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ダンジョン化した世界で、作業療法士の俺だけが“環境”を治療する  作者: 秋嵩タクロウ


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第5話:『治療完了』<Ⅰ>

 カチ、カチ、と古い臨床ノートのバインダーが規則的な音を立てていた。


 昼下がりの地下リハビリ室。


 かおるが平行棒の傾きをミリ単位で調整していると、傍らに立つれんが、実に気の利いた手際でボルトの固定用スパナを差し出してきた。


「先生、こちらを。アライメントを固定するなら、ネジ山の摩耗を避けるためにトルクを均等に分散させるべきです」


「……ああ、助かる」


 普段のれんは、驚くほど穏やかで礼儀正しい。

 

 世界から落伍者《Fランク》として廃棄された悲哀を内に秘めながらも、作業療法士であるかおるへのリスペクトを忘れない。


 その物静かな佇まいは、退廃した地下施設に心地よい静寂をもたらしていた。


 ──だが。それも、この領域タスクに触れるまでの話だ。


「ところで先生。先ほど実施されていたデッドリフトのフォームについてですが、非常に申し上げにくいのですが、科学的根拠エビデンスの観点から三点ほど添削させてください」


「……断る」


「骨格の回旋モーメントにおける『ファーストプル』の段階で骨盤の前傾角度が致命的に不足しています。これでは大臀筋への張力が最大化されず、無駄に脊柱起立筋を消耗するだけです。さらにセット間のインターバルにおける水分および血中グルコースの補給タイミングですが──」


れん、そこまでにしてくれ」


 かおるは、眉間を押さえて小さく吐息を漏らした。

 もう何度目かになるやりとりだった。


 (……勘弁してくれ。物腰は柔らかい。知識も豊富だ。気まで利く。しかし、れんはとにかく筋肉に厳しすぎる)


 進藤蓮しんどうれん。かつてAランクとして最前線に立っていた男。


 異能のエラーがもたらした機能破綻により、社会システムから家畜のように排斥された彼の心の傷は、かおるが施した作業療法の反復によって幾分か癒えたようだった。


 最近の彼は、何かと献身的にかおるの周囲へ介入してくる。かおるはその変化を作業療法士としてポジティブに評価しつつも、れんのこの盲目的すぎるこだわりには、冷静で冷徹な彼をして本気で辟易していた。


「バルク|《巨大化》の狂信者め」

「聞こえていますよ、先生。でも、絶対にやめません」

「やめるところだぞ。一ミリの肥大に魂を売った男め」

「先生はとにかく頭の回転が速いですね。ところで頭の回転速度といえば、脳由来神経栄養因子《BDNF》の分泌が運動時の心拍数と密接に──」


「……勘弁してくれ」


 れんとの繰り返される知的な舌戦。かおるは、いつも負けた。




 そしてもう一つ、感覚のコントロールが正常化するに伴い、れんの特異な才能が少しずつ輪郭を見せ始めていた。


 それは、空間の徹底的な『整理整頓』。


 かつて給湯室の消耗品パウチの仕分けで見せたあの片鱗は、今や明確な特技として、地下施設の至る所で遺憾なく発揮されている。


「先生、そこ、致命的なデッドスペースがあります」


「……そうか」


 かおるは深く内省を強いられていた。


 自身がこの廃病院を整備し、その中で構築してきた最善の整理アライメント。


 作業療法士としての視空間認知を発揮し、完璧に物品を配置していた自負が、かおるにはあった。


 しかし、れんは違った。


 持ち物を極限まで整えることで物理的な快適さを実現し、そこから少しずつ二人の生活における「最適量」をハッキングしていく特殊なコツを持っていた。


 そう、かおるは感じていた。──こいつは、非常に厄介なタイプのミニマリストだと。


 とはいえ。


 久しく一人きりでインフラを開墾し、サバイバルを続けてきたかおるにとって、誰かと共同で過ごすこの静かな空間は、奇妙な居心地の良さを湛えていた。


 夜勤のリハビリ室で安い缶コーヒーを差し出してきた、あの恩師であり友であった男。


 あるいは、社会の荒波に圧殺され、ベッドの上で動かなくなった、あの誠実な後輩。


 もう二度と望むべくもなかったはずの、誰かと息を合わせる新たな共同生活は、一介の冷徹な作業療法士の胸の奥に、一時の確かな心の休息と充実感を芽生えさせていた。


その温かな沈黙のなか、かおるはペンの尻でトントンと机を叩いた。


「──だが、れん。今の俺たちの生活環境、圧倒的に『良質な脂質──必須脂肪酸』が足りていない」


 かおるから支給された、彼と同じネイビーの機能性スクラブ。


 しかし、ハイネックを纏うかおるとは異なり、その切れ長で涼やかな首筋を際立たせる、シャープなVネックの襟元を翻しながら、れんが静かに応じた。


「はい、先生。俺も可及的速やかに対処すべき問題と考えていました」


 れんは至って大真面目な顔で、すり潰したワームプロテインのパウチを指差した。


「モンスターの残骸から抽出したアミノ酸スコアは完璧です。ですが、脂質が完全に引き算されている。脂質は細胞膜の二重脂質層を構成し、成長ホルモンの分泌を促すための絶対的なインフラです。これがないと、どれだけ糖質を管理しても、いずれ脳神経のミエリン鞘が焼き切れ、俺の固有受容感覚のリハビリプログラムは破綻します」


 かおるはペンの尻で顎を叩き、れんの指摘を冷徹に咀嚼した。


(……確かに。ホエイプロテイン・アイソレート製法で有害なシリコン系脂質を遮断した結果、安全な必須脂肪酸まで削ぎ落とされていたか。身体の合成インフラにおけるクリアランスエラーだ)


 かおるは白紙の臨床ノートへ視線を落としたまま、至って平然と、医療従事者としての完璧な代替案を口にした。


「脂質の早期獲得なら、手っ取り早い手段がある。この敷地内の土壌をハッキングして昆虫類を簒奪するんだ。特にセミやガ、カミキリムシの幼虫などは、乾燥重量の数十パーセントが良質なオレイン酸などの不飽和脂肪酸で構成されている。細胞膜の潤滑油としては極上のスコア──」


「先生。それだけは、本当に、絶対にやめてください」


 かおるの学術的プレゼンテーションを、れんは一寸のブレもない丁寧な敬語のまま、秒速で、冷徹に全否定した。


 あのワーム味プロテインの悪夢を瞬時に思い出したのだろう。


 れんは引きつりそうになる目元を黒髪の奥でどうにか抑え込み、静かに、しかし断固とした拒絶を表情で証明した。


「……そうか。客観的な栄養価としては最高なのだがな。臨床のモチベーションを削ぐアプローチは本末転倒か。……仕方ない、次の段取り(ルート)へ切り替える」


かおるは心底惜しそうにノートの昆虫頁を引き算し、ネイビーのスクラブの袖を捲り上げた。


「行くぞ、れん。環境の治療時間だ」




 かおるれんを伴って地下の物置の奥へと足を踏み入れた。


 物質の構造と力学ならプロの知見がある。


 かおるがゴミの山から引きずり出したのは、廃棄された点滴スタンド、大量のプラスチック廃材、そして給食室の奥に眠っていた、酸化しかけた古い植物油脂──菜種油のドラム缶残渣だった。


「プラスチック廃材の炭素構造をIHコンロの熱で強制分解し、多孔質のろ過フィルターをハンドメイドする。そこに、この古い油脂の残渣を圧入し、有害な過酸化脂質だけを物理的に遮断トラップする。純化された安全な調理油の抽出だ。これがあれば、今日からでも炒め物などの調理や、ゼリーへの直接添加による即効性の脂質摂取ができる」


 医療ゴミの山が、かおるの手際によって、泥臭い「不純物分離リグ」へとリビルドされていく。


 だが、ドラム缶の残渣は有限の資源だ。

 

 尽きればその時点でインフラは破綻する。


 かおるはそのまま、病院の正面玄関前に広がる、完全に放置され荒れ果てた粘土質の荒地へと鍬を突き立てた。


「地下の生活ゴミから堆肥を作り、この痩せた黒土の栄養バランスを補正する。ここに、備蓄倉庫で見つけた野生種の油菜アブラナの種を蒔く。約三ヶ月で収穫できる頑強な在来種だ。種子は圧搾して純化オイルに変躯させ、必須脂肪酸としてゼリーへ直接添加する。残った葉茎は茹でてオイルと共に摂取すれば、脂溶性ビタミンとの同時摂取により、筋組織の酸化ストレスを水際で相殺する完璧な抗酸化パッチとなる。抽出油で目先の飢えを凌いでいる間に、三ヶ月後の永続的な脂質自給インフラをここで完成させる。手順の見通しとしては、これで合格ラインだ」


 常人の知性と泥臭い時間差の計算だけで、世界の死角に生活の背骨が一本、また一本と通されていく。


 れんは鍬を握り、驚くほど大真面目に荒地を耕していくかおるの横顔を、深い感心と驚きを交えて見つめていた。


「……凄いな、先生は。本当に、この壊れた世界で、自分の手だけで環境を治してしまうんだ」


 れんが少しだけ目元にかかる黒髪を払い、ささやかな安堵の笑みを浮かべた、その刹那だった。


 ──ゴォォォォッ!!!


 突如として、病院の屋根を激しく引き裂くような、悍ましい暴風の圧力が二人の頭上へと襲いかかった。


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