾くころ、最後の家の戸口に、薪を負った男が立った。
下から上がってきたところらしい。束を下ろして、組み直した炉を覗き込んだ。
「これなら、薪が少しは楽になるかね」
「なるかもしれません」
「そうか」
男は自分の束を見た。細い枝ばかりで、量のわりに嵩がある。
「木を、植えるかね」
「植えたわ」
ヤーコプが戸口の腰掛けから答えた。
「二度やった。下から苗を担いで上がってな」
「育たなかったんですか」
「一本も残らん」
男は笑った。
「じゃあ、また何年かしたらやるかね」
「そうじゃな。苗はお前が担げ」
「わしはもう腰が」
アニカが石を抱えたまま、二人を見ていた。
「斜面には、つきません」
二人が振り向いた。
「苗が根を張るには、日陰と水が要ります。あの斜面には、どちらもない」
「ほう」
「谷筋なら、つくかもしれません。水が落ちて、日の入らないところがあります」
ヤーコプは腰掛けの上で座り直した。
「あそこは狭いぞ」
「狭いです」
斜面がひと山ぶん禿げているのに、谷筋に何本か。それだけの話だ。
「まあ、担ぐ距離は短いわ」
ヤーコプはそう言って、また笑った。
コゲが新しい薪の匂いを嗅ぎに、近づいていった。
次の日は、水にかかった。
村の上の端から、沢の取水のところまで、三人で上がった。コゲは肩に乗せた。この高さなら、まだ機嫌がいい。
「汲むのを朝にしたのは、いつからです」
「五年ばかり前かの」
ヤーコプは桶を置いた。
「夜のうちに沈む。それに気づくまで、二年かかった」
「布は」
「布は、はじめからやっとる。粗いのは取れる」
「細かいのは」
「取れん」
水は、確かに濁っていた。上のほうで汲んでも、底に細かいものが残る。
トトは、桶を二つ借りた。
一つの底に穴を開けて、その上に布を敷いた。布の上に砂を入れた。砂は沢の縁から掬った。掬ってから、指で擦って、粗いのと細かいのを分けた。
砂の間に、炭を挟んだ。
炭は、炉の底から拾ってきたものだ。毎朝、灰と一緒に掻き出して捨てているものだった。
「それ、捨てるやつじゃん」
「捨てないでください」
アニカが炭を運んできた。手が黒くなっている。
砂を敷いて、炭を挟んで、また砂を敷いた。上から水を注ぐ。
落ちてきたものを、下の桶で受けた。
最初のひと桶は、濁っていた。
「駄目じゃないの」
「はじめは駄目です」
二杯目、三杯目。
四杯目から、落ちてくる水が変わった。
ヤーコプが柄杓で掬って、光にかざした。それから、口に含んだ。
何も言わなかった。長いこと、何も言わなかった。
コゲが桶の縁に首を伸ばした。
鼻先をつけて、そのまま飲んだ。
その日の帰りに、ヤーコプが道の脇の草を指した。
「これは、どうしとる」
石の間に生えている、小さい葉の草だった。彼が最初の日に摘んで、売れないほうへ入れた草だった。
「使いません。効くほどのものでは」
「焼くんじゃ」
「焼く」
「焼いて、粉にして、傷につける。血が止まる」
トトは足を止めた。
その草は、どこにでもある。荒れた土地にはとくにある。そういう土地を、ずいぶん回った。
「……それは、知りませんでした」
「そうか」
ヤーコプは歩き出した。
「うちの婆さんがやっとった。血の止まるものは町で買えるが、この辺りじゃまだやっとる」
トトは、その草を三本摘んで、荷に入れた。
コゲが荷の口に鼻先を突っ込んだので、押し戻した。
さらに翌日の午後、鍋を二つ火にかけた。
一つは、湿ったところの草だ。乾ききらなかった分を、煮て使う。
もう一つのほうは、包んで乾かしていた草だった。
アニカは灰を掻き出しながら、二つの鍋を交互に見ていた。
「そっちは何」
「草です」
「見れば分かるよ」
トトはそれ以上答えなかった。
しばらくして、アニカが立ち上がった。
湯を器に注いで、こちらへ持ってきて、床へ置きかけて――やめて、手の甲に近づけた。
少し待って、もう一度。
それから、床のコゲの前に置いた。
トトの手が止まった。
アニカを見たまま、動かなかった。動けなかった。
「……なに」
アニカが振り返った。
トトは、息を吐き出すと、鍋を見た。
「なんでもありません」
「今、止まってた」
「はい」
トトは、鍋の縁を布で押さえた。
「……昔、同じことをする人がいました」
「同じこと?」
「熱いものを渡す前に、手の甲で確かめる人です」
アニカは自分の手の甲を見た。
「べつに、珍しくないでしょ」
「珍しくないです」
湯が煮立ちかけたので、鍋を少し引いた。
「その人、どうしたの」
「もういません」
アニカは口を開いて、閉じた。
鍋が煮詰まってから、火から下ろした。
布を絞って、汁を器に移す。冷めるのを待つあいだに、日が傾いた。
彼はその汁を、指につけて、髪の根元に塗った。
根元はもうかなり元の色に戻っていた。これ以上は、もう誤魔化せなかっただろう。
「ねえ」
アニカが灰の桶を抱えたまま、こちらを見ていた。
「白髪、染めてるんだ」
トトは手を止めなかった。
「……そう見えますか」
「見えるよ」
アニカは桶を下ろした。
「三十三でしょ? 別に隠さなくていいのに」
「はい」
「隠すの?」
「隠します」
アニカは呆れた顔をして、桶を持って出ていった。
残った汁を、荷の布に落とさないよう気をつけて片づけた。
鍋を二つ洗って、炉の脇に伏せた。
それから、薪を割る場所を変えた。
風の入る側に置くと、乾きが早い。それだけのことだった。




