第3話:『自己臨床』<Ⅰ>
煤けた白い天井に、無数の細かい亀裂が走っている。
旧リハビリテーション病院、東病棟302号室。
外界のディストピア化に伴って住民が逃げ出し、今や完全に皮だけが退廃した廃病院の一室で、神城馨は軋むパイプベッドの上でゆっくりと上体を起こした。
「……目覚めは、最悪だな」
口を開くと、喉の奥にこびりついた鉄の味が不快に広がった。
カルノ・ネクロシスとの初戦から、どれほどの時間が経過したか。馨は極秘ラボの血の海から傷だらけの身体で這い出し、天堂の遺した紙ベースのカルテをいくつか抱え、記憶を頼りにこの場所へ辿り着いた。
ここは生前、天堂が表の顔である医師として診断を詰め、馨が作業療法士として共に患者に向き合っていた、始まりの場所だった。
身体を1ミリ動かすたびに、五体の全神経が悲鳴を上げる。
カルノの数百キロの突進を完璧なアライメントでいなしたはずの右腕は、関節の許容限界を超えて靭帯が引き伸ばされ、重い鈍痛とともに不全を起こしていた。
物理散弾の鉄屑を浴びた左肩から体幹、大腿部にかけては、肉が深く裂けた挫創が引きつり、包帯の奥で今も熱を帯びている。
非戦闘員の肉体が一瞬でも限界を超えた代償は、あまりに重い。
馨はガクガクと小刻みに震える左手を持ち上げ、自身の客観的な評価を開始した。
脳圧暴走による後鼻腔出血は完全に止血を確認。前庭覚のエラーによる目眩は消失。だが、脳細胞の強制発火が血中のブドウ糖を貪り尽くしたことによる超急性の低血糖症が、未だに中枢から指先を苛んでいる。
「主観時間3分、リアルタイム0.5秒の加速世界の代償が、この全身の運動制御不全か。非戦闘員の器としては、あまりに割に合わない代償だ」
──そして、何より。
静まり返った廃病院の冷気は、もうどこを探しても、あの飄々とした恩師であり友人であった天堂創の姿がないという、残酷な事実を突きつけていた。
同じ未来を目指し、社会の欺瞞に反骨を誓った伴走者。朝、目を覚ませばいつでも、わざわざ字数の多い言葉で馨の実直さをからかってきた男が、もうこの世界には存在しない。
人間は、そんなに都合よく感傷を切り替えられる生き物ではない。胃の奥に鉛を詰め込まれたような重苦しい喪失感が、容赦なく馨の思考を泥の底へと引きずり込もうとする。
だが、馨の瞳から光は消えなかった。
天堂がその命を、その白衣を赤く染めてまで馨に託した、青い注射器 。この体内で脈動するアンチナノマシン因子を、ただの感傷で錆びつかせ、社会のバグに使い捨てられるわけにはいかない 。
「……進むしか、ないな。先生が、すべてを押し付けて逝ったんだから」
悲しみを忘れたのではない。恩師が命を賭して託したこの「力」を、完璧に調律して使いこなすという冷徹なロジックだけで、馨は無理やり重い足を踏み出した 。
馨は中央管理室の端末を叩き、外部から独立して完璧に息づいている個別電源と、強固な個別回線のログを見つめた。
この異常なインフラのすべては、かつて生前の天堂が、おもちゃを手に入れた子供のような顔で、当時二十七歳の中堅作業療法士だった馨に語っていた言葉そのものだった 。
「やぁやぁ、leergierig。いつだって男は少年の心を忘れないもんだ。来る日が来ようが来まいが、自分だけの極上の秘密基地は備えておくものだよ」
三十四歳。額の真ん中で緩やかにカーブを描いて分かれた黒髪──毛先を遊ばせたセンターパートの奥から、底知れない瞳を覗かせる細身の優男 。
ふと、かつて二人でこなした、深夜の誰もいない静まり返ったリハビリ室での夜勤の記憶が蘇る。患者の歩行アライメントの修正案について夜通し激論を交わし、疲れ果てた馨に、天堂は自販機の安い缶コーヒーを差し出しながら、悪戯っぽく笑っていた 。
『神城くん、君のそのクソ真面目な徹底ぶりは、いつか世界を救うか、あるいは自壊するね。まあ、その時は僕が最高の環境を用意してあげるよ』
奇才で通ったあの臨床医の、突飛な信頼と趣味。当時は呆れて聞き流していた。だが、世界の秩序が崩壊した今、その偏執的なまでの備えが、非戦闘員の馨の命を繋ぐ絶対的なセーフティネットとして機能している 。
画面には『全拠点との通信が遮断されました』の冷徹なエラーログ 。
(──先生。先生の言った通り、最高の秘密基地ですよ。だけど、あなたのいないこの場所で、俺は……)
馨は小さく息を吐き、視線を落とした。地下施設には一見、用途不明の資材やゴミの山が転がっているだけだ。恩師が遺した電子カルテのログを調べようにも、システムへのアクセス権限がない 。
「感傷に浸る時間は、もうどこにもない。まずは──環境の治療からだ」
血と泥、精度を極めた戦術の代償として無残に汚れた青いスクラブを剥ぎ取り、馨は備品室の棚の奥から見つけ出した新品の包みを開いた 。
袖を通したのは、深いネイビーの機能性スクラブ 。
肩口から脇腹、臨床における可動域に沿って、チャコールグレーの強靭なストレッチ・リブ(伸縮ライン)が一本の明確な背骨のように走っている 。
解剖学的な骨格の起伏を冷徹に際立たせるそのアライメントは、医療着でありながら、どこか研ぎ澄まされた戦闘服のような静かな風格を宿していた 。
馨は新調した衣服の袖を小さく捲り上げ、室内を見渡した 。
「……ん。ここもか」
馨はよし、と静かに意識のスイッチを切り替えた 。
食器の滑りを取る指先の摩擦感知。そして、洗面台の磁器に潜む、微細な頑固な水垢を鋭く見抜く動作分析── 。
馨は白磁の奥に焼き付いたくすみの結晶を冷徹に凝視し、手にしたスポンジを限界まで引き絞った 。
「ふん、手強い汚れだが……俺の分析は甘くない」
ドゴォッ、と白磁の表面を穿つようにスポンジの寸勁が炸裂し、くすみのすべてが容易く削ぎ落とされていく 。
非戦闘員の器で、どこまでも大真面目に遂行される、それが馨なりの最初の「環境の治療」だった 。
続いて馨が着手したのは、廃病院という生活インフラの「開墾」──次なる治療への環境設定だった 。
アウトドアの知識などない。だが、人体の構造(解剖生理)なら骨の髄まで知り尽くしている 。
馨は地下施設に転がっていた医療ゴミから、古い人工透析用のカテーテルチューブ、活性炭、滅菌ガーゼ、プラスチックボトルを静かに回収した 。組み立てるのは、人体の腎臓──糸球体とボウマン嚢によるネフロンの二重ろ過システムを物理的に模倣した、精密ろ過器 。
錆びついた貯水タンクの死水が、医療用チューブの積層をじわり、じわりと透過していく 。
馨は滴り落ちる透明な滴を、祈るような、しかし冷徹な評価者の眼で見つめ、小さく息を吐いた 。
「……機能としては、これが限界か。残りは、煮沸による滅菌で補填するしかないな」
突貫の知識だけで構築した、奇跡の一歩手前の泥臭いインフラ 。それでも、死水は力学的に純化され、辛うじて五体を維持するための「安全水」へと治療されていった 。
次に馨が手を付けたのは、「火」の確保だった 。
都市ガスは当然のごとく死んでおり、カセットボンベのような消耗品に頼るサバイバルは長期的な破綻を意味する 。
馨は給湯室から回収した備品の卓上IHコンロを、中央管理室の安定電源から引いた延長コードへ強引に接続した 。
カチ、と無機質な駆動音とともに、純化されたネフロン水がステンレスのビーカーの中で激しく沸騰を始める 。
馨は湯気の立ち上るビーカーを両手で包み、ゆっくりと、白濁のない白湯を口に含んだ 。
ただの熱い水だ。
味などない。
だが、カルノ戦の傷に呻き、期限切れの輸液バッグを啜って辛うじて命を繋ぐことしかできなかったボロボロの喉奥へ、純化された熱がじわりと、染み渡るように浸透していく 。
細胞の隅々まで水が満ちていく感覚。
馨は静かに目を閉じ、深く、長く、最初の一呼吸(間)をかみ締めた。
生き残ったという、確かな肉体の手応え 。
空間、水、そして火。生活環境の最低限のノイズを引き算し終えた馨は、ビーカーをそっと傍らに置き、次のシークエンスへと段取りを組んだ 。




