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ダンジョン化した世界で、作業療法士の俺だけが“環境”を治療する  作者: 秋嵩タクロウ


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第6話:『笑顔のノイズ』<Ⅰ>

 裸の男がたっていた。


 旧リハビリテーション病院の、錆びついた診察室。

 朝の光のなかで、そいつはただ、静かにアライメントを整えている。


 漆黒の髪。

 そこから滴る汗が、切れ長の目元を濡らし、細い顎のラインを伝って滑り落ちていく。

 かおるから支給したネイビーのスクラブは、まだ椅子の背にかけられたままだ。


 つまり、上半身が完全に剥きだしだった。


「…………」


 私は手元の臨床ノートを開いたまま、ペンを止める。


 動作分析の観点から見れば、それはひとつの「正解」だった。

 

 大胸筋から三角筋への滑らかな繋がりと、広い肩幅。

 だがその動的な質量とは対照的に、覗く鎖骨は華奢で、うなじから細い腰へのラインには危ういほどの繊細さが同居している。


 硬質と軟質が朝の光に溶けあう美の結晶。

 前鋸筋ぜんきょきんが刻む陰影は、まるでギリシャの彫刻──。


(──って、いや、俺はなにを冷静に分析しているんだ)


「いい加減、服をきろ」

「はい?」


 ハイル──進藤蓮しんどうれんは、タオルで頭を拭きながら、どこまでも爽やかな笑顔で振り向いた。

 悪びれる様子は1ミリもない。


「すみません、先生。筋トレのあとの、このプロテインの吸収率をエビデンスベースで計算していたら、つい皮膚呼吸の快適さに意識がもっていかれてしまいまして」

「……脳筋の哲学者め」

「きこえてますよ、先生」


 ハイルは嬉しそうに白い歯をのぞかせると、シャープなVネックのスクラブを、ようやくその洗練された四肢へと滑り込ませた。


 布地が擦れる、わずかな音。

 軽妙なやり取りの余緯が消え、診察室にしんと心地よい静寂が戻ってくる。


 流れる空気は、どこまでも穏やかだった。


 世界から廃棄され、システムの死角で息を潜める2人。

 かつては張り詰めていたはずのその空間は、いつの間にか、互いに何も話さなくても深く落ち着ける「日常」の場所へと変わっていた。


 他者の介入を許さない、静かで、しかし確かな信頼の熱量。ただ同じ部屋に佇んでいるだけで、アライメントの整った肉体同士が静かに共鳴し、呼吸を合わせているような平穏がそこにはあった。


 ハイルの切れ長の瞳が、前を向いたままのかおるの横顔を、じっと見つめていた。


 最初から全力で自分と向き合い、壊れた肉体を泥の中から引き揚げてくれた男。

 すべてを値踏みするランク表示を否定し、治療を終えた今もなお、何かと不器用に気にかけてくれるこの先生に対し、ハイルは言葉にできない心からの感謝を、その静かな視線にそっと込めていた。


「ん?」


 視線に気づいたかおるが、怪訝そうに眉をひそめて振り返る。


「どうした。まだプロテインの栄養学について、言い足りないことでもあったか」

「──いえ」


 見つめ合う瞬間は、ほんの一刹那。


 ハイルはふっと、悪戯っぽく視線を斜め下へとそらした。

 この先生は、怪物のような知性と圧倒的な理合を持っている。


 それなのに、こちらの些細な視線には過剰に警戒するくせに、自分のスクラブのボタンが一つ掛け違っているような、おっちょこちょいな場面にはまったく気づかない。


(本当に……底が知れないのに、油断のならない先生だ)


 胸の奥で、その完璧なあるじのささやかな隙を愛おしそうにいじりながら、ハイルは再び、にこやかな笑顔をかおるへと向けた。


「先生、そろそろ農場の様子を見にいきましょうか。アブラナの脂質管理も、私の筋肉には重要なインフラですから」


「……そうだな。行くか」


 かおるは手元のノートをパタンと閉じ、立ち上がった。


 薄暗い病院の廊下を、ハイルと並んで歩いていく。

 外界のナノマシン信号を完全拒絶するかおるの眼には、大衆が怯える『適正ランク』のシステム画面など、最初から一文字も見えていない。


 彼が見ているのは、ただ目の前にある生身の骨格と、剥き出しの物理現実だけだ。


(狂っているのは、ここに運ばれてくる患者たちじゃない。彼らをゴミのようにパージする、この世界の構造のほうだ)


 タン、タン、タン、とリノリウムを叩く、小気味よい足音。


 隣を歩くハイルの足音には、1ミリの左右差もなかった。踵から親指の付け根へと滑らかに抜けていく、無駄のない重心移動。その歩行の完成度が、かおるの胸の奥で、ぼやけていた「次なる目的」を冷徹な確信へと結実させていく。


 かおるは前を向いたまま、冷徹に、自らに言い聞かせるように言葉を落とす。


「ハイル。人間を修理するな、戦場システム再設計リビルドせよ──だ」

「……リビルド、ですか」

「そうだ。ベッドの上で患者をいくら治療したところで、彼らを使い捨てる世界が変わらなければ何の意味もない。なら、この地下病棟から独自のインフラを構築し、環境ごと治療してやる」


 ハイルは一瞬、切れ長の瞳を丸くした。

 だが、すぐにその口元に、呆れたような、しかしどこまでも誇らしげな苦笑を浮かべる。


「──ふっ。本当に、先生らしいですね」

「……何がだ」

「いえ。世界を相手にリハビリを仕掛けようとする医療従事者なんて、きっと先生くらいだと思いまして」


 ハイルは嬉しそうに白い歯を覗かせると、先生の半歩先へ進み、非常口の錆びついた扉を力強く押し開けた。


 朝の陽光が、2人の視界を白く染め上げる。


 そこには、かつての荒地を2人でリビルドし始めた、青々とした農場が広がっていた。


 ◇◇◇


 非常口の扉の向こうに広がっていたのは、見違えるほどに整えられた青々とした農地だった。


 オーフェンが放った磁力の嵐によって、数週間前までは無惨に引き裂かれ、オイルと鉄の匂いが立ち込めていた廃病院の土壌。それが、馨の指示とハイルの強靭な肉体による突貫作業によって、見事なリビルドを遂げていた。


「みてください先生、美味しそうに実ってきていますよ」


 ハイルが瑞々しい葉をつけた作物を指差す。


 この世界の土壌はナノマシン残渣ざんさで通常の植物が育たない強アルカリ性に変性しているが、馨の臨床ノートに狂いはなかった。


 地下室の木製廃材から作った『バイオ炭』をすき込んで土壌を中和。さらに、強靭な生存能力を誇る『油菜アブラナ』に有害な重金属を効率よく吸い上げさせ、葉の液胞に隔離・回収ファイトレメディエーションさせていたのだ。


 可食部ではない茎葉に汚染を閉じ込めるため、収穫した種子から搾る『菜種油』だけは、有害物質を一切含まない貴重な食料となる。


「アブラナに有害物質を吸わせ、土を耕す。土壌が安定した中心エリアなら、ビタミン補給のためのホウレン草や、野生化していたジャガイモの蘇生まで医学的に成功したな」


「さすが先生です。アライメントを整えれば環境も必ず応えてくれるんですね」


 ハイルは感心したように頷きながら、畑の境界線に沿って植えられた、奇妙な赤紫色の花へと視線を向けた。


「それに、この花は……いいですね。先生には、こういう景観を愛でるようなガーデニングの趣味もあったなんて、少し意外でした」

「……ただの趣味に見えるか」


 かおるは冷徹な眼差しで、その赤紫色の花びらを見つめる。


 作業療法士の知見から言えば、花の鮮やかな色彩と固有の芳香は、脳の視床下部を刺激し、自律神経のバランスを劇的に整える効果がある。共同生活における精神的加療メンタルケアの一環だ。


 だが、かおるがこの植物をここに配置した本質的な意味は、別のところにあった。


「それ以外にも、インフラとしての意味があってな.……まあ、すぐに分かる」

「インフラ、ですか?」


 ハイルは不思議そうに首を傾げたが、深くは追及せず、収穫したばかりの豊かな作物を抱えて、にこやかに微笑んだ。


「では、今日の食事の準備に移りましょう」


 廃病院の一室、卓上IHコンロを囲んだささやかな夕食の席。


 皿の上には、手製アブラナ油でカリリと揚げられたホウレン草のサラダ、そしてホクホクと湯気を立てるジャガイモの塩茹でが、彩り豊かに並んでいる。

 ホウレン草を口に運んだ瞬間、ハイルの切れ長の瞳が突如、怪しく輝いた。


「先生、このホウレン草、素晴らしいですね! ビタミンCと鉄分の含有量が通常の3倍はありますよ。筋繊維の結合組織であるコラーゲン合成を爆発的に促進し、筋肥大の土台を完璧にビルドしてくれます。まさにエビデンスの塊です……!」

「……ホウレン草を食うだけでそこまで饒舌になるな。脳筋の極みめ」

「きこえてますよ、先生。ですが、栄養学の筋肉への走行アプローチを無視して──」


 楽しげにプロテインシェイカーに手を伸ばそうとした、ハイルの言葉が、止まった。


 カツリ、とプラスチックの容器がテーブルに当たる、不自然な音。


 ハイルの笑顔が固定されたまま、その右腕が、ほんの一刹那だけ奇妙な角度で硬直する。皮膚の奥で、上腕二頭筋の繊維がまるで自立した生き物のように細かく、不気味に痙攣けいれんしていた。

 ハイル自身すら気づかない、あるいは笑顔の裏に隠そうとした極小の肉体エラー。


 だが、かおるの冷徹な視診の網(動作分析)は、その微細なアライメントの崩れを完璧にハッキングしていた。


(──自食エラー(急性カタボリック))の萌芽。オーフェン戦を経て能力の出力が上がった代償だ。手動の糖質管理ゼリーだけでは、すでにこいつの代謝崩壊の速度を抑え込めなくなっている)


 かおるは箸を置き、その手の震えをハイルに悟らせないよう、冷徹に言葉を落とした。


「ハイル。そろそろ、本格的な資材が必要だな」

「え……? ああ、そうですね」


 ハイルは一瞬だけ自分の右腕を戸惑うように見つめ、すぐにいつもの爽やかな笑みで取り繕った。


「水源の自動確保。および、自動で肥料を散布するための配管機材。……それらの特殊インフラ資源をここへ導入しなければ、領地の拡張ビルドが、世界のシステムが牙を剥く速度に追いつかない」


 何より、ハイルの代謝崩壊という時間の壁を突破するための改善策が、この廃病院には決定的に足りていない。だが、かおるはその焦燥をプロの理性の裏へ隠し、ただの「内政の拡張」として淡々と告げた。


下層区域ローカル・セクターへ行くぞ」

「はい。先生の『環境治療』のためなら、喜んで」


 ハイルが不敵に笑う。その右腕の痙攣は、すでに消えていた。


 目指すは、まだ誰も全容を把握していない未知のドーム。莫大な無機質資源と人工生体AI兵器が蠢く暗黒へ、2人は歩みを合わせ、戦争のための探索を開始する──。




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