14:残ることがあるんです
「山へ入るんか」
ヤーコプは莢の籠を膝に置いたまま、上を見た。
「ええ。谷のほうを」
「なんもないぞ」
「見てから決めます」
「谷は行き止まりじゃ。水はあるが、それだけじゃ」
「日の入らないところは、残ることがあるんです」
「ふん」
ヤーコプは莢を割った。
「若いのが行くのは下じゃ。上へは、誰も行かん」
「獣は」
「おるよ。下りてくる」
莢が籠に落ちた。
「畑を掘られる。棒を持って追い立てるが、それだけじゃ。獲れはせん」
「獲れませんか」
「わしらの手には余る。何人でかかっても、あれは無理じゃ」
鉈を腰に回して、布と紐を荷に足した。ヤーコプは止めなかった。
「日のあるうちに戻れ。暗くなると、道が分からんようになる」
「はい」
山の口は、村の上の端にあった。
道というほどのものではなく、人の踏み跡が斜面を横に切っているだけだった。上がるにつれて草が短くなって、代わりに石が増えた。
コゲは肩の上にいた。
しばらく上ったところで、首を伸ばしたり引っ込めたりを何度もやりはじめた。それから、肩の上で向きを変えた。
「動くな。落ちるぞ」
「きゅ」
落ち着かない。爪が布越しに肩へ立った。
谷筋に入った。
水が細く落ちていて、両側が岩だ。日が入らない。こういうところは、上が禿げていても残ることがある。
斜面では膝より低かった草が、ここでは腰まであった。岩の間からはいばらが伸びている。荒れた土地に、いちばん早く戻ってくるものたちだ。
水と日陰があるのは、この筋だけらしい。
膝をついて、岩の間を覗いた。
苔はある。それから、湿ったところに出る草が二種類。どちらも見覚えのあるもので、どちらも痩せていた。数は少ない。この谷だけだ。
(残ってはいる)
根まで掘らずに、葉だけを摘んだ。掘れば、次がない。
肩が軽くなったかと思うと、背中から足をつたってコゲが地面に降りていった。
そのまま、近くの岩の上に座る。
「来ないのか」
「きゅう」
抱え上げようとすると、体を捻って抜けた。
「寒いか」
谷筋は日が入らないので、村よりは冷える。
でも、返事はなかった。
「腹が減ったか」
「きゅーっ」
コゲはこちらを向いて口を開けた。
ふすん。
風がすぐに持っていった。
「じゃあ、なんだ」
コゲは奥のほうを見て、それから彼を見た。
(そのどれでもないか)
何か理由があるのは分かる。けれど、その理由が何かは分からなかった。
少し待ってみることにした。
水際に屈んで、手を洗った。
落ちる水の下に、浅く溜まったところがある。覗くと、自分が映った。
髪の根元が、明るい。まだそこまで目立たないだろうか。でも、気づく人もいるかもしれない。
指を通して、いつもどおりに撫でつけた。
二日前と同じで手応えはない。水に映った髪色も変わらない。
もう一度やって、やっぱり同じだった。
(……そうか)
二日で、ここまでくるのか。明日や明後日には、もっとはっきりしてくるだろう。
立ち上がって、荷を背負い直した。
時間を置いても、コゲは動かなかった。
仕方なく、置いていくことにした。
「そこにいろ」
斜面を横に切って、上のほうへ回った。
この斜面の草は、やはりどこも短い。石の間に生えているのは日向のものばかりで、それは村の畑の畝にもあった。
途中で、土が掘り返されているところを見た。浅く、幅が広い。根を探した跡だ。
堅果の木が一本もない。
この時期に、山のものを食って冬を越す獣は、ここでは越せないだろう。餌があるほうへ下りるしかない。
下は畑。
(芽か)
播いたばかりの、指の長さのライ麦。あれを食うつもりなら、もう下りている。
谷筋へ戻ると、コゲはまだ同じ岩の上にいた。
抱え上げようとしたところで、草が鳴った。
谷の上のほうから、黒いものが出てきた。猪だった。
大きい。ただ、腹が薄い。
こちらを見て、逃げなかった。
石を蹴って、真っ直ぐ来た。
トトは鉈を抜いて、刃を裏に返した。
当てたのは鼻面の横で、一度。
猪は首を振られたように横へ流れ、崩れかけて、そのまま丈の高い草の中へ入っていった。草を割る音が、谷を下っていった。
鉈は、拭かずに腰へ戻した。
コゲは岩の上から動かなかった。猪よりも、奥のほうが気になるらしい。
「大丈夫か」
「きゅ」
暗くなる前に、谷を出た。
コゲを抱え上げると、こんどは抵抗しなかった。谷を離れるにつれて、コゲは落ち着いていった。
帰り道の途中で、コゲを肩へ移して、道端にしゃがんだ。日の当たる縁に、群れて生えている草がある。
葉を一枚ちぎって、指先で揉んだ。
根ごと引いて一束にした。谷のものとは別の布に包んで、荷の奥へ入れた。
村の道を上がっていくと、畑の縁にアニカがいた。
籠は空だ。何かを播いていたらしい。
「もう戻ってきたの」
「はい」
アニカは彼の荷を見た。それから、彼の顔を見た。
「それ、重いでしょ」
「まあ」
「息、切れてないね」
トトは荷を担ぎ直した。
「慣れですかね」
「ふうん」
アニカは籠を持ち上げて、彼の隣を歩きはじめた。
「うちの父さん、薪のときは坂で三回休むよ」
「それは若い方でも大変でしょう」
アニカは唇を尖らせた。
「あんたはどうなの?」
「さあ、やってみないとわかりません」
「あたしのこと、子供だと思って適当なこと言ってるでしょ」
「そんなことないですよ」
「ふうん」
アニカは納得いかない顔で、籠を抱え直した。
「山、なんかあった?」
「少し。日の入らないところに」
「あるの?」
信じていない顔だった。
「みんな、なんもないって言うのに」
「みんなが行かないところにありました」
アニカは彼の荷のほうを、もう一度見た。
コゲが肩の上から、アニカのほうへ首を伸ばした。
「きゅ」
「……そのトカゲ、ずっと乗ってるの」
「ええ」
「あんたも変だけど、そのトカゲも変」
家に戻って、谷で摘んだものを板の上に広げた。
湿ったところの草は、影に置いた。日に当てると駄目になる。
道端の一束は、板に出さなかった。包んだまま、荷の奥へ戻した。
「上に、猪がいました」
「おるじゃろ」
ヤーコプは火を起こしはじめた。
石を打つ音が、また三度した。




