15:救われた村じゃからな
朝、髪の先をつまんで持ち上げた。
毛先はまだ焦げ茶色だった。
指を通して撫でつけた。何も起きない。もう分かっていたが、一応やった。
荷の奥に、包んだままの草がある。乾くまで、あと二日か三日。
その日は、村の家を回った。
草を売りに来た男の顔で、水と火のことを訊いた。売るものはないので、実際には訊きに来ただけだった。
どの家でも同じだった。火は火打ち石で熾す。水は上の端の樋から汲んで、布で濾して、桶で寝かせる。食べるものは、その日のうちに食べる。二軒目の女は、昨日の残りを犬にやったと言った。置いておけば駄目になるからだ。
誰も、困っているという顔をしなかった。それが当たり前だからだろう。
炉も、見せてもらえるところは見た。石の組み方は家ごとに違う。鍋が載るように組んであるのは半分ほどで、あとは石を三つ置いてあるだけだった。どの家も、煙は部屋に溜まって、梁の間から抜けていく。
コゲは二軒目で豆をもらった。三軒目では、戸を叩く前に子供が出てきていた。噂のほうが先に回っているらしい。
四軒目の家で、女が炉の灰を掻き出しながら言った。
「魔物が、置いていったんですよ」
「置いていった」
「山に、何か。あれ以来、うちのは誰も火が熾せません」
女は灰を桶に入れた。
「うちの婆さんは、指先でやってたんですけどねえ」
炉は、石を三つ置いただけだった。灰が奥まで溜まっていて、掻き出さないと薪が置けない。
風の入るところが、どこにもない。
「いつからです」
「魔物が来てから」
「それは、いつごろ」
「ずっと前ですよ」
女はそれ以上、何も言わなかった。言えないのだろう。この村では、年を数えて暮らす必要がない。
夕方、ヤーコプの家の開け放たれた戸口に、アニカが座っていた。
籠は持っていない。膝を抱えて、山のほうを見ている。
コゲがトトの肩から降りて、アニカの足元に座った。アニカはコゲをちらと見下ろしてから、トトを見た。
「ねえ。魔物の話、聞いたんだってね」
トトは荷を地面に下ろして、頷いた。
「聞きました」
アニカは膝の上に顎を乗せた。
「みんなそう言うの。魔物が何か置いていったって」
「あなたは違うんですか」
「違うよ」
それから、少し声を落とした。
「魔物のせいにしてたって、火はつかないでしょ」
ヤーコプは炉の前で、枝を手にしていた。
「またその話か」
「戦のせいだよ」
アニカは立ち上がって、山を指した。コゲがアニカを見上げた。
「魔物とか、置いていったとか、そういうんじゃなくて。戦になったから、山が壊れたの。木がなくなったんだから、そのくらい分かるでしょ」
「……そうかもしれんな」
ヤーコプは否定しなかった。
「山が傷んだのは、あの戦じゃろう。それは、わしもそう思う」
「じゃあ」
「じゃが、火と水は別じゃ」
枝が炉の中で崩れた。
「山が禿げたから火が熾きんようになる、というのは、話が繋がらん」
アニカは口を開いて、閉じた。
繋がらないのは、本当だった。
二つとも、同じところから来ているだけだ。
トトは腰掛けに座った。
「その夜のことを、聞かせてもらえますか」
ヤーコプは彼を見て、それから炉のほうへ向き直った。
「九年前の秋じゃ」
九年前。
秋。
(……あの年か)
「刈り入れが済んで、麦は納屋に入っとった。ちょうど、今ごろじゃな」
声は続いている。
「夜中に、峠のほうで音がした。地の底から来るような音でな。犬が鳴きやまんかった」
トトは、膝の上で手を組んでいた。
「それから、山が光った。白いのが、上まで真っ直ぐに」
そこまでは、他の者も言う。
「わしは戸を閉めた。皆そうした。外を見た者はおらん」
「あたしは見たよ」
「お前は子供じゃ」
アニカは何か言いかけて、やめた。
「朝になっても、何も下りてこんかった。峠にも、道にも。それで、助かったと分かった」
ヤーコプは枝を一本、炉の縁に置いた。
「あとから、勇者様が止めてくださったと聞いた。誰から聞いたかは覚えとらん。じゃが、あれ以外に何がある」
「……はい」
「あくる日から、火が熾きんようになった。それから、水も」
枝が置かれた音がした。
「あくる年は、何も穫れんかった。麦も、豆も、なんも」
トトは、組んだ手を解かなかった。
九年前の秋。刈り入れのあと。峠。越えようとしていた一隊。
その年に何をしたかは、覚えている。同じことを、何度もやった。どこでやったかは、一つずつ言えない。
言えないのは、記憶が薄いからではない。数が多いからだ。
だが、九年前の秋、この山域で撃ったか、と訊かれれば――。
「王都からは、何か」
訊いてから、自分でも唐突だと思った。
「なんもない」
ヤーコプは炉を見ていた。
「役人が回ってきたのは、二度だったか。話を聞いて、帳面に書いて、帰った」
「それだけですか」
「救われた村じゃからな。何も来やせん」
枝が燃えて、少し明るくなった。
「焼けた村や、人がおらんようになった村が、いくらでもあったんじゃろう。うちは村ごと残っとる。順番があるんじゃろうよ」
誰も悪くない、という言い方だった。
アニカは立ち上がった。
一度山の方を見て、唇を噛むと、何も言わずに歩き去った。その背中を、トトは見ていた。
コゲが足元に寄ってきて、靴の上に座り込んだ。
風が入って、炉の火が一度傾いた。
ヤーコプは膝の莢を籠へ落とした。
「あの子は、あの光を綺麗だと言うんじゃ」
「聞きました」
「わしは、恐ろしかった」
ヤーコプは笑った。
「どっちも本当じゃろうな」
その夜、板の上の草をひっくり返した。
湿ったところの草は、まだ乾いていない。
包んだほうの草も、一度開けて状態を確認した。
コゲが板の上を覗きこんで、匂いを嗅いで、離れていった。
寝る前に、峠の方角を一度見た。
戸の隙間からでは、何も見えなかった。
足元で、コゲが一度顔を上げて、また丸くなった。
あの年に撃った場所を、一つずつは思い出せない。
だが、その場に立てば分かる。谷の向き、峠の形、下がどう見えるか。
六年、そうやって歩いてきた。
峠まで、半日。
草が乾くまで、あと二日か三日。




