無言の跳躍8
無言の跳躍・観測継承編
天文台の外で世界が軋んでいた
空は避け、海は空へ流れ、遠くでは別の都市が蜃気楼のように重なっている
東京の上に浮かぶローマ
砂漠の中に現れる新宿駅
空中で静止した戦闘機
歴史の境界が壊れ始めていた
玲奈は白い光を見つめる
少女の掌で鼓動する小さな核
それは直人の残響
そして次の観測者を生む種
「これを受け取ったらどうなるの」
少女は静かに答える
「時間に触れ続ける、人間ではいられなくなるかもしれない」
玲奈は苦笑した
「ずるいよ直人、最後まで選ぶ役を他人に押し付けるんだから」
少女が微かに目を伏せる
その仕草がまた直人に似ていた
玲奈には分かっていた
直人は押し付けたのではない
最後まで人類の自由を残そうとしていた
観測者になれば世界を維持する側へ傾く
だから彼は自分では決められなかった
天文台が激しく揺れる
外で巨大球体が降下を始めていた
別世界の観測機関
それが地球へ接触すれば世界線衝突が起きる
少女が苦しそうに言う
「もう…保たない」
玲奈は目を閉じた
恐怖はあった
消えてしまうかもしれない
直人みたいに人から遠ざかるかもしれない
でも、誰かがやらなければ
玲奈はゆっくりと白い光へ手を伸ばした
触れた瞬間、世界が反転した
玲奈は無数の時間の中に落ちていく
いや、膨大な歴史の中に流れていた
生まれては消える文明
数兆の人生
その全てが一本の巨大な河になっている
玲奈の意識はその流れに飲み込まれていく
「…っ!」
痛い、頭が裂ける、知らない感情が流れ込む
喜び
絶望
愛情
憎悪
人類史全ての感情
その中心で声がした
「玲奈」
直人だった
玲奈は必死に顔を上げる
暗い宇宙
そこに直人が浮かんでいた
以前より輪郭が薄い、星の残光みたいに
「直人!」
直人は静かに笑った
「来ると思ってた」
「馬鹿…!」
玲奈は涙を流す
「なんでいつも一人で抱え込むの」
直人は少し困った顔をした
「その方が楽だった」
「全然楽そうじゃなかった!」
遠くで銀河のように時間が流れている
直人はその光景を見つめたまま言った
「観測者になると人類全部が見える、だから怖くなる」
玲奈は息を呑む
「滅びる未来も、狂う未来も全部見える」
直人の声か静かだった
「守りたくなるんだ」
玲奈はようやく理解した
九条も、歴代の観測者も最初から支配したかったわけじゃない
見えすぎてしまったのだ、人類の脆さを
だから固定した、だから檻を作った
直人は玲奈を見る
「でもお前は違う、お前は人間を信じてる」
玲奈は首を振る
「違うよ、私だって怖い」
世界が滅ぶかもしれない
自由の果てに全部壊れるかもしれない
でも
玲奈は直人へ手を伸ばした
「それでも自分たちで選びたい」
直人の瞳の中の時計がゆっくり止まる
彼は小さく笑った
「ああ」
その瞬間、無数の時間が玲奈へ接続される
直人の身体が光へと変わり始めた
玲奈は叫ぶ
「待って!」
「大丈夫だ」
直人の声が遠ざかる
「観測者は消えない」
「でもあなたが!」
直人は最後に少しだけ昔みたいな顔をした
任務前に見せる、あの静かな表情
「今度は一人じゃない」
そして直人は光の河に溶けた
玲奈は目を開ける
天文台、崩壊寸前の世界
だが彼女は見えていた
無数の歴史線
世界同士の境界
そして、崩落を止める方法
玲奈の瞳の奥で淡い時計盤が回転する
少女が呆然と玲奈を見ていた
「成功した」
玲奈はゆっくりと立ち上がる
空では巨大球体が降下している
別歴史の観測者
玲奈はそれを見上げる
すると世界が静止した
雨粒が止まる
風が止む
海の波が空中で固まる
観測領域
玲奈は自分の手を見た、半透明になりかけていた
人間と観測者の狭間、それでも彼女は微笑んだ
「直人」
誰もいない空へ呟く
「少しだけ借りるから」
玲奈は空へ手を伸ばした
巨大球体が静かに停止した




