第5話:『治療完了』<Ⅱ>
──ゴォォォォッ!!!
病院の外壁を激しく引き裂くような、悍ましい暴風の圧力が二人の頭上へと襲いかかった。
鋭い衝撃波とともに、開墾していた黒土が砂塵となって視界を真っ白に塗りつぶす。
馨は「局所駆動」の視覚野で突風の軸を辛うじていなしたが、傍らにいた蓮はその直撃を受け、コンクリートの破片とともに土の上へ崩れ落ちていた。
「ハッ、最高のアリーナだ! ランクAからゴミ箱へ落ちた気分はどうだい、進藤蓮!」
砂塵の中心で、セミロングの髪をなびかせた男が、空力抵抗フィンを施した硬質なアーマーをギラつかせて嘲笑した。
その身幅は、馨と変わらないほどの長身。しかし、何よりも悍ましく異形だったのは、その身体にフィットしたプロテクターの色彩が、血よりも鮮烈な真紅に染まりきっていることだった。
「おまえは……どうして、ここに……」
うずくまる蓮が、薄れる意識の底からボソリと漏らす。
どうやら既知の存在であるらしいその異形に対して、蓮の瞳が激しく揺れた。
「知り合いなのか」
馨が低く問いかける。
「はい……あいつは元ギルドのメンバー、俺の後輩です。名前は、弱泉──」
「だまりなさいっ!」
蓮の唇が次の音を紡ぎ出すよりも速く、爆音めいた拒絶が鼓膜を震わせた。
「それは私の仮の名前。いや、過去の名前だ。私は生まれ変わった。新世界に選ばれたのだ。我が真名は【唯我の真空】オーフェン・ローフェン! すべてを巻き込み、奪うもの!」
自己愛が凝固したような姿勢をとりながら、男は自ら自己紹介を叫んだ。
馨はネイビーのスクラブを泥に汚しながら、冷徹にその『真紅のブリキ』を観察した。
空力抵抗を力に変えるためのエアロフィンがついた独特な形状。
大衆がギルドへ持ち込んだモンスターの残骸から加工された、最先端の異能マッチング装備。それが現在のトレンドだ。
「……蓮。お前の知り合いは、その、なんというか、非常に特殊だな」
「いえ……俺もそれには驚いていて。前は、あんな奴ではなかったんです」
「しかし、私は変わったのだよ、進藤蓮!」
オーフェンは再び高らかに笑う。
「もはや、あなたを追い越し、私はさらに美しく、高まっている! 私はね、過去の自分と決別するために、進藤蓮、あなたに終止符を打ちに来たのです!」
冷たい視線が、蓮の首元にじくりと刺さる。
「よわいずみ……」
「だから、私はオーフェンだと言っているっ!」
激昂とともに、オーフェンがフェンシングのごとき鋭い踏み込みから、目にも留まらぬ高速の打突を繰り出した。
あわや、蓮の首に直撃するそのコンマ数秒の刹那。
シュッ、と薄手のスクラブが風を孕んで鋭く鳴る。
太極拳、伝統楊式の迎撃防御──『上歩搬攔捶』 。
弾丸のごとき突進の軸線へ滑り込むように間に割って入り、自らの前腕を強固な骨格のアーチ(防壁)に変躯させてオーフェンの一撃を正面から完璧にせき止めた馨が、冷徹な視線を真紅の異形へと突き戻していた 。
「久方ぶりの邂逅の中、すまないが──気安く触れないでもらおう。私の患者に」
一瞬の静寂。
作業療法士としての絶対的なプロの矜持が、馨の瞳の奥で静かに、しかし青く燃え盛っていた。
オーフェンの神速の打突を『上歩搬攔捶』の骨格アーチで完全に制動した馨の手を 、真紅の異形は苛立たしげに振り払い、滑るようなバックステップで距離を取った 。
「おや……? ランクは……」
オーフェンは網膜の端のシステムUIを高速駆動させ、眼前のネイビーのスクラブを纏う男のデータを走査する 。
だが、その検索結果を網膜に映した瞬間、真紅のアーマーの奥で、彼の双眸が激しく戦慄した 。
神城馨の頭上には、名前も、ランクも、ステータスの数値すらも一切が表示されない 。
あるのは、世界の仕様書を根底から全否定するような、観測不能の不気味な空白。
「──数値ゼロ!?」
この世に二人と存在しない、規格外のシステムエラー 。
(ランクゼロの落伍者……いや、バカな。であれば先ほどの、私の神速を完全にせき止めたあの精密な身体駆動に説明がつかない。何だ、このイレギュラーは……!)
オーフェンの脳がクレバーな戦士としてのアラートを鳴らす 。彼は椅子の剥奪に怯えるだけの無能ではない。
この激戦区を生き抜いてきた観察眼が、馨を「得体の知れない脅威」として冷徹に査定し始めていた 。
「……あなたは、進藤蓮のお知り合いか何かですか?」
気障な虚飾を一時的に引き算し、オーフェンが低く問いかける 。
「患者、と言ったはずだ。つまり私は、こいつの治療担当──作業療法士だ」
一寸のブレもない、大真面目な顔での返答 。
(作業療法士……? だから何だというのです。何を言っているんだ、この男は)
システムに盲従するオーフェンの知性では、馨のプロとしての言語が1ミリも理解できない 。
「なんにせよ、無粋です。私は進藤蓮に用がある。部外者はどうぞ立ち去ってください。その……天気予報士さん、ですか?」
歪んだ優越感を誇示するための、安い挑発 。だが、そんなノイズは馨の心に1ミクロンも届かない 。
言葉の刃のベクトルを冷徹に見切り、馨はその舌鋒でブーメランのようなカウンターを放った 。
「作業療法士だ。二度は言わせるな。派手でやかましいのは、そのブリキの玩具(見た目)だけにしてくれ」
「……ランクゼロのモブが、よく吠える……!」
こめかみに青筋を走らせ、オーフェンは完全に神城馨を「最優先で排除すべき標的」としてロックした 。
「いいでしょう。進藤蓮の前に、前座、場繋ぎ、地ならしとして──綺麗に露払いいたしましょう!」
オーフェンが真紅のエアロアーマーをきしませ、フェンシングのごとき鋭く、細い半身の構えを取る 。
対する馨は、伝統楊式の迎撃アライメントを静かに結ぶ 。
馨はすでに、自身の因子の出力を限界のバッファに絞り、脳神経の視覚野と固有感覚だけに生体電気を限定集中させる【15%局所駆動】を発動させていた 。
キィン、と網膜の裏で思考速度が神の領域まで加速し、ゆっくりと迫るオーフェンの初動──筋肉の収縮を完全に動作分析する 。
──だが、それでもなお、世界の時間は無慈悲だった 。
ドゴォッ!!
(──速い!)
人間の範疇を遥かに超越した、埒外の物理質量で繰り出される高速の打突 。
脚力による踏み込みでも、アーマーの機械的ブーストでもない。得体の知れない「見えない力」によって強引に牽引される、凶悪なまでの直線神速 。
15%を開放した加速世界のなかであっても、オーフェンの突進は馨の処理容量のすべてを容赦なく喰いつぶしていく 。
紙一重。
本当に、爪の厚み1枚分のアライメントを体幹の動きだけでズラし、最小限の回避行動をこなすだけで手一杯 。
相手の動きは見えているのに、反撃に転ずるための手順の段取り──カウンターの糸口が、1ミリも組み立てられない 。常人の器の圧倒的な限界 。
「ふふふ、どうやら賢い方のようですね! 痛感しましたか、彼我の距離を! 決して見誤ることなきよう!」
馨の絶対的な劣勢を察知し、余裕を取り戻したオーフェンが、さらに猛烈な連続打突の濁流へと移行する 。
オーフェンの高速の『動』に対し、馨の太極拳による『静』の制動 。
完璧な防御に見えた。だが、防戦一方の肉体には、確実にミクロの磨耗が蓄積していく 。
「先生が……対応しきれなくなってきている……っ」
土の上でかたずを飲んで見守る蓮の目に、馨のネイビーのスクラブが激しく羽ばたき、わずかにアライメントを狂わされる瞬間が映った 。
バキィッ!!
「ぐっ……!」
鋭い衝撃が馨の側腹部を捉える 。自身の喉奥を伝う鉄の味を感じながら、馨の脳は強迫的なまでの正確さで己のダメージを逆算していた 。
(……第8〜10肋骨への深刻な打撃。骨格の支持性が12%低下。継続行動は辛うじて可能)
「ランク外なんてどんなイレギュラーかと思いましたが、とんだ杞憂でしたねぇ! 貴方はただの落伍者、未達者──周回遅れのトップランナーだ!」
オーフェンが高らかに嘲笑し、視線を横の蓮へと向けた 。
「そして進藤蓮、横で怯えて見ているだけのあなたも同罪だ! 惨めですねぇ!」
「──っ、先生に、手を出すな!」
蓮の胸の奥で、大切な治療者を傷つけられていることへの激しいホスピタリティが爆発した 。
彼は泥を払い、神城に夢中になっているオーフェンの死角へ向けて、自らの異能──筋繊維の超回復を起動しようと床を蹴った 。
だが──その刹那。
彼の脳神経を、最悪のバグ──記憶のトゲが強制ハッキングした 。
──『お前のせいだ、進藤蓮!』
──『お前が暴走したせいで、あの人が……!』
脳圧が跳ね上がり、固有受容感覚が音を立てて崩壊していくあの夜の恐怖 。
誰かを救おうとする度に自らの肉体の位置を見失い、環境を壊し、大切な人を傷つけるという呪い 。
「あ……が、あ、あ腕が、俺の、腕が、どこに──」
蓮の身体が、恐怖のフラッシュバックによって完全に硬直した 。
「ハハハハ! 隙だらけですよ!」
オーフェンはその隙を見逃さず、冷酷な高速の打突を蓮の胸骨へと叩き込んだ 。
ドガァァン!!
蓮の長身が放物線を描いて無残に吹き飛び、土壌を削りながら黒土の上へと転がった 。Vネックの襟元を泥に汚し、激しく咳き込む蓮 。
「あなたはそうやって、打ちひしがれているのが一番お似合いです 。ええ、あの遠征の夜の撤退劇の時も、実によく似合っていましたよ」
オーフェンが真紅のフィンをなびかせ、歪んだ愉悦に目を細めた 。




