第2話:『穿つ治療』<Ⅱ>
当てることのできない攻撃は、沈みゆくタイタニック号のデッキチェアを並べ替えるくらいに無意味だ。カルノのクレバーな知性が、馨の異常性をシステム(数値)の枠組みで処理しようと駆動する。
──だが、彼の視界の端のシステムUIは、目の前の男を『計測不能』としか表示しない。
「このプレッシャーはなんだ……! 俺が、この激戦区で死に物狂いで椅子を奪い取ってきた、この『Bランク』の俺が、なぜお前を視認して冷や汗を流している……!? あの胡散臭い白衣の『案内人』の言葉通り、効率よく外骨格を肥大化させる、最良の特等席だと思ってわざわざ奪いに来てやったってのによぉ……! お前、お前は何ランクだ! どのギルドの回し者だ!」
カルノの言葉から、初めてウィットが消え失せた。
そこにあるのは、システムに骨まで家畜化された男の、生々しい恐怖の叫び。
「ランク?」
馨の声音には、体温が一切なかった。
あの『世界新性』──世界中にナノマシンが蔓延し、大衆の脳内にステータスUIという呪いが強制表示されたXデイ。
すべての人間がチート能力に狂喜し、人口全体の相対評価で激しく上下する「ランク」という椅子取りゲームに家畜化された。
カルノが有機物を略奪し、外骨格を強化し続けるのも、その相対評価の椅子から滑り落ちる恐怖に脳を焼かれているからだ。
だが、神城馨は、そもそもその画面を一度も見ていない。
旧知の権威であった天堂創の手により、不完全なナノマシン除去薬の投与を受け続け、アンチナノマシンの治験に余暇のすべてを捧げてきた。システムに価値を値踏みされることへの、根源的な『否定』。
馨のランクが何であるかなど、この狂った世界の仕様書には一行も記述されていない。
「そんなまやかしの数値に、俺の人生の価値を測らせるな」
馨が床を蹴る。
だが、その瞬間、カルノのクレバーな罠が発動した。
「──引っかかったな、大根役者」
カルノは当てるための打撃をあえて放棄し、馨の侵入経路に向けて、自らの外骨格に定着していた鉄屑のナノマシン結合を強制解除した。
有機・無機の壁を越えて物質を強引に縛り付けていた、静電吸着の極性が一瞬で反転する。
ブチブチと悍ましい静電反発の破裂音とともに、アーマーの表面が全方位への物理散弾として爆散した。
非戦闘員の肉体では、これを完全に回避する術はない。
「くっ……!」
馨の左肩から脇腹にかけて、鋭利な鉄片が深く肉を裂いた。鮮血がスクラブを赤く染める。激しい痛みが脳を揺るがすが、馨の「動作分析」の眼は死んでいなかった。致命傷だけは、骨格を最小限に捻ることで躱しきっている。
カルノは笑わなかった。肉を切らせて骨を断つ。その過酷な戦術の代償として、目の前の異物の足を確実に止めた。次の一撃で、完全にスクラップにする。
その刹那、カルノの全身の動作アライメントが、獣から「プロ」のそれへと変躯した。
見下していたはずの目の前の異物を、本能が完全に強敵と認めていた。
能力の最大出力。右上腕へ周囲の鉄屑がブチブチと猛烈に吸着融合し、質量を限界まで引き上げる。
カルノは大きく右上腕を引き、腰を深く落として、身体を鋭く回旋させた。ダッシュの爆発的な推進力を、体幹の回旋・連動へと一本の線で繋いでいく。それはまるで、一流の投手が見せる美しい投球フォームのようだった。
すべての運動モーメントを右腕の破壊力へと収束させ、カルノが地を爆ぜさせる。
「──『砕殺』……!!」
周囲の空気が歪むほどの質量が、馨の頭上へと振り下ろされる。
だが、それこそが、馨が防御に徹して待ち望んでいた「決定的な崩壊」だった。
最大出力という名の、致命傷。
周囲の有機物を取り込みすぎて数百キロに膨れ上がった巨躯。それを完璧な前傾姿勢で踏み込んだカルノの『左膝』は、脳からのナノマシン伝達遅延により、地面の衝撃を吸収するための荷重制御が完全にフリーズしていた。ただの突っ張った、脆い支柱。
(──環境の、治療時間だ)
馨の脳内で、アンチナノマシン因子の最大駆動のカウントダウンが響く。
外界を壊すチート能力が『外へのベクトル』なら、馨が磨き上げた太極拳と解剖学の理合は、自らの骨格と神経を常人の極致まで最適化する『内へのベクトル』。
カルノの投球フォームに対比するように、馨の姿勢は、陸上スプリンターがスタートブロックを蹴り出すような、極限の低空前傾姿勢へと沈み込んでいた。
下りてくるカルノの右拳には目もくれず、踏み込まれた突っ張った左膝の「外側」へ、馨は低く、滑り込むように両手を重ねて触れた。
太極拳、伝統楊式の極致──『按』。
筋力で押し返すのではない。カルノ自身の数百キロの突進質量と引力を、その脆弱な関節の「曲がるべき方向の真逆」へと、馨の体幹の重みを乗せてほんの数ミリ、浸透させる。
──ボキィィィィィィン!!
肉と骨が逆にひしゃげる凄惨な破壊音が鳴り響いた。
数百キロの突進質量を支えていた強固な支柱が、突如として消失する。左膝が不自然な角度へと真横に折れ曲がり、逃げ場を失ったカルノの巨躯が一瞬だけ、慣性で宙にフワリと浮き上がった。
そして、アライメントを失った破壊の質量が、そのまま真下へと「崩落」してくる。
無防備に晒される、カルノの脳幹、延髄の一点。
馨はさらに深く一歩を踏み込み、右拳を限界まで引き絞る。ストロークはわずか数センチ。
──その瞬間。
馨は、最後の一撃のための呼吸を開始した。
激しい戦闘の真っ只中、突如として訪れる、一瞬の凪。
リアルタイム0.0秒の、絶対的な静寂。
その刹那の隙間に、強烈なフラッシュバックが奔流となって馨の脳内を駆け抜けた。
──馨の脳裏に浮かんだのは、かつて共に未来を語り合った、天堂創のあの穏やかな笑顔。そして、世界に圧殺された、二人の壊れた夢。
冷徹な評価者としての仮面で覆い隠していた、馨の爆発的な感情の奔流が、一気に臨界点を超えて溢れ出す。
友を奪われた狂おしいまでの怒りと、救えなかった悲しみのすべてを、馨はその拳へと乗せていく。
アーチのように丸めた背で、地球の質量を足裏から拳へと一本の線で繋ぐ──含胸抜背、沈墜勁の骨格駆動。
「が、は──お前ぇぇっ──」
カルノの瞳に、初めて「死の恐怖」が宿った瞬間。
手向けと変革を込めた、馨の一撃が、無音の世界を穿った。
「──『指地捶』……!!」
ドゴォォォォン!!
馨の寸勁が、カルノの延髄へと炸裂した。
ナノマシンの電気信号を媒介していた脳幹が物理的に完璧に解体され、カルノの巨躯から、ブチブチと音を立てて外骨格が剥がれ落ちていく。
その剥がれゆくアーマーの隙間、白目を剥き、システムUIの光が完全に消失していく網膜の裏で、カルノはただ、喉を血で鳴らしながら笑った。
「...が、は……ハ、ハ……特等席のチケット、じゃ、なかった……。ただの、実験室の、モブゾンビ……は、俺の、ほうか……よぉ……」
完全に物言わぬ肉塊となって床に崩れ落ちるカルノ・ネクロシス。
完全なる静寂の帰還。そして──。
「う、ぐ……っ、ゴホッ、ゴホッ……!」
直後、馨は激しく咳き込んだ。
脳神経への生体電気の一極集中──その代償として過度に跳ね上がった脳圧が、鼻の奥の血管網を容赦なく破裂させていた。喉の奥を伝って、鉄の味がする熱い液体が口から次々と溢れ出てくる。
視界が急激にセピア色に染まり、強烈な目眩と高熱が脳を焼きにくる。
脳細胞の超高速発火にすべてのブドウ糖を貪り食われ、身体が超急性の低血糖症を叫んでいる。ガクガクと指先の震えが止まらない。
「……せ、ん……せ……」
血の海の中で、ピクリとも動かない天堂創の亡骸を見つめたまま、馨の非戦闘員としての肉体は、限界を迎えてそのまま床へと崩れ落ち、深い闇の底へと意識をシャットダウンさせた。
主を失った、煤けた地下ラボ。
二つの死体と、気絶した一人の男。重苦しい静寂が満ちるその空間で、パチ、パチ、と無機質な駆動音が静かに鳴り響いた。
完全にシャットダウンしていたはずの、ラボの最奥のメイン端末。
それが、不気味なノイズとともに自動起動していた。
青白いバックライトが、誰も見ていない血の海を静かに照らし、冷徹な文字列のログが、一本の背骨のように立ち上がっていく。
『──被験者K、第0.0秒の常人拒絶を検知』
『第1フェーズ:|環境治療プログラミング《リヒルト》を開始します』




