13:じゃあ、あとどれくらい
石を打つ音で目が覚めた。
火打ち石だった。戸の隙間はまだ暗い。
ヤーコプが炉の前に屈んで、火口に移そうとしていた。何度か打って、枝を組み替えて、また打つ。三度目でようやく煙が立って、それから四つ数えるほど息を送って、ようやく炎になった。
毎朝これをやっているのだろう。手つきに迷いがなかった。
組んでいる枝は細い。太いものが一本もなかった。
コゲが腹の上から転がり落ちて、そのまま寝ていた。
起き上がって、髪に指を通した。根元から先まで、いつもと同じ手つきで撫でつける。
指の下で、何も起きない。もう一度、今度はゆっくりやった。同じだった。
毛先をつまんで、目の前まで引っ張ってくる。焦げ茶のままだ。
根元のほうは、自分では見えない。
部屋の隅に甕がある。覗き込んでみたが、暗くて、顔の形しか分からなかった。柄杓に手をかけたところで、声がした。
「揺らさんでくれ」
ヤーコプは炉のほうを向いたままだった。
「底に溜まっとる」
手を離した。
ヤーコプが来て、柄杓を静かに沈めた。深くは入れない。上のほうだけを三度掬って、鍋に移した。それでやめた。半分より下には、手をつけないらしい。
湯が沸くのを待つあいだに、外へ出た。
風が下りてくる。日が出ても、山の風は変わらない。
道を下の端まで歩いて、畑の前で足を止めた。
ライ麦の芽が、指の長さほど出ている。畝の間の土を少し掘って、指で崩してみた。
悪くない。細かいが、死んだ土ではない。
(ここまで戻したのか)
指の腹で擦って、匂いを嗅いだ。湿りが足りない。上に木がないので、水が抜けるのが早いのだろう。
畑の広さを見た。この村の口の数に、ちょうどというところだ。余る作りではない。
道を戻る途中で、下から人が上がってきた。
男が二人、背に薪を負っている。細い枝ばかりを縄で括った束で、量のわりに嵩がある。二人とも汗をかいていた。
細い枝は嵩ばかりで、火にすればすぐ終わる。半日かけて運んでも、使ってしまえばすぐになくなるだろう。
「おはようさん」
片方が息を切らしながら言って、そのまま通り過ぎた。
家に戻ると、湯が沸いていた。
朝も黒パンと豆だった。昨夜と同じ皿で、塩の壺も同じ場所にある。コゲにはパンを一切れやった。
食べ終わると、ヤーコプは開け放した戸口の腰掛けに移って、豆の莢を剥きはじめた。
「薪は、下から運ぶんですか」
「木があるのは、境から下じゃからな」
莢が籠に落ちた。
「半日下って、担いで上がる。若いのが交代でやっとる」
「毎日ですか」
「毎日じゃ」
トトは腰掛けの端に座った。日の当たらないほうの端だった。コゲが足元にきて、そこで丸くなった。
「ライ麦は、よく穫れていますね」
「ようやっと、じゃ」
ヤーコプは手を止めなかった。
「麦が駄目になったその年に播いた」
「穫れましたか」
「なんも」
「では」
「三年目に、ようやく少しな。それからは年々増えとる」
二年播いて、二年ぶん無駄にして、それでも三年目に播いたということだ。
トトは籠から莢を一つ取って、割った。
ヤーコプは何も言わなかった。しばらく、二人で黙ったまま剥いていた。
昼前に、娘が一人、坂を上がってきた。
十七か十八くらいだろう。籠を抱えている。
「泊まってる人?」
「はい」
「薬草士って聞いたよ」
「はい」
娘は腰掛けに座って、籠を隣に置いた。
「アニカ。この村の、アニカ」
「トトです」
「変な名前」
「よく言われます」
籠の中を覗くと、根と、日向の草が入っていた。
どれも食べられなくはないが、薬にはならない。買う者もいない類のものだ。
「それ、何にするんです」
「食べる。煮れば食べられるから」
「山には、採りに行かないんですか」
アニカは彼を見た。
「行っても、なんもないよ。あっても売るところがないし。行商は塩を置いて帰るだけ」
「そうですか」
「麦があったころは、売れたんだって。あたしは覚えてないけど」
それから籠の上に手を置いて、トトを見上げた。
「街には行ったことある?」
「ええ」
「どんな感じ? やっぱり、お金はいるよね?」
「そうですね」
アニカは足をぶらぶらさせて、その足先に視線をやった。
「そうだよね」
ヤーコプが莢を割った。
「街に行っても、食いもんが湧いて出るわけじゃなかろう」
「でも、行くよ。春になったら」
「そうか」
言い争いにならなかった。もう何度も繰り返したやりとりなのだろう。
「ここは、食えるようになったんじゃ」
ヤーコプがトトのほうを見て言った。
「昔はな、本当に何も穫れんかった。あの頃よりは、ずいぶんようなった」
「うん」
アニカは頷いた。
「じゃあ、あとどれくらい」
ヤーコプは手を止めた。
「何がじゃ」
「麦が作れるようになるまで。ライ麦は穫れるようになった。でも、あとどれくらいで元に戻るの」
誰も答えなかった。
トトは、莢を割る手を止めなかった。
ヤーコプが籠を持ち上げて、膝の上で置き直した。
「あのときも、村を出た者がおる」
また莢を剥きはじめた。
アニカは何も言い返さなかった。
昼を過ぎて、アニカが山の口のほうへ行くというので、途中まで一緒に歩いた。
コゲは道の匂いを嗅ぎながら、二人の少し前を歩いている。
「そのトカゲ、なんで連れてるの」
「拾ったんです」
「名前はあるの?」
「コゲです」
「きゅ?」
名前に反応して、コゲが振り向いた。
アニカが笑った。それから、山のほうを見た。
「あそこ、木がないでしょ」
「ええ」
「戦のときに、山が光ったの」
トトは歩調を変えなかった。
「あたし、覚えてる。八つだったけど、覚えてる」
「そうですか」
「みんなは覚えてないって言う。怖くて外を見なかったんだって。うちのお父さんも、そう言ってた」
アニカは足を止めて、山の上のほうを指した。
「でも、あたしは窓から見たの。白くて、上まで届いてて」
それから、少し笑った。
「……綺麗だった」
トトは、山のほうを見た。
木のない斜面が、峠まで続いている。
「勇者様が助けてくれたんだって。あたし、その光を見てるの」
「……そうですか」
「だから、出るの」
アニカは籠を持ち直した。
「ここにいたら、誰も助けられないでしょ」
やめておけとも、頑張れとも言えなかった。
アニカは山の口のほうへ歩いていった。
その背中を見送って、コゲを抱え上げた。
「行くぞ」
「きゅるる」
午後は、村の上のほうを少し歩いた。
途中の家の前で、子供が二人、コゲを見つけて寄ってきた。追い立てられるかと思ったが、先に母親のほうが出てきて、乾いた豆をひとつかみ持ってきた。
子供たちが掌に豆を乗せて差し出す。コゲは順番に食べて、それから指の匂いを嗅いだ。子供たちはくすぐったそうに笑っていた。
トトは礼を言って、坂を上った。
村の上の端に、沢から引いた樋があった。割った木を繋いだだけのもので、継ぎ目のいくつかから水がこぼれている。
落ち口の下に桶が据えてあって、女が一人、それを担いできた桶へ移していた。移し終えると、元の桶の底に残ったぶんを、脇の土へ空けた。それから、また据え直した。
薪は下から担いで上げて、水は上から担いで下ろす。どちらも毎日だ。
草をいくつか摘んで、布に広げた。どれも日向のもので、売れる種類ではない。
アニカの籠と、同じものだ。
コゲが広げた草を一つ咥えた。
日の当たらないところなら、まだ残っているかもしれない。谷筋か、岩陰か。
(明日は、山に入ってみるか)




