第4話:『他者臨床』<Ⅱ>
「インフラは私が裏から引いてある。水も安全だ」
廊下を進む車椅子の座席の上で、蓮は思わず息を呑み、きょろきょろと周囲に視線を走らせていた。
薄暗い廃病院の壁を這うように、医療用チューブや人工透析のパーツを泥臭く組み合わせてハンドメイドされた、見たこともない精密な積層装置。
それが中央管理室の電源に直結され、静かに、しかし完璧に稼働している。
システムの与える便利なチートではなく、人間の解剖生理学的な知性だけでこの退廃した世界にゼロからインフラを開墾してみせた男の狂気。
蓮は車椅子の手すりを凝視したまま、驚きと、にわかには信じがたいほどの深い感心に胸を衝かれていた。
「そして、あなたの筋肉を維持するためのアミノ酸補給だが──」
廊下の突き当たり、給湯室を改造した内政ラボの前で車椅子を止めると、馨は冷蔵庫からいくつかのパウチを迷いなく取り出した。
「これだ。栄養補給として、モンスターの残骸から精製した、特製のプロテインドリンクを作ってみたんだ」
「え……? モンスターの、残骸……?」
蓮の切れ長の目が、点になって馨を凝視する。馨は至って真面目な顔のまま、すり鉢とパウチを提示した。
「ああ。下層区域の獣型モンスターはアミノ酸の宝庫だからな。有害な脂質を遮断し、純粋なタンパク質だけを抽出する『ホエイプロテイン・アイソレート製法』の再現に、この手動遠心分離機で挑戦してみたんだ。フレーバーとして現在用意できるのは、草、ワーム、そして医療用ブドウ糖の3種類だ」
「待って、待ってください。……今、ワームって言いました?」
あまりにも怒涛の勢いで、一寸のブレもない大真面目さで「ワーム味のプロテイン」を説明する馨。その凄まじい熱量と徹底ぶりに、蓮は張り詰めていた緊張の糸がふっと抜けるのを感じた。
「……っ、ふ」
それは、絶望の底にいた若者が、初めて見せた緊張からの緩和──思わず漏れ出た、静かな一息の笑みだった。
「……あの、神城さん」
蓮は少し恥ずかしそうに視線を泳がせながら、目元にかかる黒髪を左手で小さく払った。世界にパージされた自分を「患者」として当然のように抱え込んでくれた男への、ささやかな、だが確かな信頼の証。
「進藤って、なんか硬いんで。……れん、って呼んでくれていいです」
少しの気恥ずかしさを隠すように、つつましく添えられた言葉。
その温かい空気がロビーを満たした刹那、馨は一切の迷いのない、冷徹な医療従事者の目でパウチを一つ掴み取った。
「分かった、蓮。──では、このワーム味を飲んでもらう」
「……はい?」
「遠心分離の過程で、ワーム特有のキチン質から抽出されたアミノ酸スコアが最も高い数値を示した。風味が香ばしく、客観的にも美味い。さあ、治療のための栄養管理だ。一気にいけ」
漆黒の瞳を大真面目に輝かせ、絶対に引かないアライメントで謎のドロドロした液体を差し出してくる馨。
蓮は、己の心を開いたばかりの数秒前の選択を、激しく後悔した。
翌朝。ひび割れたコンクリートの向こうから、鋭い朝日が這い上がってきた。
旧リハビリテーション病院の屋上。神城馨はネイビーのスクラブを纏い、朝日の逆光を浴びながら、静かに両腕を円の軌道で配していた。
──簡化二十四式太極拳。
常に片足へと体重を乗せ換え、深く、ゆっくりと重心を移動させていく。
腹式呼吸と連動したゆったりとした動きが、体幹を鍛え上げ、乱れた自律神経のバランスを強制的に引き戻していく。
副交感神経の優位化。
カルノ戦、そしてドームの死線で、常人のフィジカルでありながら淀みなく動けた身体のインフラは、この地道な調律によって支えられていた。
馨の体温が適度に上昇し、全身の血流に十分な酸素が供給されていく。自律神経の覚醒。
「……よし。あたたまってきたな」
馨は一呼吸を置き、そのまま床へ両手を突いて筋力増強訓練へと移行した。
深く沈み込み、床を蹴り上げる。滴る汗に朝日が反射し、鋭い光の尾を引いた。
「ふっ、ふっ……大胸筋が、歩いてる……! 」
誰もいない屋上。相変わらず、一切の迷いなく、脳の動員単位をハッキングするための掛け声を大真面目に叫ぶ。
「……あの、神城さん」
か細い声。馨は床を押したまま、背後の気配へ視線を向けた。
「だいぶ回復したようだな」
そこには、壁に手をつくこともなく、自立歩行で佇む蓮の姿があった。
馨は筋トレを中断し、立ち上がると、衣服のポケットから手慣れた動作でいつもの器具を取り出した。
蓮もまた、すでに拒絶を挟むことなく、当然の作法として、屋上の隅に置かれた古びたベンチに腰掛け、静かに前腕を差し出す。
カチリ、とクリップが指先を挟み、プシューとカフの排気音が朝の静寂に溶けていく。
朝日に長身の二人の影が長く伸び、ただ静かな呼吸の音だけが響いていた。目元にかかる互いの髪が、かすかに通り抜けるささやかな風に揺れる。言葉のない、静謐な調律の間。
「……悪くない」
一通りのバイタル検査を終え、馨は冷静に、しかし穏やかなトーンで数値を告げた。
「あなたのおかげです、神城さん」
蓮は切れ長の目を細め、微かなリスペクトを込めて頭を下げた。見返りもランクの価値も無視して自分を受け入れ、懇切丁寧に治療を施してくれた一介の作業療法士への、つつましい謝意。
「それほどのことはしていない。私は作業療法士として、目の前の破綻を処理しただけだ。……体調はどうだ、右腕に変調はないか」
「はい。今のところは、落ち着いています」
どこか含みを持たせた蓮の返答。馨は小さく頷いた。
「わかった。他に気になることがあれば言え。では──栄養摂取(朝食)にいくか」
馨は床に突いていた手を離し、自らのトレーニングを躊躇なく保留して、患者のケアへと即座に行動を切り替えた。一寸のブレもない、当たり前のような医療従事者の作法。
蓮はその迷いのない背中をベンチから見つめ、目元にかかる黒髪の奥で、切れ長の目をかすかに揺らした。社会から無能とパージされた自分を、ここまで徹底して「患者」として扱い、歩調を合わせてくれる本物のプロ。蓮の胸の奥で、静かなリスペクトの質量が、確かな輪郭を結んでいく。
「あ、先生。一つだけ、あります」
無意識に、口をついて出た言葉。
少し遠慮がちに蓮が声を潜めると、馨は無言のまま、首をわずかに傾げて傾聴の姿勢を示した。
「その……大変、申し上げにくいのですが……」
蓮が言い淀む。馨の眉間がわずかに動いた。
「どうした。早くいえ。身体の異変なら、どんな微細なことでも俺に教えろ」
やれやれ、と促す馨。当然、右腕の感覚遅延や力の暴走に関する、深刻な病態の悩みだと推測していた。
蓮は小さく息を吸い、一寸のブレもない真顔で言い放った。
「では……大胸筋を効率的に鍛えるには、筋肉の走行に合わせて『上部』『下部』『内側』の3つの部位に分け、それぞれの刺激に特化した種目を選択することが重要です。今の先生の腕立て伏せのフォームでは、大胸筋上部への負荷が完全に逃げています。肘の角度をあと5度内側へ絞るべきです」
「…………」
馨は手にした臨床ノートを持ったまま、完全に唖然としていた。
(──なるほど。俺は地下病棟に、深刻なエラー患者ではなく、ただの筋肉に対してストイックすぎる変人を受け入れてしまったらしい)
朝の光のなかで、馨はやれやれと独白し、静かにペンを走らせた。




