10:うちのは、これですけど
「湯を沸かしてください」
マレンは鍋を火に戻しかけて、手を止めた。
「もう沸いてます」
「では、そのままで。火から下ろしたところへ、草を入れてください」
「……煮ないんですか」
「煮ません。蓋をして、置いておくだけです」
「どのくらい」
「杯を洗うくらいの間で足ります」
マレンは皿の草を鍋に入れて、蓋をした。
トトは炉の前から動かなかった。
自分でやったほうが早いが、手は出さなかった。
蓋を取ると、湯の色が変わっていた。
マレンは器に移して、しばらく見ていた。
「……こんなに薄いんですか」
「そういうものです」
濃く出せば効くというものではない。むしろ逆だ。そう言いかけて、やめた。
言うことは、もうない。
奥の部屋から、咳が聞こえた。
マレンが器を持って入っていく。
トトは炉の前に座って、火を見ていた。コゲが足元に来て、丸くなった。
子供の声がした。それから、飲む音。
咳がした。
しばらくして、また咳がした。
その次は、少し間があいた。
コゲが顔を上げて、奥の戸のほうを見ている。
行くな、と言う前に、自分から丸くなり直した。
夜半を回ったころには、間隔がはっきり空いていた。
マレンは戸口に立ったまま、動かなかった。数えているのだろう。
コゲを抱えて、トトは階段を上がった。
振り返らなかった。まだ何も分からない時間だった。
夜が明けてから、いつものように髪を撫でつけて、階下へ降りた。
マレンが奥から出てきた。目が赤い。今度は、はっきり泣いたあとだった。
「熱が」
「はい」
「昨日より、下がってます」
トトは頷いた。
「まだ治ってはいません。三日は寝かせてください」
「はい」
「同じやり方で、続けてください」
「はい」
マレンは前掛けで手を拭いた。濡れてもいない手だった。
彼女が出ていったのは、それからすぐだ。
止める理由はなかった。止めるつもりもなかった。
昼までに、町の様子が変わった。
宿の前を人が通るたびに、話し声が聞こえる。
「煮ないんだって」
「煮るなって言うんだよ」
「うちは煮出せって言われたけどねえ」
「うちもだよ」
「うちもだ」
同じ言葉が、あちこちで並びはじめた。
どの家にも紙はない。あるのは、店で言われた一言だけ。
その一言が、どこも同じだった。
一人二人なら、聞き間違いで済む。町じゅうとなると、済まない。
トトは宿の戸口に立って、それを見ていた。
コゲが肩の上で、行き交う人を目で追っている。
「出番はないぞ」
「きゅ?」
昼過ぎに、人が薬屋の前に集まりはじめた。
主人が出てきて、何か言っている。遠くて聞こえないが、身振りは落ち着いていた。
落ち着いた男だ。言い間違えました、と言えば済む話だ。うっかりで済む。
実際、そう言っているのだろう。人の輪が一度、緩みかけた。
そこへ、舟着き場のほうから男が歩いてきた。
身なりがいい。血色もいい。四日で治った男だった。
人の輪が割れた。
「あんたのところは、なんと言われた」
誰かが訊いた。
商人は答えず、懐から小さく畳んだ紙を出した。
「うちのは、これですけど」
それだけ言って、いちばん近くにいた者に渡した。
渡された男は、それを持ったまま動かなかった。読めないのだろう。
紙は手から手へ渡って、マレンのところで止まった。
彼女は宿帳をつけている女だ。
「読みますよ」
誰も止めなかった。
「湯を沸かし、火から下ろしてから草を入れること」
人の輪が静かになった。
「蓋をして、しばらく置くこと」
どこかで、器の割れる音がした。
「煮立てるべからず」
それきり、しばらく誰も何も言わなかった。
女が一人、握っていた紙包みを見た。それから、握り直した。
どこかの子供が泣きはじめて、母親がすぐに抱き上げた。
トトは、その輪の外に立っていた。
一言も発していない。発する必要がなかった。
肩の上のコゲは、割れた器のほうを気にしていた。食べ物の音だと思ったらしい。
商人が来たのは町のためではないだろう。自分だけが良い指図をもらっていたと思われては、商売に障る。
打算だろう。そして、打算のほうが信用できる。
薬屋の主人が、何か言おうとしていた。
言葉は出ていなかった。
言えることが、もうないのだろう。あの紙がある以上、知らなかったでは済まない。町に何と言ったかは、町じゅうが証言している。
二つが並ぶまで、誰もそれを持ち出さなかった。持ち出す気がなかったのではない。片方しか持っていなかったからだった。
トトは宿へ戻った。
広間には誰もいない。マレンは、まだ薬屋の前にいる。
荷を担いでから、奥の戸を少しだけ開けた。
子供は眠っていた。息の音が、昨日より静かだった。
コゲが首を伸ばしたので、押さえた。
「起こすな」
戸を閉めた。
卓の上に、宿代を置いた。三日と言って泊まった宿だ。多めに置いた。
奥は、静かだった。
まだ治ってはいないが、あとは薬をちゃんと飲ませるだけだ。
戸を開けると、川の匂いがした。
橋を渡りきったところで、一度だけ振り返った。
人はまだ薬屋の前に集まっている。
誰もこちらを見ていなかった。
前を向くと、石を積んだ家が並んでいた。塀が続いて、舟着き場では今日も荷が下りている。
こちら側は、静かなものだった。
「行くぞ」
「きゅるる」
道が上りになった。




