11:勇者様なら、分かりますよ
その村に、宿帳はなかった。
イリス・エンデは、宿の帳面を見せてもらった。勘定しか書いていない。麦酒の数と、肉の数と、銅貨の数。名前はどこにもない。
「書かないんですか」
「書けませんもの」
女将はそう言って、笑った。悪気はまったくなかった。
イリスは手帳を開いて、そのことを書き留めた。
――ザーム村。宿一軒。宿帳なし。村内に読み書きのできる者は司祭のみ。
街道沿いの宿では、名前が残る。村では残らない。
王都を出てから通ってきた十七軒のうち、帳面に名前が並んでいたのは六軒だけだった。残りは、こういう村だった。
旅の者の記憶を頼りにするしかない。記憶は、書いたものより早く消える。
「では、伺いますが」
イリスは手帳を膝に置いた。
「ふた月ほどのあいだに、この村を通った旅の方で、変わったご様子の男はおられませんでしたか」
「変わった、というと」
「三十くらいの、背の高い方です。金髪で」
「金の髪の人は、通りませんねえ」
「そうですか」
「このへんじゃ、まず見ませんよ。目立ちますから」
目立つ。そのとおりだ。
人相書きはある。式典のときの絵姿を写したもので、金の髪は短く刈り揃えられ、背筋が伸びていて、目が澄んでいる。下には、勇者アルノルト・ホーフ、と書いてある。
立派に描けている、と写しを受け取ったときに思った。
立派に描かれたものほど、当てにならない。それも分かってきた。
「勇者様をお探しなんですか」
女将のほうから訊いてきた。
イリスは、言葉を選んだ。
「……人を探しております」
「勇者様なら、分かりますよ」
「と、おっしゃいますと」
「そりゃあ、来ればすぐ分かるでしょう。うちみたいなところに来たら、村じゅう出てきますよ」
イリスはため息をついて、ペンを走らせた。
――当村への来訪なし。村人の認識:勇者が来れば必ず分かる。
書いてから、少し眺めた。
この一行を、これまでに十七回書いている。
村を出る前に、畑の主にも訊いた。
六十くらいの男で、柵を直していた。もう直し終えているのに、直していた。
「勇者様? いや、そんな方は」
「では、ここふた月のあいだに、何か変わったことは」
「変わったこと」
男は少し考えた。
「畑が荒らされましてね。ふた月ばかり前です」
「獣ですか」
「熊だと思ったんですが。山狩りをしたんですよ、男衆で」
「捕れましたか」
「それが、何も出ませんで」
「では、その後も」
「いえ。それきり、ぱたりと」
イリスは手を止めた。
「止まったのですか」
「止まりました。その日から一度も」
男は柵を撫でていた。
「逃げたんでしょうな」
――畑荒らし、ふた月前に発生。山狩り実施。獲物なし。以後、被害なし。
書いてから、少し見た。
書くようなことではない。獣が来て、去った。それだけだ。
消そうかと思ったが、消さなかった。消すと、あとで思い出せない。
昼は宿で食べた。
麦のパンと、豆と、干した肉。悪くなかった。二皿頼んだ。
「よく召し上がりますね」
供の男が言った。王都から一緒に回っている、馬の扱いのうまい男だ。
「食べないと、書けませんので」
「そういうものですか」
「そういうものです」
男は何か言いたそうにしていたが、言わなかった。慣れてきたらしい。
馬に荷を積みながら、川沿いの町の名を聞いた。
街道を北へ二日。商いのある町で、宿が三軒あるという。
「宿帳、ありますかね」
「町なら、あるでしょう」
あればいい。
名前が並んでいれば、宿の者に一人ずつ訊ける。どんな方でしたか、いつ発ちましたか、どちらへ。
名が偽りでも、日付と方角は嘘をつかない。
村を出るとき、麦畑の縁を通った。
刈り入れはとうに終わって、地面が剥き出しになっている。
九年前の秋も、こんな色だった。
あのとき、エンデ村は使いを出した。街道の終わりにある村なので、使いが王都に着くまでに四日かかった。返事が来るまでに、さらに六日。
誰も悪くない。順番があるだけ。
軍は南から順に回っていて、こちらは端だった。だから最後になった。理屈は分かる。
九年、分かっている。
分かっているのに、まだ訊いていない。
「行きましょう」
イリスは手帳を閉じて、鞄に入れた。
北へ二日。
その町に彼がいるとは、思っていない。これまでの十七回も、そう思っていなかった。
それでも行く。行かなければ、十八回目は書けない。




