第5話:『治療完了』<Ⅶ>
凄惨な爆発音。
大気を引き裂く衝撃波が円形状に広がり、周囲の瓦礫をさらに四方へと吹き飛ばす。
猛烈に巻き上がった砂塵が、重い空気の残響とともにゆっくりと、劇的に晴れていく。
オーフェンの放った、放てば必滅のはずの最終決戦奥義は──空間の真ん中で、完全に相殺されていた。
そこにあったのは、オーフェンの拳を、生身の『右腕』だけでガチリと掴み取って立っている長身の影だった。
進藤蓮。
その足元のコンクリートプレートは、架かる力学の圧倒的な質量に耐えかねてベキベキに砕け散り、地中へと深く食い込んでいる。
ネイビーのVネックの襟元から覗く首筋が、怒りと静けさで激しく脈打っていた。
「……この人──先生を傷つけることは、絶対に許さない」
蓮の切れ長の目が、底知れない静けさを湛えてオーフェンを射抜いた。
「な、なんですか、あなたは……! 虫けらのように這いつくばるだけの、Fランクの落伍者が……ッ!?」
オーフェンは状況が理解できず、絶叫した。
だが、右腕が痛い。
尋常ではない、骨を圧迫しすり潰すような人間の域を超えた握力で締め上げられ、オーフェンは悲鳴を上げながら必死に腕を振り払い、バックステップで距離を取った。
静寂。
朝日のなかで涼やかな顔をして立つ蓮と、狼狽に冷や汗を流すオーフェン。
馨は激しく血を噴き出し、手の震えを抑えながら、掠れた声で問いかけた。
「蓮……か……」
馨の網膜が、逆光のなかに立つ青年の輪郭を冷徹に捉えていた。
そこには、昨日まで彼の心を暗く閉ざしていた自責の翳りなど、一片も残されていなかった。
まるで嵐が去った後に広がる、どこまでも高く、どこまでも静謐な、夜明けの青空そのものの佇まい。
世界の理不尽に磨り潰されかけていた生身の人間の尊厳が、今、馨の施したアライメント──治療によって完璧な調律を取り戻していた。
「──ありがとうございます、先生」
蓮は、その晴れ渡る青空のような穏やかな笑みを馨へと向けた。
「俺、もう一度、誰かを守りたい。あの日、全てに絶望して動かなくなった俺の腕を、先生は画面の数値なんて無視して、丸ごと抱きとめてくれたから。……この人のためなら、俺は自らの不具合さえも手懐けて、自分を許して生きられる。──今、俺の身体は、完璧に繋がっています」
心の中のトゲが引き算され、完全に切り替わった魂の意志。
それは、一介の作業療法士が泥臭く積み重ねてきた臨床プログラムが、今この瞬間に、ひとつの精神的『治癒』として完璧に完了したことの絶対的な証明だった。
蓮の脳裏に、数日前の夜、中央管理室で馨がカルテに静かに書き留めていたあのドイツ語の文字列が、鮮烈にフラッシュバックしていた。
──『Heilung』。
日常の徹底した栄養管理の最中、蓮がその目で確かに確認していた、馨がカルテに記したあの文字。
世界から廃棄された自分の存在を「治るべきもの」として定義してくれた、あの絶対的な治療プログラムの記録。
馨は口内の血を喀出し、折れた脇腹の激痛を調律しながら、低く問いかけた。
「大丈夫なのか、蓮」
「はい。たぶん、もう大丈夫です。──だから俺は、たった今から、ハイルです」
他者から与えられた評価ではなく、自らの生きる目的を医療の知見とともに再定義した進藤蓮。
その覚醒の産声が響いた、まさにその刹那だった。
オーフェンの網膜の端で、システムUIが鼓膜を激しく引き裂くような、悍ましい警告音を明滅させた。
一度は死んだはずの画面の走査線が猛烈にバグを起こし、かつて世界が彼に刻んだ本名(記号)のデータを、その最奥から強硬に上書きしていく。
──『対象:進藤蓮』から──『対象:ハイル』へ。
──『対象:ハイル。ランク書き換え。ランク:A』
「ランクA……!? バカな、返り咲いただと……!? 壊れた落伍者のはずが、なぜ世界の評価をハッキングしている……ッ!?」
オーフェンが絶望と驚愕に顔を歪める中、ハイルの筋肉が解剖学的に完璧な走行に沿って、爆発的なフィジカルの飛躍を遂げる。
衣服を強引に引き裂いていたあの醜悪なバルクアップの暴走は、そこには存在しなかった。
ハイルの全身の筋組織が、まるで最高峰の精密機械が静かに噛み合うように、流麗に、そしてしなやかな力強さを湛えて再構成されていく。
皮膚の下を奔る筋腹の一本一歩が、骨格アライメントに寸分の狂いもなくガチリと接着され、常人の枠を遥かに置き去りにした超生体フィジカルへと純化されていく。
これこそが、機能の破綻を克服した真の前衛──『進藤蓮』の肉体。
「ランクA……ランクA……ばかなぁっ! そんなことがあってたまるかぁぁぁ!!」
オーフェンは血走った双眸を見開き、自身のプライドを全否定された恐怖に、完全に自我のブレーキを失って取り乱した。
後先も、己の器の限界も、もはや関係ない。
「──イク・ザウゲンッ!!!」
臨界覚醒の果て、すでに熱で焼き切れかけたナノマシンコードの悲鳴を無視し、狂乱のままに再加速する真紅の真空。
だが──その突進には、馨の放った『指地捶』のダメージと、致命的な酸欠エラーの爪痕が重く引き算されていた。最大出力の真価はとうに損なわれ、その直線軌道は、今のハイルの眼には酷く緩慢な線として止まって見えていた。
ハイルは、冷徹にその突進を迎え撃つ。
インパクトの最大モーメントが交錯する瞬間、ハイルはオーフェンが放つ重い衝撃をいなし、合気の『当身投げ』の理合を、完璧なフォームで相手の懐へ滑り込ませる。
長身の身体が一回転するほどの遠心力に変換され、オーフェンの推進力は地面(地球の質量)へと強制制動された。
「あ、が……ッ!?」
逆さになった視界のなか、オーフェンは地面へ猛烈に叩きつけられていた。
重力加速度に抗うこともできず、完全に骨格の動きをロックされ、フリーズした真紅の肉体。
衝撃で見開いたオーフェンの双眸へ、冷徹な視線を向けるハイル。
ハイルは体幹を深く回旋させ、右腕を限界まで引き絞った。
その拳は、小指から一本ずつ丁寧に握り込まれ、解剖学的に最も純化された最大級の攻撃手段へと構築されていく。
「スゥ」
世界のすべてが引き算されたかのような、あまりにも静謐な、一呼吸の間。
(──!? まっ──)
「待ってくれ」という命乞いの声をあげる暇すら、世界の時間軸からは与えられない。
いや、目の前に立つハイルの夜明けの青空のごとき瞳に宿る、絶対的な『治療──執行』の意思を視認した瞬間、オーフェンは恐怖のままに魂を氷結させていた。
ハイルはその全アライメントを解放し、極大の一撃を容赦なく打ち込んだ。
ズドォォォォン!!
骨格駆動の破壊力がアーマーを木端微塵に粉砕し、オーフェンは白目を剥いて床へと無残に崩落した。気絶。──治療完了。
*
数時間後。気絶したオーフェンを近くのギルドへ適当な理由で引き渡した二人は、引き摺るような足取りでどうにか地下施設へ帰還した。
戦闘直後、両者を襲った能力開放による代償は、馨は泥に汚れたポケットから「試作1号ゼリー」により致命傷を回避していた。
地下の一角、静まり返ったリハビリテーション室。
馨は満身創痍の身体でパイプ椅子に腰掛け、プラットホームに座るハイルのバイタルを、いつもの道具を用いて静かに測定していた。カフの排気音が夜の静寂に溶けていく。
一通りの数値を臨床ノートへ書き留め、馨はバインダーを静かに閉じた。
通り抜ける微かな地下の風が、二人の前髪を穏やかに揺らす。
「……よくやったな、ハイル」
馨は血の引いた口元に、作業療法士としてのささやかな、しかし確かな賞賛の笑みを浮かべた。
「私が施したのは、あくまで感覚のバイパスという環境調整に過ぎない。他人の言葉ではなく、自らの人生の目的を己の意志で克服してみせたのは、おまえ自身の臨床成果だ」
「──ありがとうございます、先生」
ハイルは、目元にかかる黒髪の奥から、嵐の去った夜明けの青空のような、どこまでも穏やかな笑みを馨へと返した。
「俺の腕を、丸ごと抱きとめてくれた、あなたがいたから。先生が肯定してくれたから、俺はもう一度、誰かの盾になるために立てたんです」
二人の長身の影がコンクリートの壁に静かに並び、言葉のない、しかしガチリと噛み合ったプロと患者の絆が空間を満たしていく。
馨は手元の臨床ノートの頭に記されたドイツ語を見つめ、ふっと肩の力を抜いた。
「しかし。ハイルとは、いささか、くさくないか」
唐突な、新たなネーミングへのツッコミ。
ハイルは一瞬目を丸くし、それから彼らしい物静かで丁寧な物腰のまま、悪戯っぽく微笑んだ。
「いいじゃないですか。先生が俺のカルテに最初に書いた、特別な手順の名前なんですから。これからは、この名前で先生の背中を守りますよ」
馨は心底やれやれと独白を噛み殺し、しかし微かに目を細めた。
久しく一人きりでインフラを開墾してきた廃病院は、共同生活としての新たな場として確立していた。
その、二人の穏やかな沈黙の最中だった。
パチ、パチ、と壁を隔てた別室のメイン端末が、誰の手も借りずに、不気味な青白いバックライトを灯して自動起動した。
病院のアクセス権限がないことで強固に制限がかかっていたはずの画面の最暗部から、システムの死角を突くような冷徹な文字列のログが、一本の背骨のように立ち上がっていく。
『──被験者H、治療完了を検知』
『環境治療プログラミング(リヒルト) 第2フェーズへ移行』
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
ここまでが、一つの物語の第一到達点。
作品の核の提示となります。
作者である私と貴方が紡いだこの一つの結末。
貴方が感じているものが、私にとって、ここまで積み上げてきたものがちゃんと機能しているかの確認となります。
主人公・神城馨が挑むのは、力まかせの破壊や剥き出しの闘争ではなく、他者が奪われた尊厳を、知性とプロの技術だけでゼロから再設計していく、泥臭くも圧倒的な【治療】の物語です。
社会に圧殺されかけた青年が、自らの名前を塗り替え、夜明けの青空のような笑顔を取り戻した第5話。
彼らの「環境治療」は、まだ始まったばかりです。
もし、この冷徹で熱い治療者たちの軌跡があなたの胸に少しでも届いたなら、ほんのささやかな応援として、ブックマークや評価をいただけますと、これからの執筆の何よりの励みになります。
しがない一介の作業療法士と、新生した前衛ハイルの行く末を、これからも静かに注視していただければ幸いです。
また次の治療時間(お話)でお会いしましょう。




