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ダンジョン化した世界で、作業療法士の俺だけが“環境”を治療する  作者: 秋嵩タクロウ


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第4話:『他者臨床』<Ⅲ>

 あの()()()()の精製プロテインによる適切な栄養摂取を終え、時計の針が昼下がりを指した頃。

 

 地下施設の薄暗い廊下で、カサリ、と竹箒がコンクリートを穿つ音が響いていた。


 かおるが衣服の袖を捲り上げ、無機質な床の埃を引き算していく。その背後から、静かな、しかしどこか左右の連動が不自然な足音が近づいた。


「先生。俺も、何か手伝えることはありませんか」


 れんは物腰の丁寧な佇まいで、少し申し訳なさそうに声をかけてきた。点滴の補正効果もあり、自立歩行に耐えうる生気の輪郭は完全に保たれている。


「病み上がりだ。動くな」


「いえ、できることなら。この場所は、先生が一人で維持されているんですよね。お世話になっている以上、ただ寝ているわけにはいきません」


 目元にかかる黒髪の奥から、まっすぐな視線がかおるを捉える。


 誰かのために献身的でありたいという、れんの根底にある本物のホスピタリティ。かおるは箒を止め、小さく息を吐いた。


「……分かった。では、あそこの給湯室の棚にある、医療用の消耗品パウチを整理してくれ。種類ごとに分けて箱に収めるだけでいい。見通しは立つか」


「はい。段取りなら分かります。滅菌ガーゼと注射筒、包帯類ですね。一番奥から日付の古い順に並べ替えれば、後からの動線がスムーズになると思います」


 見事な段取りの良さ。れんは的確な見通しを持って給湯室へと歩を進めた。

 だが──。


 バッシャァァン!!


 直後、静かな地下施設に、鉄製のトレーが床へ激しく叩きつけられる耳をつんざく金属音が炸裂した。


「……あ、すみません」


 れんの声には、過度な怯えも驚きもなかった。


 あるのは、一ヶ月前から自らの肉体に起き続けているエラーへの、諦めに似た静かな悲哀。またやってしまった、という予期された絶望。


 慌ててれんがパウチを拾おうと手を伸ばす。しかし、その指先は空間を滑るようにパウチの手前を空振りし、隣の棚のプラスチック扉に右腕が強烈に激突した。


 バァァァン!!


 壊れるかと思うほどの力で、扉が鳴る。


(こんなこと、前なら絶対に失敗しなかったのに)


 丁寧に整理しようという誠実な意思とは真逆に、動きのすべてが乱雑になり、他者から見ればただの乱暴なドジにしか見えない最悪のギャップ。


 れんは静かに唇を噛み締め、自らの右腕を冷たく睨みつけた。


 かおるは箒を持ったまま、給湯室の入り口からその一連の動作を冷徹に凝視していた。


 (──やはり、性格の不器用さではないな)


 かおるの動作分析の眼が、れんの肘関節、手関節の動きと、その瞬間の筋出力を1ミリ単位でハッキングしていた。


 れんはトレーを掴む際、適切な力加減(張力)を完全に誤り、過剰な負荷で引き寄せていた。だから指が滑って弾け飛んだ。さらに、落ちたパウチを拾おうとした際の右腕の軌道は、目測に対して位置が完全にズレていた。


 これが、前ギルドで「暴力的になった」と誤解され、数値一つで路地裏へ使い捨てられた病態の正体。


れん、そのまま動くな。パウチを拾う必要はない」


 かおるは体温のない声をかけ、ゆっくりとれんの前へ歩み寄った。


「……先生、離れてください……」


 れんは切れ長の目を固く閉じ、自身の右腕を左手で強く抑え込んだ。誰も救えないどころか、ただ環境を壊していく自分の無力さ。


 かおるれんの前に立ち、力を入れようとするたび、筋肉が不自然に波打った右腕の筋腹を、迷いなく両手で掴み取った。


「落胆している時間は、俺のタイムラインにはない。れんの脳神経は今、関節の曲がり角度(位置情報)も、筋肉の張り具合(張力)も、何一つ正しく感知できていない状態だ。……『固有受容感覚』のエラー。他人がどう言おうが、これがれんの病態のすべてだ」


かおるれんの網膜をまっすぐに見据え、言葉に圧倒的な事実ロジックの質量を込めた。


「原因はまだ解明していない。だが、破綻した現象が分かっているなら、アプローチの手順は決まっている。これより──他者臨床(リハビリテーション)を開始する」



 旧リハビリテーション病院、地下一階の訓練室。


 錆びついた平行棒と剥き出しのコンクリート床、いくつかの治療台プラットホームが残された空虚な空間。


 かおるれん治療台プラットホームへと座らせ、目の前に一本の太いキャンバス地のバッグをドサリと置いた。


「先生、これは……」


「五キロの砂袋だ。これを今から、あなたの右前腕に固定する」


 かおるは手際よくベルトを締め、れんの感覚のない右腕に物理的な重量を負荷していった。

 

 さらに、目の粗い頑強なタオルをれんの右前腕の皮膚に巻きつけ、その上から自らの両手で、骨を圧迫するように強く、深く、一定のリズムで徒手刺激(圧迫摩擦)を加え始める。


「──っ、あ」


 れんの喉から、短い息が漏れた。


「今、脳神経へ強制的に『重力と抵抗』の信号を送っている。感覚が遅延しているなら、受容器が無視できないレベルの質量と摩擦を外部から直接ハッキングするしかない。れん、皮膚の奥にある骨の位置を、重みの中心を意識しろ」


 かおるは体幹の重みをれんの腕へ浸透させながら、淡々と、しかしミリ単位の正確さで刺激を繰り返す。


「次に、俺の動きをトレースしてもらう。今朝の太極拳の、重心の移動だけを真似ろ。腕で動かすな、体幹の回旋で腕を『置いていかれるように』運ぶんだ」


 かおるれんの左手を引き、ゆっくりと伝統楊式の型を指導していく。

 砂袋の圧倒的な重み。皮膚を擦るタオルの鋭い摩擦。そしてかおるの手に導かれる骨格のアーチ。


 それらが三位一体の濁流となり、れんの溶け去っていた脳神経へ、人間本来の「重力と骨格のリアルな位置情報」を強引に再学習させていく。


「……あ」


 れんが瞼を大きく見開いた。


 空間に霧散していた右腕の輪郭が、砂袋の重みをアンカーにして、脳の認識の真ん中へスゥ、と帰還してくる生々しい手応え。


「み、見える……感覚が、繋がっていく……」


「よし。位置情報のバイパスは成功だ」


 かおるは臨床ノートにその即時効果を冷徹に記録すると、ペン先でれんの右腕を示した。


れん、これがおまえのための個別リハビリテーションプログラムだ。このセットメニューを朝夕、確実に反復して日課にしろ。感覚のズレ(エラー)を脳へ上書きし続けるんだ」


 ──数日後。


 朝夕のストイックな反復訓練を経て、治療台プラットホームに立つれんの座位保持、および動作アライメントには明らかな安定がみられていた。


 慎重に感覚の土台を整えていく、作業療法士としての確実な段階付け。


 かおるれんの関節可動域のクリアランスを確認し、静かにノートを閉じた。


「よし、反復による成果は出ている。動作アライメントの崩れはない。──ここからが本番だ。れん、その状態で、今から異能を『十五%だけ』局所駆動させろ」


 かおるの冷徹な指導。れんは小さく息を吸い込み、己の筋繊維をリアルタイムで巨大化させる自己生体内バルクアップを、極小の出力で発動した。


 ブチブチ、とれんの右腕の筋腹が異常な超回復を始め、衣服の袖を膨らませる。


 かおるの「動作分析」の眼が、その瞬間の連動を貪るように凝視した。


 だが──その刹那、かおるの網膜の端で、れんの右腕がわずかに震えた。


「先生……また、右腕の感覚が、遠ざかって……」


 れんの顔に落胆の影が走る。


 かおるは即座にれんの肘関節を触診し、その生体電気の微細なエラーを看破した。


(なるほど……異能を発動する毎に、リハビリで整えた固有受容感覚が再び蓄積的に退行していく。これは個体の故障ではない。ナノマシンシステム側の根本的なコード不具合《仕様エラー》だ)


 さらに、かおるれんの呼吸が急激に荒くなり、全身の筋組織が目に見えて萎縮しようとする奇妙な飢餓現象を捉えた。


 筋肉の超回復のエネルギー源として、自らの筋繊維をリアルタイムで自食し始める悪質な急性カタボリック。


れん、これを即座に口に入れろ」


 かおるはポケットから、高濃度グルコースと簒奪したアミノ酸をミリ単位で調整しておいた「試作1号ゼリー」のパウチをれんの口元へ突き刺した。


 れんは戸惑いながらも、その不気味なゼリーを吸引する。


「──っ、づ」


 無味無臭の栄養が食道を駆け抜けた瞬間、れんの全身の自食エラー《カタボリック》が、水際でピタリと相殺され、激しい動悸が急速に凪いでいった。


「これは、全開放時のバックファイアを防ぐための日常的な糖質管理インフラだ。合格ラインだな。れん、おまえのその壊れた手順(アライメント)は、俺が医療の知見で再設計してやる」


「先生……」


 れんは、パウチを持ったまま、初めて自らの肉体の絶望に「対抗策」を提示してくれたかおるを、深い敬意を込めて見つめた。二人の間に、友情ではない、プロの治療者と患者としての、冷徹で強固な契約(絆)がガチリと噛み合った瞬間だった。


 その夜。静まり返った地下の中央管理室。


 かおるは煤けた蛍光灯の下で、使い古された古い臨床ノート(カルテ)を静かに開いた。


 開かれた白紙のページの頭に、淀みのない鋭い筆致で、一つのドイツ語を書き付ける。

 ──Heilung(ハイルング)


 いつかどこかで、網膜の隅に強制的に刷り込まれていたかのような、居心地の悪い既視感を伴う文字列。


 なぜその単語がペン先から漏れ出たのか、かおる自身にもまだその理由の輪郭は掴めていない。


 ただ、目の前の患者を元の状態へ戻すという、絶対的なアプローチの意思だけがそこにあった。


 かおるがペンを置いたその時、リハビリの予後の確認のために管理室へ顔を出したれんが、机の上に開かれたノートのその文字を、目元にかかる黒髪の隙間から静かに見つめていた。


「……ハイルング、ですか」


「ドイツ語で『治癒』だ。おまえの症例プログラムの名前として記録した。……もう遅い、早く寝ろ」


「はい。ありがとうございます、先生」


 れんは小さく一礼し、自らの右腕の確かな存在感を確かめるように拳を小さく握り締めながら、暗い廊下の先へと歩み去っていった。


 一人残されたかおるは、一旦は見通しの立ったれんのリハビリ手順を記述しながらも、ペンを止め、あのAランク能力が引き起こした歪な構造的破綻──固有覚の蓄積的退行について深く思考の海へ沈んでいた。


 脳裏を過るのは、かつて深夜のリハビリ室で、飄々としながらこの異能世界の仕様を語っていた天堂創てんどうはじめの、あの楽しげな声だ。


 『みたまえ、leergierig(レールヒリーフ)──求道者。この世界におけるチート能力っていうのはね、どれほど強力であっても、発動そのものに対するデメリットや後遺症なんて基本的に存在しないんだ。身体への負荷を一切考慮せず、都合よく英雄(上位ランク)になれる玩具。それがこの環境の【通例(仕様)】さ。──だがね、ごく稀に、使うたびに能力が自壊の引き金になり、システムからパージされる特異なケースがある。まるで、最初からそうなるようにプログラミングされているかのような、圧倒的な矛盾。いやあ、ほんと、なにからなにまで変だ!』


 何から何まで、変だ──。


 れんの身体で起きている事象は、まさにその「本来あり得ないはずの不具合」そのものだった。


 なぜ異能を使う毎に固有覚が退行するのか。


 なぜ急激な自食カタボリックが起きるのか。


 そしてなぜ、それによってAランクから一瞬で落伍者の烙印を押されなければならなかったのか。


 目の前で牙を剥く異常なエラー。しかし、どれほど動作分析の目を凝らしても、その欺瞞の全容だけがどうしても霧の奥に隠れて掴めない。


 かおるは激しい苛立たしさに胸を焼かれながら、臨床ノートをバチンと強烈な音を立てて閉じた。思考のトゲを脳幹の最深部へ突き刺し、冷徹に己の感情を引き算する。


「──これにて、最初の他者臨床、その前半を終了とする」

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