第5話:『治療完了』<Ⅵ>
──因子の最大全開放。
キィィィィン、と耳の奥を劈く高周波のなか、リアルタイム0.0秒の加速世界(主観時間3分)が強制起動する。
──【因子:20%開放】。
脳神経の超高速発火が、非戦闘員の肉体に常人の極限を超えた駆動速度を強引に与える。
馨は迫り来るオーフェンのストレートを、相打ちを完全に辞さないベクトルで迎え撃った。
ガガァァァン!!!
オーフェンの拳が馨の肩を深く抉ると同時に、馨の掌が伝統楊式の理合に沿ってオーフェンの胸郭へと突き刺さる。
「が、はっ……!?」
「ごほっ……!」
馨、オーフェン、双方が同時に大量の血を床へ喀出した。網膜を血に染め、オーフェンが絶叫に近い驚愕に顔を歪める。
(バカなっ!? この局面で、これまでで最も早いカウンターだと……!?)
だが、真紅の簒奪者は倒れない。椅子の剥奪に怯える狂気的な執念が、オーフェンの肉体を無理やり繋ぎ止めていた。
「墜ちろォォォッ!!」
オーフェンが、残された力学のすべてを乗せて左のボディブローを馨の腹部へと繰り出す。
──【因子:50%開放】。
馨の脳幹の最深部で、激しい高熱とエラーが火花を散らした。
視界の端が急激にセピア色に染まる。
それでも、一介の作業療法士の眼は死んでいなかった。
迫り来る左の拳を数ミリのバッファでいなし、馨はさらに深く一歩を踏み込み、オーフェンの胸郭へ向けて再び強烈な打撃を突き立てた。
ズドォッ!!!
(こいつ……私の、呼吸器官を──!)
ただでさえダウンバーストの負圧で拡張運動がフリーズしかけていた胸郭へ、解剖学的に最も脆いアライメントを狙って正確に打ち込まれる連続の打撃。
オーフェンの独白に初めて、本物の「窒息の恐怖」が宿る。
だが、馨の全身全霊の覚悟を受け、真紅の異形もまた、己の肉体の限界領域を超えて狂い立った。
呼吸を物理的に解体されながらも、オーフェンの瞳が血走る。
残存するナノマシンコードの極性を強制的に反転させ、これまでで最も鋭く、最も凶悪な、放てば必滅の最終決戦奥義を馨の頭部へと振り下ろした。
馨の網膜に、回避不可能な速度のトゲが、一歩ずつ迫る死の質量として拡大していく。
自らの器が完全に壊れる臨界点を、馨の固有感覚が冷徹に逆算した。
(──90……91%……!)
オーフェンの破壊の一撃。
その拳の切っ先が、極限まで引き延ばされたコンマ数秒の時間軸(極小の世界)のなかで、酷く緩慢に、しかし確実に肉薄してくるのを知覚する。
「うごけ……! 動け、動け、動け!! 今、動かずに、いつ動くんだ……!」
馨は低血糖症でガクガクと震える自らのフィジカルを強迫的に鼓舞し、陸上スプリンターのごとき低空前傾姿勢で床を蹴った。
刹那の見切り。
一息の呼吸、その一瞬の凪の隙間に、馨は頭上から振り下ろされた真紅の破壊の暴風を紙一重で交わし、潜り込む。
──ズバァァン!!!
派手な風切り音と衝撃波を撒き散らしながら放たれたオーフェンの右ストレートは、馨のネイビーのハイネックを数ミリかすめ、完全に虚空を打った。
すれ違う、その絶対的な一瞬。
世界のすべての音が引き算され、完全なる静寂が空間を支配した。
潜り込んだ馨の漆黒の双眸と、突き抜けたオーフェンの血走った双眸。
ただ互いの「目」だけが、網膜の至近距離でまっすぐに交錯し、捉え合う。
言い訳も、数値も、欺瞞も挟まない、剥き出しの命の視線の同期。
次の瞬間、無音の世界が凄絶に爆発した。
「──因子、100パーセント開放ッ!!」
馨の脳幹が焼けた。
もう戻れないと、本能が理解した。
「うぉぉぉぉぉぉぉッ!!!」
一介の非戦闘員、冷徹な評価者としての仮面を完全にかなぐり捨てた、肺腑から絞り出すような迫力のある唸り声。
馨は地を這う姿勢のまま、ガラ空きになったオーフェンの左脇腹を見据え、足裏から地球の質量を一線で繋いだ。
伝統楊式太極拳、牙を剥く低空寸勁──『栽捶』。
相打ちなど疾うに承知の上。
自らの器を完璧に破壊し尽くす因子の全出力を拳へと乗せ、馨はオーフェンの肉の檻へ向けて、文字通りその命を植え付けるように極大の衝撃波を突き立てようとした。
死の衝撃が肉薄するその瞬間。
オーフェンの網膜の裏で、暗転した過去が鮮烈にフラッシュバックした。
──『お前は才能がない』
──『いくら努力しても、お前はただのCランクだ』
(また、あの泥濘に戻るというのか。誰からも顧みられず、冷遇され、存在を否定されるあの惨めな敗残者の日々に──)
「否ァァァァァァァッ!!!」
魂の底からの咆哮。
極限の恐怖とプライドの爆発が、オーフェンのシステムコードを内側から強引に書き換えた。チート能力の更なる上書き──異能の『臨界覚醒』。
磁力牽引による超高速移動の力学を真っ向から冒涜する、加速からの急制動を完全に無視した【多重超次制動および瞬間再加速】。
脳内システムすら想定していない、埒外の超反応。バギギギ、と真紅のフィンが空力を引き裂いて火花を散らし、オーフェンは人間の反射速度の限界を超えて、馨が放った『栽捶』の極大衝撃波をわずか数ミリのバッファで完全回避してみせた。
限界を突破した馨の、さらにその先へと到達した簒奪者の執念と意地。
オーフェンの喉から絞り出されたのは、獣の絶叫にも似た、掠れた狂気の咆哮。
熱疲労でナノマシンの伝達コードが焼き切れ、皮膚の隙間から細い血煙を噴き上げながらも、男は今度こそ全ての因果を圧殺するための決着の一撃を振り下ろした。
周囲の空気を吸い尽くして窒息の真空を纏った、真紅の拳。
落胆する暇すら残されていない。
馨の網膜のなかに、漆黒の夜を裂くようにして真紅の暴力が狂暴に拡大していく。
ただ一瞬、死の質量を前にして馨が短く息を呑む──そのコンマ数秒の、無音の凪。
──バゴォォォォン!!!




