第3話:『自己臨床』<Ⅱ>
「次は俺自身、体内の環境の治療だ。おそらく、次にあの肉塊──カルノと同レベルの敵との戦闘になった場合、俺自身の次の一撃で本当に器が壊れる」
翌日から、馨は冷徹に計算し尽くされた自己調律を開始した 。
狂気的な執念を胸に秘めながらも、人体の超回復を最大化するために、睡眠と栄養を「戦略的」に摂取する精密なルーティン 。
部位を細分化して日毎に負荷をかける分割法を組み、複数の関節を同時に連動させて非戦闘員の肉体に最大級の出力を強制する多関節運動に挑む 。
だが、緻密な理論が導き出す効率の裏で、馨の肉体は文字通りの地獄を這っていた 。
筋組織を限界まで破壊するための凄絶な負荷。
大腿四頭筋が激しく痙攣し、膝がガクガクと笑う 。
自重スクワットの限界を超えた沈み込みのたびに、カルノ戦で裂けた左肩の挫創がピキ、と音を立てて引きつり、包帯にじわりと新たな血が滲む 。
肺が焼けるように喘ぎ、胃の底から強烈な吐き気が突き上げてくる 。滝のように噴き出す汗がネイビーのスクラブを重く濡らし、床に水たまりを作っていく 。
人体の運動制御において、自己暗示による運動は極めて効果的である 。その知見を極限まで拗らせた結末が、これだった 。
「ふっ、ふっ……あと5回っ……!」
「その調子だ、腹筋6LDKっ……!」
かつて筋収縮の動作分析を学ぶために貪り尽くした、ボディビルダーの指導動画 。
その異様な掛け声を、なぜか一切の迷いなく「脳内パッチ」として大真面目に運用し、誰もいない夜のリハビリ室で自らを追い込んでいく 。
非戦闘員の器で繰り出される、ストイックな叫びが静寂に響いていた 。
数週間後。馨はリハビリ室の大きな鏡の前に立ち、自身の肉体を見つめた 。
鏡の向こうには、余分な脂肪を極限まで削ぎ落とされ、筋肉の立体的な陰影が浮き上がった己の姿があった 。
だが、馨の瞳に陶酔は1ミリもない。その双眸は、ただ冷徹に自らの「性能評価」を測定していた 。
「……まだ、足りない」
研ぎ澄まされた腹直筋の対称性を確認しつつも、馨は冷たく吐き捨てた 。
これだけ狂ったように追い込んでも、しなやかな量感を纏ってきた筋肉にある種の停滞が起きている 。
非戦闘員のフィジカルとして、戦闘に耐えうる絶対的な「出力」には未だ届いていない 。
原因は分かっていた。
バルクアップに絶対不可欠な三大栄養素であるPFCバランスの確保 。
馨は倉庫で見つけ出した、使用期限切れの「医療用5%ブドウ糖輸液」を最速の糖質補給源として使用していたが、ただのグルコースだけでは、筋肉を合成するための栄養バランスに限界が生じていた 。
「行くか……下層区域へ」
馨は静かに独白し、脳裏に刻まれた恩師の言葉をロードした 。
かつて深夜のリハビリ室で、天堂はドームから回収された人工生体AI兵器の千切れた駆動チューブ──人工筋肉の残骸をピンセットで興味深そうに弄りながら、緩やかにカーブを描くセンターパートの黒髪を細い指先で払い、飄々と笑っていたのだ 。
『神城くん、ドームの兵器はね、無生物のくせに筋肉を模したアミノ酸と脂質の塊なんだ 。ナノマシンの静電吸着で強引に縛られているだけのただの質量さ 。──フフ、解剖学的に適切に解体して遠心分離にかけさえすれば、僕らにとっては極上のプロテインの宝庫だよ』
あの奇才の言葉が、今、非戦闘員としての生存戦略の答えとしてガチリと噛み合う 。
街の死角に歪に膨らんだ半透明のドーム、通称『下層区域』 。
そこは、システムの恩恵にすがるC〜Dランクの一般能力者たちが、ドーム内の兵器を間引いてギルドへ残骸を換金し、日銭を稼ぐための一大産業の舞台となっていた 。
ドームの境界線の前には、ご都合主義のチート異能を誇示するように派手な武器を鳴らす若者たちがたむろしている 。その中で、勝手にゲートの管理者を気取っている大柄なならず者が、深くネイビーのスクラブを纏って現れた馨を遮るように立ち塞がった 。
「おいおい、どこの医療従事者だぁ? ここは病院じゃねぇぞ 。冷やかしなら帰んな」
馨は無言のまま、ならず者の眼窩を冷徹に睨み返した 。
一介の作業療法士が放つ、寸分のブレもない静かなアライメント 。
その刹那、ならず者の網膜の端で、ステータスUIが不愉快なシステムエラーのノイズを鳴らした 。
神城馨の頭上には、名前もランクも、ステータス数値すらも一切が表示されない。
観測不能の『落伍者判定』 。
画面を盲信するならず者の脳幹に、原因不明の生物的アラートが駆け抜ける 。
「ひ、ッ……なんだよ、てめぇ……」
気圧されたならず者は、冷や汗を流しながら、自らの動揺を隠すようにか細い声を絞り出した 。
「……いや、ここに入るなら、ギルドのクエストを受けて、成果に応じた報酬(換金)を受け取るのが普通だろ 。何が目的だよ」
怯えの混じったその言葉を受け、馨は一切の感情を排した声で淡々と応じた 。
「問題ない。俺の報酬は、おそらくそのモンスター自体だ」
「は……?」
理解不能の言葉を遺し、馨はネイビーのスクラブを翻して単騎で境界線を踏み越えた 。
背後でならず者たちが唖然と立ち尽くす中、馨は微塵も恐怖を皮膚に見せることなく、半透明のドームの闇へと侵入していく 。
境界の膜をくぐり抜けた瞬間、世界の空気が、一瞬で重く張り詰めたものへと変躯した 。




