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ダンジョン化した世界で、作業療法士の俺だけが“環境”を治療する  作者: 秋嵩タクロウ


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第4話:『他者臨床』<Ⅰ>

 月光が差し込むタイルの上で、衣服を引き裂く不気味な筋肥大の破裂音だけが響いている。駆け寄るかおるのネイビーのスクラブが、夜の静寂を切り裂いた。


「聞こえるか」


 かおるは青年の眼窩を覗き込み、短く、鋭く声をかけた。切れ長の目が、恐怖の拒絶を伴ってかすかに焦点を結ぶ。


「あ……が……俺の、右腕が……」


「意識清明、または軽度混濁。外界への応答、あり」


 瞬時にかおるの脳内が、他者評価のシークエンスを冷徹に立ち上げる。


 視診。


 青年の衣服を引き裂き、ブチブチと悍ましい音を立てて隆起し続ける異常な筋組織。左右差の激しい不均等な肥大。分かるのは、目の前の肉体が発している『機能破綻の数値バイタル』だけだ。


 かおるは躊躇なく、青年の巨躯を仰臥位へと寝かせた。受付ロビーのソファから毟り取ったクッションを、両足の下へ手際よく滑り込ませる。心臓の高さから、約30度の角度の挙上。


 下肢の静脈血を重力で心臓へ戻し、脳への最低限の血流量を確保する、泥臭い選択。


 かおるはスクラブのポケットから、仕事の癖で携帯している上腕式血圧計とパルスオキシメーターを滑り出させた。


 クリップが青白い肌をカチリと挟み、カフが上腕を絞り上げる。プシュー、と、水銀の圧が抜ける細い排気音。


「脈拍、140。経皮的酸素飽和度(SpO2)、93%」

「収縮期血圧、82」


 かおるの冷徹な眼は、青年の胸骨の上下運動を15秒間、凝視していた。



 呼吸数、1分間に32回。

 正常値である12〜18回を遥かに超越した、重篤な呼吸不全の手前。


(──この異常な筋組織の隆起に伴い、全身の血液分布が完全に破綻している。血圧の急落に対し、心臓がポンプとしての限界出力を超えて空回りの悲鳴を上げている状態だ。このままでは、数分で中枢から自壊する)


 「移動させる。ここではこれ以上の治療ができない」


かおるは備品室の陰から、リクライニング式の旧式車椅子を引っ張り出した。


背もたれを限界まで後方へ倒す。座位を保てず前方へ無残に崩れ落ちる危険を防ぐため、救急用の固定ベルトを青年の胸郭へと回し、骨盤を座面にロックする。


「……ガハッ、だ、誰なんだ、お前……」


神城馨かみしろかおる。作業療法士だ。あなたのその身体、放っておけば数分で本当に器が壊れる」


体温のない声を遺し、かおるは車椅子のグリップを握りしめ、地下の「戦場」へと滑り出した。



 煤けた細い陽光が、地下病棟のコンクリート床に歪な四角形を描いていた。


 枕元で、カチ、カチ、と規則的な点滴の滴下音が静まり返った室内に響いている。


 ベッドの上の青年は、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。視界を覆うセピア色の靄が晴れていく。


「……気づいたか」


 低く、落ち着いた声。ベッドサイドのパイプ椅子に腰掛け、古い臨床ノートにペンを走らせていた神城馨かみしろかおるが、静かに視線を青年へと向けた。


 青年の左前腕の静脈には、一本の細いチューブが繋がっている。


「動かない方がいい。細胞内の脱水と、急激な代謝亢進による一過性の低カリウム血症、および乳酸アシドーシスを補正している。中身は、期限切れを免れた医療用の生理食塩水に、高濃度ブドウ糖と電解質、ビタミンB1をミリ単位で混注した、即席の細胞外液補充液だ。あなたの極度の衰弱を水際で止めるには、これしかなかった」


 青年は力なく息を吐いた。あれほど自らの意思を拒絶して暴走し、皮膚を引き裂かんばかりに肥大化していた右腕の筋隆起が、今は嘘のように静まり返っている。


 丁寧に、淡々と、相手に届きやすい口調とスピードで。神城馨かみしろかおるは確実に関係性ラポールを構築するためのプロの距離感を発揮しながら、言葉を続けた。


神城馨かみしろかおる。この廃病院で作業療法士をしている。あなたの現在の状態を客観的に評価し、治療の段取りを組むために、まずはあなたの名前と年齢、数日間の経過を教えてほしい」


 青年は戸惑うように視線を彷徨わせた。システムの数値を盲信し、家畜のように奪い合う外の世界の力学はここにはない。突然迷い込んできた素性の知れない自分を、さも当然のように受け入れ、すぐさま治療のアプローチを開始している目の前の男に、青年は強烈な驚きを覚えていた。


「……進藤蓮しんどうれん。二十、歳です。俺の、この身体……」


 点滴による電解質のクリアランス効果が表れ始めたのだろう。青年の青白かった頬に、わずかに生体としての柔らかな血色が戻っていた。恐怖に引きつっていた切れ長の目元が、今はただの年相応な若者の、消え入りそうな不安を湛えてかおるを見つめている。敵性勢力としての警戒心も、力の暴走の予兆もない。


 かおるはその微細な表情変化から、目の前の人物が現状として安全であると判断し、脳内の危険度シークエンスを一段階引き下げた。


 そう、かおるは何も見ず知らずのアンノウンを無条件に受け入れたのではない。作業療法士としての習性と、昨夜目の当たりにした異能。その詳細を把握し、自らのアンチナノマシン因子をさらに知るきっかけとするための一貫した目的からの行動であった。


「進藤さん。治療計画を立てる上で、現在の身体症状に至るまでの経緯を把握する必要がある。……何日前から、その右腕の制御が効かなくなった?」


かおるの淡々とした、しかし拒絶を挟まない問いかけに、れんはシーツを握る左手に微かに力を込めた。


「……違和感としては、一ヶ月くらい前からありました」


 れんの切れ長の目が、悲哀を帯びて静かに翳る。


「中堅ギルドで、前衛を任せていただいていたんです。最初はただの酷い筋肉痛だと思っていました。でも……異能での筋超回復を重ねるたびに、少しずつ右手の感覚が消えていって、力の加減ができなくなっていった。俺が盾にならないと、後ろの仲間たちが傷ついてしまう。だから必死に腕を動かしようとしたんですけど、感覚のない右腕は思い通りに動いてくれなくて、逆に連携を乱してしまって……。みなさんにご迷惑をかけるようになってしまったんです」


 かつては最高峰の適正とされる【ランク:A】として頼られ、それに応えようと誰かのために力を振り絞ってきた。感覚を失い雑用へ回されても、自分の身体より他者への貢献を優先し、その雑用すらこなせなくなる最後の最後の瞬間までれんは献身的であり続けた。


「一昨日の夜、脳内のステータスUIの表示が……『エラー:戦闘不能』、そして『ランク:F』に書き換わりました。その数値をギルドの管理システムが検知した瞬間、自動的に即時パージ(除名)の手続きが執行されたんです。……みなさんを恨むつもりはありません。動けなくなった俺は、もう誰の役にも立てない、ただの足手まといですから。ただ……画面の数値が変わっただけで、自分が本当に価値のない無能になってしまったような気がして……それが、すごく、悔しくて」


 れんは震える左手で顔を覆い、静かに奥歯を噛み締めた。誰を責めるでもなく、ただ「誰も救えなくなった自分」の無力さに心から絶望している青年の生の告白。


「動かない右腕を引きずって、必死に走りました。脳内のシステムUIが、この場所を『現在も正常稼働している中央医療センター』として、都合よくミニマップにナビゲート表示していたから……。すがる思いで辿り着いたら、こんな廃病院だった」


 (──()()()()()()()()、だと?)


 かおるの網膜の奥に、不気味なノイズが走った。


 表向きは完全に退廃した廃病院であり、中央管理室の電源以外はほぼ全てのインフラが死んでいた場所だ。今生きている最低限の生活環境も、すべてはかおるが後から泥臭く開墾したものに過ぎない。


 にもかかわらず、なぜ世界のシステムUIは、れんの脳内にここを稼働中の医療インフラとして可視化したのか。脳に直接焼き付いた画面システムの、底知れない不気味な仕様のトゲ。


 そんな違和感を残したまま、かおるはベッドサイドで意気消沈するれんの姿に、かつて自分の組んだ労働環境調整を国家システムに拒絶され、ベッドの上で廃人にされたあの愛弟子の、ピクリとも動かない細い指先が重なる。


 まただ。またこの歪んだ社会の環境が、どこまでも誠実なプロの卵を磨り潰し、数値の烙印ひとつでゴミ箱へと廃棄パージした。


 かおるの胸の奥で、ドス黒い反骨の炎が、静かに、しかし狂気的な熱量で爆発した。


 かおるは言葉を返さなかった。だが、その手は激しい憤怒を証明するように、臨床ノートの硬い表紙をバキリと指先がめり込むほどの力で握りしめ、次の瞬間には、れんの右腕の脈拍を恐ろしいほど正確に、あるいは壊れ物を扱うようにどこまでも優しく包み込んでいた。


 言葉の体温を引き算し、ただプロフェッショナルとしての圧倒的な救済の意思(アプローチ)だけを拳に込めて、かおるは立ち上がった。


「システムがあなたを廃棄パージした理由は分かった。だが、私の臨床ノートには、あなたの価値を値踏みするランク表示など一行もない。私は作業療法士だ。あなたの運動機能の破綻だけを問題とする」


「──え?」


 れんは、息を呑んで顔を上げた。


 傷つき、世界中のすべてから否定され、落伍者の烙印を押された自分を。目の前の男は、驚くほど実直に、あまりもし当然の義務として、一人の「救うべき人間(患者)」として丸ごと抱きとめてみせた。


 れんの凍りついていた心の最深部が、その意外な実直さに、激しく揺さぶられていた。


「進藤さん。私の判断として、このまま当施設への入院を勧める。……動けるか」


 かおるはリクライニングを戻した旧式の車椅子をベッドサイドへ寄せ、進藤の骨盤を的確に支えて移乗させた。


「この病院にある、点滴や車椅子、医療機器といった備品は、すべて限りある資源だ。これ以上の治療を継続するためには、あなたにもここの環境を理解してもらう必要がある。施設案内をする」


 キィ、と静かな車輪の音を立てて、かおるは車椅子を押し、地下施設の廊下へと滑り出した。

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