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ダンジョン化した世界で、作業療法士の俺だけが“環境”を治療する  作者: 秋嵩タクロウ


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第2話:『穿つ治療』<Ⅰ>

 ──プツ、と。


 世界の時間は、唐突にその琥珀の固定を解かれた。

 爆発的な音の濁流が地下ラボへ帰還する。


 数百キロの有機質アーマーを堅牢なる城壁として構えた、カルノ・ネクロシスが震撼した。その刹那、彼の獰猛な眼窩が、死体であるはずの男から立ち上る異様な気配を察知して細められる。


 普通なら、血の海に沈んだ憐れな実験用マウスが二匹、そこにあるはずだった。


 だが、かおるの双眸と視線が交わった瞬間、カルノの脳幹を、かつて経験したことのない奇妙な戦慄が駆け抜けた。毛穴という毛穴が総立ちになる生物的アラート。


「お……おや……? 死人への弔辞を述べる前に、棺桶から手が出てくるとはよぉ。まるで出来の悪いB級ホラー映画の劇場公開初日だぜ」


 カルノの口から、場違いなほど滑らかな皮肉が零れ出た。


 それは焦りだ。


 目の前の、ステータス数値すら持たないはずの「非戦闘員」が放つ、正体不明のプレッシャー。暴力を具現化した彼は、その実ただの簒奪者バーバリアンではなかった。この狂った異能世界を生き抜いてきた彼なりの、クレバーな観察眼が命じていた。


──この異物を、安易に咀嚼するな、と。


「……関節可動域(ROM)チェック、問題なし。表在感覚──触覚、圧覚、痛覚の応答から継続行動可能と判断。脳震盪の影響は快復域、前庭覚エラーの軽減を確認。──立位アライメント、正常位置へ固定」


 同時にかおるも冷静だった。裂傷による出血、全身の打撲、痛覚が伝えてくるアラートは、満身創痍を明確に伝えている。


 そしてなお、冷静に、ゆっくりとストレッチを始めながら、関節の可動域を確かめていく。

体幹から肩、肘、手首、指の一本に至るまで。下半身との連動も確認していく。それは銃へ弾丸を込めるような丁寧さであり、パイロットが離陸前のプロセスを入念にこなすかのような、絶対的な精密さだった。作業療法士たるかおるは、己の身体の評価すら客観的に冷静に判断する。


 天堂を死に至らしめた目の前の暴力に対しても、悲しみと怒りは、冷静な評価者による分析の衝動で塗りつぶされていた。


 かおるが作業療法士の本領を発揮し、評価シークエンスに入っていることを理解できないカルノは、さらに違和感と頭の中に鳴り響く警鐘の音を高めた。


「てめぇ、何をぼそぼそと。ゾンビ映画の序盤で、真っ先に感染して病院から徘徊してきたようなモブがよぉ」


 威勢を言葉に乗せた威嚇。しかし、動けない。堅牢な城壁で固め、その全身こそが盾であり槌でもあるカルノをして、なお動けない。


「……評価終了。どうした、映画好き。お前がシネコンの特等席でポップコーンを食べている間に、この『やせ細ったモブゾンビ』がお前のシナリオを破り捨ててやるよ」


「──裂っ殺」


 かおるのやすい挑発。互いにわかりやすい牽制。しかしカルノには切っ掛けが欲しかった。この違和感を確認するため、もしくはこの言い知れぬ不安を解消するために。


 爆裂の横一線。右上腕を振り切り、相手を粉微塵にする乱雑な鉤爪。


 しかしてかおるは狙い通りの事象を冷静に分析する。これは、得体の知れない相手を拒絶するための防衛動作だ。

 患者の精神状態を読み解き、言葉や環境をコントロールして、望ましい行動へと『誘導』する──。それこそが、リハビリテーションの現場でかおるが培ってきた、作業療法士としての本物の技術だった。


 かおるにとって、言葉の刃で敵の心を揺さぶり、次の動きを完全に支配することは、すでに医療アプローチの一環だった。

 精神的な揺らぎがもたらす、特有の予備動作。実動作の軌道は完全に予測できていた。

 あとは、それを自分の非戦闘員としてのフィジカルに照らし合わせ、最小・最短のモーメントで、いなす。

 大きな歯車を、指先ひとつの小さな力で狂わせるかのように、カルノの推進力の『軸』だけをかすかに横へとずらす。


 ──ゴォッ!


 風圧の計算は情報不足、ここはバッファ(安全域)を確保する。

 直後、紙一重の攻防が成立した。

 目の前で暴風を伴いながら、圧巻の質量が通過するのをかおるは明確に知覚した。見ることができた。ここでかおるは、確証する。


(──これは、加速だ。生体電気のすべてが自らの脳神経へ一極集中し、思考が加速している)


 引き延ばされた静止世界の真ん中で、冷静に己の変化を分析しつつ、かおるは動いた。

 目の前を通過していく、カルノの巨大な手のひら。その第3指──中指のPIP関節《第二関節》の皮膚に、かおるは刹那の動きで触れた。


 指先が捉えた、有機質アーマーの硬質な拒絶。触れることができた。


「──っ!?」


 ありえない事象を眼前に確認したカルノは、本能的な恐怖に突き動かされ、攻撃から一斉に回避へと転じていた。

 地響きを立てる、瞬間のバックステップ。


 明らかな狼狽。かおるはそれを見逃さない。


「どうした、映画好き。お得意の暴虐は、獲物を前にして後ずさりすることを言うのか。二つ名が泣くぞ、ただの余った死肉の盛り合わせが」


 あらん限りの皮肉を込めたかおるの舌鋒。それがカルノのこめかみに逆鱗の山脈を走らせた。


 しかし、カルノはただの暴走列車ではない。強引に沸き立つ血を rational(理性的)に抑え込み、かおるを睨み据える。


「てめぇはよぉ、ゾンビのくせに、お話が好きな野郎だなぁ、おい」


(──さすがに、安い挑発には気づいたか。だが、メリットはあった。こちらの身体機能はさらに回復している。このまま時間を稼ぎつつ、アレを狙う)


 ──スゥ、と。


 深く、長く、かおるは呼吸を繰り返す。


 意識的な換気によって血液循環をコントロールし、全身の酸素濃度を強制的に増大。蓄積した乳酸や痛み物質を代謝の血流で洗い流していく。非戦闘員の肉体を、強引に次の稼働へ調律するシークエンス。


「なーんか、企んでやがるのはわかる。この肌にベタつく感覚……ただのゾンビかと思いきや、どうやらエイリアンだったみたいだなぁ、おいっ。ただよぉ、俺は不時着したUFOの破片で首を切る趣味はないんでね。手短に終わらせようぜ、粘液野郎」


 凄まじい風切り音とともに、カルノの右拳がかおるの顔面へ肉薄する。

 かおるの肉体は、あくまで常人の範疇。一撃でも掠めれば肉塊に変躯する非戦闘員の器だ。だが、覚醒直後の脳神経の一極集中が、かおるの固有感覚を神の領域まで研ぎ澄ましていた。

 かおるは一歩も引かない。むしろ、突進の軌道(軸)の内側へと、吸い込まれるように滑り込んだ。


 太極拳の「柔」の理合。腕をぶつけるのではない。カルノの右前腕の外側に、かおるの両手の平がそっと触れた。


 衣服の擦れるような、極小の手応え。


「チッ……!?」


 カルノの拳が、かおるの耳を数ミリ掠めて空を切った。


 何かがおかしい。カルノの知覚では、確かにその華奢な頭蓋を粉砕していたはずだった。それが、まるで水面に投げた石が不自然に跳ねるように、自身の推進力が外側へと逃がされている。


 間髪入れず、カルノは左の裏拳を払う。泥のように重く、列車のような質量。


 かおるは打撃を繰り出さない。ただ、相手の肘関節の衣服の「たるみ」に指先を引っ掛け、その回転運動のベクトルを、彼の死角(アライメントの崩れ)に向けてわずかに『誘導』するだけ。


 空振りの風圧でかおるのスクラブが激しく羽ばたく。だが、当たらない。


「おい、おい、何だこれは。ナイフを持たずに銃撃戦へやってくる自殺志願者かと思えば、手品師の真似事か?」


 カルノが吠える。激昂ではない。その瞳は冷徹にかおるの動きを「吟味」しようとして──しかし、その網膜の裏で、あり得ない速度の焦燥が脈打っていた。

 アーマーの隙間から覗く太い首筋に、冷たい汗がどっと噴き出す。

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