12:麦は、もう作っとりません
上りが続く道で、下りてくる行商とすれ違った。
行商の背負いは軽そうだった。空になった袋が、いちばん上に括ってある。
道を譲り合って、それきりになりかけたところで、向こうが足を止めた。
「上まで行かれますか」
「まだ決めていません」
本当のことだった。ノイセを出てから、道が上りになったので上っていた。
「峠を越えるなら、日のあるうちに村まで行っておくことです。途中に何もありませんよ」
「村があるんですか」
「アーレといいます。ひと月に一度、塩を置きに行っとります。あれだけは買わんと、どうにもならん土地でして」
行商はこちらの荷を見た。それから足元のコゲを見て、ちょっとだけ首をひねった。
「そちらは、何を」
「薬草士です」
「はあ」
少し笑われた。
「なら、無駄足ですよ。あの辺りは、山のものが出んのです。薬になる草も、茸も、皮も。買いに行く者はおりません」
「そうですか」
行商は荷を背負い直して、坂を下っていった。
トトは、その場を動かなかった。
山のものが出ない土地。そういう話は、聞いたことがあった。
「……まあ、通り道、だからな」
「きゅ?」
肩の上で、コゲが首を伸ばした。
昼を過ぎて、木が、途中でなくなった。
道の両側はずっと雑木林だった。それが曲がり目で切れている。
先は草だけの斜面だった。丈の低い草が一面に生えていて、その上に何もない。切り株もなかった。倒された跡ではなく、元々なかった、という顔をしている。
草はある。だが、日向のものばかりだった。林の下にしか生えないものが、一つもない。
木がないのだから、当たり前だった。
風が上から下りてくる。この時期の山の風は、日が高いうちから冷たい。
(大魔法だな)
思っただけで、歩調は変わらなかった。
こういう斜面は見ている。魔王を討った後しばらく、そういう土地ばかりを回っていた。火が熾きず、水が濁り、食べ物が保たない村に、後から入っていく仕事だった。
見分けるのに時間はかからない。見慣れるほど、あった。
そして、大魔法を撃たれた土地は、戻るのに百年かかる。
あの戦のあいだ、大魔法は何十と撃たれている。触媒があれば魔法使いでも撃てる。誰がどこで撃ったかまで数えている者はいない。
(この辺りを、通ったことはあっただろうか)
思い出せなかった。
六年、歩き通しだった。通り過ぎた土地の記憶が多すぎた。
それきりにして、坂を上った。
コゲが肩から降りたがったので、下ろしてやった。
先を少し歩いて、草を踏んで、また戻ってくる。歩きたくなったらしい。
「歩けるうちに歩いてくれ。抱える身にもなれ」
「きゅ」
拾った頃より、確かに重い。
日が傾く前に、村が見えた。
斜面に沿って、家が並んでいる。上の端に山へ入る道の口があって、下の端は畑だった。道が一本、その間を通っている。それが村の道らしい。
畑には、薄く芽が出ていた。播いてから、そう経っていない。冬を越させる作りだ。
家は、数えられるほどしかなかった。
人影が三つ、四つ。よそ者を見る顔ではあるが、警戒はしていない。
道の途中の家の前で、老人が薪を割っていた。
細い枝ばかりで、割るというより折っている。
「泊まるところ、ありますか」
老人は手を止めて、彼を見た。それから足元へ目を落とした。
「……なんじゃ、それは」
「大きなトカゲです」
「トカゲ」
「ええ」
老人はしばらく見ていた。コゲは四つ足のまま、足元の薪の匂いを嗅いでいる。
「……まあ、よかろう。うちで泊めとる。宿屋はないでな」
「助かります」
「ヤーコプという。飯は一緒でよいか」
「はい。トトといいます」
ヤーコプは折った枝を抱え直した。
「何をしとる人じゃ」
「薬草士です」
「ほう」
枝を抱えたまま、少し笑った。行商と同じ笑い方だった。
「そりゃ、無駄足かもしれんな。この辺りは、草がもう出んのじゃ」
「聞きました」
「山が、ああじゃからな」
顎で上を指した。木のない斜面が、村の上でそのまま峠まで続いている。ここからでも、鞍の形が見えた。
「戦のときにやられて、それからずっとじゃ」
「……そうですか」
「じゃが、わしらは運がよかった。あのとき魔物が峠を越えとったら、村ごと無かったわ」
戸を肩で押して、中へ入りながら言った。
「勇者様のおかげで、わしらは生きとる」
トトは山のほうを見て、少しだけ目を細めた。
通されたのは、火のある部屋だった。床は土のままで、仕切りの奥が寝る場所らしい。
部屋の真ん中に炉があった。石を組んで、上に鍋を載せられるようにしてある。組んでから何年か経っている使われ具合だった。
ヤーコプは火を入れるのに、思っていたより手間をかけた。火打ち石で火口に移して、細い枝を足して、屈み込んで息を送る。煙が部屋に溜まって、それから梁の間へ流れていった。
薪が湿っている。担いできたばかりの生木に見えた。
コゲがトトの脛に前足をかけた。そのまま立ち上がりそうだったので、抱え上げて膝に乗せた。
鍋が温まるまでに、ずいぶんかかった。
途中でヤーコプが一度、鍋のほうへ手を伸ばした。
指を開いて、その形のまま止まった。「ああ」と小さく呟いて、すぐに手をおろした。
それから、その手で枝を足した。
食べ物の匂いを感じたのか、コゲの落ち着きがなくなってきた。なだめるように、片手をその背中に置いた。
水は甕から柄杓で汲んだ。
器に注ぐと、細かいものが底へ沈んでいった。沈むだけで、消えはしない。
「沢から引いとる。上のほうでな」
ヤーコプが言った。
「雨のあとは、しばらくこれよりひどい」
コゲが器に首を伸ばして、鼻先をつけて、引っ込めた。
トトはコゲの首をかいてやった。
「飲め。それしかない」
「きゅう」
結局、飲まなかった。
飯は黒パンと、豆を煮たものだった。
パンをちぎって、コゲに渡す。コゲは匂いを嗅いでから口に咥えた。
パンは酸味があって、目が詰まっている。悪くない。旅で何度も食べた類のものだった。
「麦じゃないな」
思ったのが、口に出ていた。ヤーコプが手を止めた。
「麦は、もう作っとりません」
「ライ麦ですか」
「よく分かるな」
「北のほうで、食べたことがあります」
「……北か」
ヤーコプは、それきり何も言わなかった。
卓の上には、それだけだった。パンと、豆と、塩の壺。
旅のあいだ、どの村のどの宿でも、干したものが何かしら出ていた。魚か、肉か、無花果か。
ここには、無い。
荷から干し肉を出して、裂いて、コゲにやった。最後の一切れだった。
「よそから来た人は、驚きますかの」
「何にです」
「火じゃ。水もな」
ヤーコプは杯を置いた。
「魔物が来てから、こうじゃ。山に何か置いていったんじゃろうな」
「……そうですか」
「もう慣れた。慣れんのは、若いのだけじゃ」
トトはパンをちぎって噛み締めた。
火と、水と、干したもの。三つとも、同じところから来ている。
斜面を見たときに分かっていたことが、卓の上で揃っただけだった。
コゲが卓の上に顔を出した。もっと食べたいらしい。パンをまたちぎった。
空いている寝台を使わせてもらう。荷を床に置いた。
窓はない。戸の隙間から、山の風が入ってくる。
荷の底から木彫りを出して、しばらく手の上に置いていた。それから、元のところへ戻した。
寝台に寝転んだら、コゲが腹のあたりに乗ってきて、丸くなった。重い。
髪に手をやって、指を通した。いつもどおりに撫でつける。
何も起きなかった。
もう一度やった。同じだった。
(……まずいな)
髪の先をつまんで持ち上げる。いつもの焦げ茶色。
今夜すぐ困るわけではない。だが、何日もこのままではいられない。
目を閉じた。
炉の火はまだ燃えていた。煙も出ている。
だが、重ねた枝は細い。朝には消えているだろう。




