第1話:『アライメントの崩壊』
※本作は「小説家になろう」「カクヨム」に重複投稿しています。(ユーザー名:秋嵩タクロウ)
「Fランクと廃棄された天才たち。俺だけが、この歪んだ“環境”を治療する」
この物語は、現実の世界における、「作業療法士」という資格をもつ、一人の人間が、チート能力=歪んだ社会システムへの激しい憤りの物語です。
世界が押し付ける理不尽な欺瞞に対し、主人公・神城馨が挑むのは、力まかせの破壊や剥き出しの闘争ではありません。
それは、他者が奪われた尊厳を、知性とプロの技術だけでゼロから再設計していく、泥臭くも圧倒的な【治療】の物語です。
既存のテンプレ作品の記号だけを踏襲しつつ、これまで物語の主役にはなり得なかった資格が紡ぐ、自分を貫き通すストーリーをお楽しいただけると幸いです。
──社会に激怒した。
狂っているのは俺じゃない。
この欠陥だらけの社会のほうだ。
男、神城馨は、その確信だけを胸に抱き続けていた。
*
煤けた蛍光灯が、無機質なステンレスの作業台を白く照らしている。
都市の死角、旧リハビリテーション病院の地下に急造された極秘ラボ。神城馨は、使い古された青いスクラブ(医療用ユニフォーム)の袖を捲り上げ、一冊の古い臨床ノートを凝視していた。
開かれた紙面には、複雑な数式と生体電気の波形、精度を極めたナノマシン工学の難解な文字列が、偏執的な密度で書き殴られている。
だが、その中に不自然に紛れ込んでいる、ドイツ語とオランダ語の単語があった。
──Heilung(治癒)
──Takt(拍子)
──Mireren(注視)
「症例名にしては……遊びがすぎるな、天堂先生」
馨は視線を上げず、指先で『Heilung』の文字をなぞった。作業療法士としての彼の経験が、その単語に奇妙な居心地の悪さを検知している。
「遊びじゃないさ、leergierig」
天堂創は、古ぼけた事務椅子に深く身体をもたれ、わざわざオランダ語を用いた字数の多い言葉で、馨の実直さを評しながら、淡々と続けた。
「ナノマシンの蔓延による、この狂った異能社会で、人間が『人間らしい状態』を取り戻すための、これはゴールだよ、神城くん。外を歩く大衆を見てごらん。脳内に響くシステムの数値に一喜一憂し、適合できない落伍者(無能力者)をゴミのように使い捨てる。あの街を包むドームも、中から湧き出る無生物の化物どもも、すべては歪んだ環境がもたらしたエラーだ。僕たちはそのアライメントを正さなきゃいけない。……おや、噂をすれば、だ」
──ビーー、ビーー、ビーー。
突如、無機質な電子警報が、ラボの防音壁を鋭く貫いた。
『侵入反応。レベル0個体。隔離層突破』
「来たか」
天堂は立ち上がらなかった。驚きも恐怖もない。まるで、この来訪すらも事前に計算し尽くしていた仕様書の通りだと言わんばかりに。
自動ドアが、外側からの物理的な圧力によって歪みながら強引にねじ開けられた。
油臭い生臭さと、鉄が擦れる不快な音が狭いラボに流れ込んでくる。
「おい、ここが噂の隠れ家か」
立ちはだかったのは、歪な巨躯だった。
男の皮膚には、ラボの周囲にいた大量のネズミの死骸や犬の肉、路地裏の有機物が、目に見えない磁力のような電気信号でブチブチと張り付き、悍ましい外骨格を形成している。
外界干渉系チート──通り名は【暴虐の肉殻】。カルノ・ネクロシス。
「この場所にはよぉ、美味い食糧や上等な嗜好品が眠ってるって聞いてきたんだ。無能力者の研究者どもが、分不相応なもん溜め込んでんじゃねえよ」
無法者が言い放ち、牙を剥いた。
「やぁやぁ、ラッテンフェンガーよ。ここは知識と経験の求道者の楽園。どうぞ用件は手短に」
天堂は、悠然たる態度を崩さず、寧ろ口元には笑みをたたえつつ、瞳は何かを期待するように輝きながら応対した。
隣で状況を理解することに必死な馨は、突然の脅威の来訪に対して普段と変わらぬ態度でつづける天堂に言葉を失っていた。
「あぁ?!すかした処方箋発行機が何言いやがる。一文字も出力できない間にスクラップにしてやろうか」
明らかに登場時よりも、昂ぶり始めた巨漢のバーバリアンに、天堂は尚も煽り続ける。
「あぁ、なんという無知蒙昧。人類の医学史を『私の登場以前と以後』に分断してしまった、希代の天才。この天堂創に悪辣な言葉を向けるなんて。君が神に祈る時間があるなら、私のナノマシンに祈った方が生存率は跳ね上がるよ」
「ちょっ、先生。そんな風に相手を──」
──その瞬間、ラボの空気が、痛いほどに張り詰めた。
徒競走の開始前、引き金に指をかけた号砲が鳴り響く直前の、あの極限の静寂。すでに狂気の塊となった肉弾が、天堂の言葉により、抑制の鎖を引きちぎる寸前のコンマ数秒。限界まで膨張し、限界まで圧縮された『破壊の象徴』が、馨の眼前にただ圧倒的な死の質量として、今、解き放たれようとしている。
普通なら、ここで恐怖する。
チート能力の洗礼を受けていない一般人であれば、間違いなく足はすくみ、喉はきつく絞まり、肺は呼吸の仕方を忘れてフリーズする。それが正常な生物の防衛本能だ。
だが、神城馨の視界は、別のノイズで塗りつぶされていた。
──白すぎる病室。
──シーツの上に投げ出された、ピクリとも動かない細い指。
──「もう、歩けません……」と、擦り切れた声で自らの挑戦を諦め、世界を切り捨てるように謝罪してきた、あの後輩の顔。
──歪んだ環境に圧殺され、ゴミのように使い捨てられた、壊れた夢。
【暴虐の肉殻】。カルノ・ネクロシスが放つ理不尽な暴力の気配に、馨の心臓の奥が、ドス黒い怒りの熱量で爆発しそうに跳ね上がった。恐怖など、その炎のなかに一瞬で蒸発して消えた。胃の奥からせり上がるのは、あの時と同じ、狂おしいほどの拒絶と変革の衝動だ。
(また、私の目の前で、システムに人間が使い捨てられるのをただ見ているだけか? ──否だ。狂っているのは、アイツじゃない。この壊れた世界のほうだ)
「先生、下がってください。……俺がこの歪みを正す」
穏やかだった馨の声音と言葉遣いから、協調のための体温が、急速に削ぎ落とされていく。
馨は床を蹴り、自ら無法者に向けて突進した。戦闘知識はない。だが、この異能社会で身を守る手段としてのシミュレーションと心構えにより、備えとして磨いていた。そして、身体機能・構造分析のプロとして、敵の突進の射線(軸)は完全に見えている。
「圧っ殺」
鎖から解き放たれ、津波のように押し寄せるカルノの強烈な右拳。それに対し、馨は臨床の傍ら、見識を高めるため磨き上げた太極拳の受け流し(化勁)を完璧なフォームで滑り込ませた。
だが──物理的な質量差が、人間の肉体の限界を遥かに超えていた。
「ぐっ……!?」
受け流すための摩擦の許容限界を突破し、自分の意志とは無関係に喉が音を鳴らしながら、馨の右腕の骨がミシミシと悲鳴をあげる。数百キロの有機質アーマーの重量が馨の体幹に直撃し、床へと猛烈に叩きつけた。激しい吐血。
「殴殺っ」
床を這う馨の頭上へ、間断なく、カルノがトドメの一撃を振り下ろす。
「神城くん!」
天堂が叫び、身を挺して馨の上へと覆い被さった。
ラボがきしむほどの凄惨な衝撃音。天堂の背中にカルノの容赦ない追撃が直撃し、白衣が一瞬で赤く染まる。天堂の口から血が溢れ、その身体から生気が急速に失われていく。
「せ……先生……! 天堂先生!」
「ハッ、無駄な抵抗しやがって。まぁいい、これでっ、この暴虐の肉殻っ、カルノ様が、心置きなく、無遠慮にっ、無慈悲に食事をいただくぜ」
カルノは、ピクリとも動かなくなった二人を「完全に無力化した」と判断し、背を向けた。そして、ラボの棚にある臨床用の実験薬品や、ケージの中の実験動物(有機物)を自らの能力で『ブチブチ』と音を立てて外骨格へと取り込み、さらに巨大化させる強化の最中へと入る。
敵が背を向けて貪り食う数秒の間。血の海の中で、天堂が馨の手を弱々しく握った。その手には、一本の青い注射器が握られていた。
「神城くん……これを、君自身の腕に……打ち込むんだ」
「先生、何を……」
「これは君が、君のなすべきこと(環境の再設計)を成すために必要な……僕たちの研究の正解(結晶)だ。……すまない、神城くん。君に、すべてを押し付けて……」
天堂の瞳から、完全に光が消えた。
馨は割れた唇を噛み締め、友であり目指す未来への伴走者であった者の遺志をその手に受け取った。
すべてを押し付けて──その言葉の真意を測る時間など、今の馨にはない。ただ、システムからご都合主義に与えられる力などいらない。
(これは、俺の意志だ)
馨はシリンジの針を、自らの前腕の静脈へと深く、迷いなく突き刺し、プランジャーを押し込んだ。
キィィィィン、という、耳の奥を劈くような高周波の駆動音。
異能世界に蔓延したチート能力の原因=体内に侵入せんとする外界のナノマシンを完全拒絶し、生体電気のすべてを自らの脳神経へ一極集中させる、アンチナノマシン因子の覚醒。
──プツ、と、世界の音が完全に消え去った。
飛び散る硝子破片も、大気中の埃も、すべてが透明な琥珀の中に閉じ込められたように、1ミリも動かない。
カルノ・ネクロシスの、さらなる巨大化を終えて馨を圧殺せんと振り返り、力強く左足を踏み込んできた巨躯までもが、その前傾姿勢のままピタリと空中で静止している。
完全なる無音。リアルタイム、0.0秒の静寂。
引き延ばされた『主観時間3分間』の静止世界の真ん中で、ただ1つの、冷徹な生存の合図が響いた。
──スゥ、と。深く、長く、馨が吐き出した、一筋の呼吸音。
次の瞬間、馨の意識だけを残して、静止していた世界の時間が、猛烈な加速度を伴って一気に解除(再始動)される。
その刹那、振り返り、拳を振り下ろそうとしたカルノの脳幹へ、かつて経験したことのない凄まじい「異物の誕生」の戦慄が駆け巡った。
生物としての全神経が、眼前の死に体だった男から発せられる謎の威圧感に対し、狂ったように最大級の危険信号を意趣返しする。その衝撃は、一瞬で、巨躯の毛穴を総立ちにさせていた。
だが、その本能の叫びにカルノが気づいたときには、神城馨の「動作分析」の眼は、すでに彼の致命的なアライメントの崩れ(死角)を完全に捉え終えていた。
馨の口元が、微かに歪んだ。
その瞳は、もう患者を見る作業療法士のものではない。
「──これより、“環境”の治療を開始する」




