第5章:虚像の檻と真実の光
第5章:虚像の檻と真実の光
一
エーテル社本社ビルの地下研究施設は、地上の華やかなパーティー会場とは対照的に、冷たく無機質な空間だった。
蓮と結月は、半壊したエレベーターから這い出し、薄暗い廊下を慎重に進んでいた。
壁面には無数のパイプやケーブルが這い、一定の間隔で設置された赤い非常灯が、二人の影を不気味に揺らしている。
「……静かですね」
結月が小声で囁く。
先ほどの御堂との戦闘の余波で、地下の警備システムは一時的にダウンしているようだった。しかし、油断はできない。
「ああ。だが、嫌な臭いがする」
蓮は鼻を覆った。
消毒液の臭いに混じって、微かに血と焦げた肉の臭いが漂っている。
二人は廊下の突き当たりにある重厚な金属製の扉の前に立った。
扉の横には電子ロックのパネルがあるが、結月が「氷結」で回路をショートさせると、あっさりと開いた。
扉の向こうに広がっていたのは、巨大な実験室だった。
「これは……」
結月が息を呑む。
部屋の中央には、港区の廃工場で見たのと同じような巨大なカプセルが何十基も並んでいた。
そして、そのカプセルの中には、誘拐された若者たちが眠らされている。彼らの頭部には無数の電極が取り付けられ、そこから伸びたケーブルが、部屋の奥にある巨大なサーバーへと繋がっていた。
「……生きたまま、式を抽出されている」
蓮はギリッと歯を食いしばった。
サーバーのモニターには、複雑な「式」のデータが滝のように流れている。そして、その横には、完成したばかりと思われる「魔法具」がずらりと並べられていた。
「人間の脳を、魔法具のバッテリー代わりにしているんですね……」
結月の声が震えていた。
感情の喪失という代償を背負っている彼女でさえ、このおぞましい光景には嫌悪感を隠せないようだった。
「……助け出すぞ。全員」
蓮がカプセルに近づこうとした時、背後から拍手の音が響いた。
「素晴らしい。ここまで辿り着くとは、さすが対魔局の精鋭だ」
振り返ると、そこには黒いコートを着た男が立っていた。
黒崎ジン。
「ジン……!」
蓮は即座に身構えた。
結月も冷気を纏い、戦闘態勢に入る。
「御堂がやられたと聞いて、様子を見に来てみれば……。お前たち、まだ生きていたのか」
ジンは薄く笑いながら、ゆっくりと二人に近づいてくる。
その周囲の空間は、以前よりもさらに強く歪んでいた。
「お前の計画は終わりだ、ジン。この施設は対魔局が制圧する」
蓮が言うと、ジンは鼻で笑った。
「制圧? 誰が? お前たち二人でか?」
ジンが指を鳴らすと、実験室の奥から、黒ずくめの男たちが次々と現れた。その数は二十人以上。全員が、エーテル社製の強力な魔法具を装備している。
「……罠か」
蓮は舌打ちをした。
「罠ではない。お前たちが勝手に飛び込んできただけだ」
ジンは冷酷に言い放つ。
「さて、雨宮蓮。お前の『残響』、そして柊結月の『絶対零度』。どちらも私の計画には有用なサンプルだ。ここで大人しく捕まるなら、命だけは助けてやろう」
「ふざけるな!」
蓮はジンに向かって駆け出した。
「『残響』――雷撃!」
蓮の手から放たれた青白い電流が、ジンに向かって一直線に伸びる。
しかし、ジンは一歩も動かず、ただ手をかざしただけだった。
「『空間歪曲』」
雷撃はジンの目の前で不自然に曲がり、壁に激突して消滅した。
「無駄だと言ったはずだ。お前の魔法は、私には届かない」
ジンが手を振ると、蓮の身体が見えない力で吹き飛ばされた。
「がはっ……!」
蓮はカプセルの一つに激突し、床に崩れ落ちた。
「雨宮隊員!」
結月がジンに向かって氷の刃を放つが、それも空間の歪みに飲み込まれてしまう。
「お前たちの相手は、彼らがしてくれる」
ジンが顎でしゃくると、黒ずくめの男たちが一斉に蓮と結月に襲いかかってきた。
「ちっ……!」
蓮は立ち上がり、男たちの魔法具から放たれる炎や風の攻撃をかわしながら、反撃の機会を窺う。
しかし、敵の数が多すぎる。結月も氷の壁で防御に徹しているが、徐々に追い詰められていく。
(……このままじゃ、ジリ貧だ)
蓮は焦燥感を募らせた。
先ほどの「全式解放」の反動で、身体は鉛のように重い。頭痛も酷く、思考がまとまらない。
その時、蓮の通信機から、ノイズ混じりの声が聞こえた。
『……くん! 蓮くん! 聞こえる!?』
舞の声だった。
「舞! 無事か!?」
蓮が叫ぶと、通信の向こうから激しい爆発音と悲鳴が聞こえてきた。
『会場に……ノクスの連中がいっぱい来て……! 私、今、屋上に逃げてるんだけど……!』
「屋上だと!?」
『うん……! でも、追いつかれそうで……!』
舞の声は、恐怖で震えていた。
「くそっ……!」
蓮は通信機を握りしめた。
地下にはジンと多数の敵。そして、屋上には舞が孤立している。
「柊! ここは俺が引き受ける! お前は屋上に行って、舞を助けろ!」
蓮が叫ぶと、結月は驚いたように目を見開いた。
「何を言っているんですか! あなた一人で、この数を相手にするなんて不可能です!」
「俺ならやれる! いいから行け!」
蓮は結月を庇うように前に出た。
「……ダメです! 私はあなたを置いていきません!」
結月は頑なに拒否する。
「命令だ、柊! 舞を死なせる気か!」
蓮の強い言葉に、結月は唇を噛み締めた。
「……必ず、生きて戻ってくださいよ」
結月はそう言い残すと、氷の壁を爆発させて敵の目を眩まし、その隙に実験室の出口へと駆け出した。
「逃がすか!」
男の一人が結月を追おうとするが、蓮がその前に立ち塞がった。
「お前らの相手は、俺だ」
蓮は両手に炎と雷の式を集中させ、男たちを睨みつけた。
「……愚かな。自ら死を選ぶとはな」
ジンが冷たく笑う。
「俺は死なない。お前を倒すまではな」
蓮の瞳に、再び暗い炎が宿った。
二
一方、エーテル社本社ビルの屋上。
雨は上がっていたが、冷たい風が吹き荒れていた。
舞は、屋上のヘリポートの陰に身を隠し、震える手でスマートフォンを握りしめていた。
「……どうしよう……どうしよう……」
舞の頬を、涙が伝い落ちる。
パーティー会場での陽動は成功した。しかし、その直後、ノクスの戦闘員たちが会場になだれ込んできたのだ。
舞は自身の「幻影」を使ってなんとか逃げ延びたが、追っ手は執拗に彼女を追いかけてきた。
「いたぞ! あそこだ!」
屋上の扉が蹴破られ、数人の男たちが現れた。
「ひぃっ……!」
舞は悲鳴を上げ、後ずさった。
「大人しくしろ、小娘。お前の『幻影』の適性、ジン様が高く評価している」
男の一人が、下卑た笑みを浮かべながら近づいてくる。
「……こ、来ないで!」
舞は両手を前に突き出し、「幻影」を発動した。
彼女の周囲に、無数の光の蝶が舞い上がり、男たちの視界を遮る。
「ちっ、目障りな!」
男が炎の魔法を放ち、光の蝶を焼き払う。
舞の「幻影」は、物理的な攻撃力を持たない。相手が力任せに攻撃してくれば、防ぐ術はないのだ。
「きゃあっ!」
炎の熱風に煽られ、舞は尻餅をついた。
「終わりだ」
男が舞の髪を掴み上げようと手を伸ばした、その時。
「『氷結』――氷槍!」
冷たい声と共に、鋭い氷の槍が男の腕を貫いた。
「ぎゃあっ!」
男が悲鳴を上げて後ずさる。
「……結月ちゃん!」
舞が顔を上げると、そこには息を切らした結月が立っていた。
彼女のドレスは所々破れ、肌には擦り傷があったが、その瞳は鋭く敵を見据えていた。
「遅くなって、すみません」
結月は舞の前に立ち塞がり、冷気を纏った。
「対魔局の女か! ええい、やっちまえ!」
残りの男たちが、一斉に結月に襲いかかる。
「『絶対零度』は使えませんが……これくらいなら!」
結月は両手を地面につき、屋上の床一面を凍結させた。
男たちは足を滑らせ、次々と転倒する。
「今です、舞さん! 私の背中に!」
結月が叫ぶと、舞は慌てて立ち上がり、結月の背中にしがみついた。
「結月ちゃん、蓮くんは!?」
「……彼は、地下でジンと戦っています」
結月の言葉に、舞は息を呑んだ。
「そんな……! 蓮くん一人で!?」
「彼を信じましょう。私たちは、ここを切り抜けるのが先決です」
結月は氷の刃を作り出し、立ち上がろうとする男たちを牽制する。
しかし、敵は次々と屋上に現れ、その数は十人を超えていた。
「……キリがありませんね」
結月が舌打ちをする。
彼女の魔力も、限界に近づいていた。
「結月ちゃん……私に、何かできることはない!?」
舞が必死に尋ねる。
「あなたの『幻影』で、彼らの視覚を奪うことはできますか? その隙に、エレベーターホールまで突破します」
「……やってみる!」
舞は目を閉じ、意識を集中させた。
(……怖い。でも、蓮くんも結月ちゃんも、命懸けで戦ってるんだ……!)
舞は、自身の代償である「自己認識の喪失」の恐怖を押し殺し、限界まで魔力を引き出した。
「『幻影』――千鏡の迷宮!」
舞が叫んだ瞬間、屋上の空間が歪み、無数の鏡のような幻影が出現した。
男たちの姿が、鏡に乱反射し、どれが本物でどれが幻なのか、全く区別がつかなくなる。
「なっ……なんだこれは!?」
「おい、どこを撃てばいいんだ!」
男たちが混乱し、同士討ちを始める。
「凄いです、舞さん! 行きましょう!」
結月は舞の手を引き、混乱する敵の間を縫ってエレベーターホールへと駆け出した。
しかし、その時。
「……小賢しい真似を」
空から、冷酷な声が降ってきた。
結月と舞が見上げると、そこには、ヘリコプターから降り立つ一人の男の姿があった。
「……御堂!」
結月が驚愕の声を上げる。
地下で蓮の「全式解放」に巻き込まれ、重傷を負っていたはずの御堂が、なぜここにいるのか。
「驚いたか? 私の身体は、すでに半分が魔法具でできている。多少の傷なら、すぐに修復できるのだよ」
御堂は、金属のパーツが剥き出しになった右腕を見せびらかすように笑った。
「さて、お前たちには、私の新しい実験のモルモットになってもらおう」
御堂が右腕を向けると、そこから高出力の魔力砲が放たれた。
「きゃあっ!」
結月は咄嗟に氷の壁を展開するが、魔力砲の威力は凄まじく、氷壁ごと吹き飛ばされた。
「結月ちゃん!」
舞が結月に駆け寄る。
結月は床に倒れ、苦しそうに咳き込んでいた。
「……逃げて……舞さん……」
「嫌だ! 私、もう誰も置いていかない!」
舞は結月を庇うように前に立ち、御堂を睨みつけた。
「ほう……その目、良いデータが取れそうだ」
御堂が再び右腕を向けた、その時。
「……舞に手を出すな」
地を這うような、低い声が響いた。
屋上の扉が吹き飛び、そこから一人の男が現れた。
全身傷だらけで、黒いコートはボロボロに引き裂かれている。しかし、その瞳には、決して消えることのない暗い炎が宿っていた。
「蓮くん!」
舞が叫ぶ。
「……雨宮隊員……」
結月が安堵の息を吐く。
「……ジンはどうした?」
御堂が顔をしかめる。
「……あいつは、逃げたよ。またな」
蓮は血を吐き捨てながら、ゆっくりと御堂に近づいていく。
「だが、お前はここで終わりだ」
蓮の身体から、再びあの「赤黒い光」が溢れ出し始めた。
三
「……バカな。地下であれだけの魔力を消費しておきながら、まだ動けるというのか?」
御堂が後ずさる。
蓮の身体から放たれる赤黒い光は、先ほどの「全式解放」の時よりもさらに濃く、禍々しいものになっていた。
「俺の『残響』は……記憶を喰って強くなる」
蓮は、虚ろな目で御堂を見据えた。
彼の頭の中は、すでに空っぽに近かった。
自分がなぜここにいるのか。なぜ戦っているのか。
それすらも曖昧になりつつある中で、ただ一つ、「目の前の敵を殺す」という破壊衝動だけが、彼を突き動かしていた。
「……化け物め」
御堂が右腕の魔力砲を構える。
「死ね!」
高出力の魔力砲が、蓮に向かって放たれる。
しかし、蓮は避けることすらしなかった。
「『残響』――魔力捕食」
蓮が手を前に突き出すと、赤黒い光が渦を巻き、御堂の魔力砲を文字通り「喰らい尽くした」。
「なっ……私の魔力を、吸収しただと!?」
御堂が驚愕に目を見開く。
「……ごちそうさま」
蓮は不気味に笑い、御堂に向かって跳躍した。
「ぐあっ!」
蓮の拳が、御堂の顔面にめり込む。
御堂は吹き飛ばされ、ヘリポートのフェンスに激突した。
「……この……!」
御堂は右腕の魔法具を起動し、至近距離から炎の刃を放とうとする。
しかし、蓮はそれよりも早く、御堂の右腕を掴み上げた。
「お前の式……もらった」
蓮の瞳が、赤く光る。
「や、やめろ……! 私の脳から、式を……!」
御堂が悲鳴を上げるが、蓮は容赦なく「残響」を発動した。
御堂の脳内に刻まれた「解析」の式が、強引に引き剥がされ、蓮の脳へと流れ込んでいく。
「ぎゃあああああっ!」
御堂は白目を剥き、口から泡を吹いて痙攣し始めた。
「……蓮くん、もうやめて!」
舞が悲鳴のような声を上げる。
蓮は御堂を床に投げ捨て、ゆっくりと舞の方を振り返った。
その瞳には、理性の光は全く残っていなかった。
「……お前は……誰だ?」
蓮が、虚ろな声で尋ねる。
「え……?」
舞は息を呑んだ。
「蓮くん……私だよ。舞だよ。分からないの……?」
「……まい……? 知らないな。お前も、敵か?」
蓮が、舞に向かってゆっくりと歩み寄ってくる。
その手には、赤黒い炎が灯っていた。
「雨宮隊員! 正気に戻ってください!」
結月が叫ぶが、蓮は止まらない。
「……敵は、殺す」
蓮が舞に向かって炎を放とうとした、その時。
舞は逃げなかった。
彼女は、炎に向かって真っ直ぐに飛び込み、蓮の胸に強く抱きついた。
「……!」
蓮の動きが、ピタリと止まる。
「蓮くん……思い出して。私だよ。一緒に動画撮ったでしょ? 一緒に笑ったでしょ?」
舞は、蓮の胸で泣きじゃくりながら訴えた。
「私の代償は、自己認識の喪失。自分が誰か分からなくなるのが、すごく怖かった。でも、蓮くんが『お前はお前だ』って言ってくれたから、私は私でいられたの」
舞の涙が、蓮のボロボロのコートを濡らす。
「だから、今度は私が言うよ。蓮くんは、蓮くんだよ。復讐鬼なんかじゃない。私を、結月ちゃんを、守ってくれた……優しい蓮くんだよ!」
舞の言葉が、蓮の空っぽの脳内に響き渡る。
『お兄ちゃんは、まだ終わってない』
結衣の声が、再び聞こえた気がした。
蓮の瞳から、赤黒い光がスッと消え去った。
炎が消え、蓮は力なくその場に崩れ落ちた。
「……まい……」
蓮が掠れた声で名前を呼ぶと、舞は顔を上げ、満面の笑みを浮かべた。
「うん。私だよ、蓮くん」
「……すまない。また、記憶が……」
「いいよ。私が全部、覚えてるから。蓮くんが忘れても、私が何度でも教えてあげる」
舞は蓮の頭を優しく撫でた。
その様子を見ていた結月は、静かに目を伏せ、小さく息を吐いた。
彼女の胸の奥で、チクリとした痛みが走ったが、それが何なのか、彼女自身にも分からなかった。
四
数時間後。
エーテル社本社ビルは、対魔局の部隊によって完全に制圧された。
地下の研究施設は封鎖され、カプセルに囚われていた若者たちも無事に救出された。御堂は意識不明の重体で病院に搬送され、エーテル社の幹部たちも次々と逮捕されていく。
しかし、黒崎ジンと、ノクスの主要メンバーたちの行方は掴めなかった。
蓮は、救急車の中で手当てを受けていた。
全身打撲、肋骨骨折、魔力枯渇。満身創痍だったが、命に別状はない。
「……無茶ばかりするわね、あなたは」
紗綾が、救急車の外から呆れたように言った。
「すみません。ジンは逃がしました」
「いいわ。エーテル社とノクスの繋がりを暴き、被害者を救出した。十分すぎる戦果よ」
紗綾はタブレットを見ながら言った。
「それに、御堂の脳から抽出したデータから、ノクスの計画の全貌が少しずつ見えてきたわ」
「計画の全貌……?」
「ええ。彼らは『特異点』と呼ばれる存在を探している。全ての式を統合し、世界を書き換えるための鍵となる人間をね」
紗綾の言葉に、蓮は眉をひそめた。
「特異点……。それが、ジンが言っていた『真の魔法適応社会』を創るための鍵ですか」
「おそらくね。そして、その特異点は……すでに覚醒しつつあるかもしれない」
紗綾は意味深な言葉を残し、去っていった。
蓮は救急車のベッドに横たわり、目を閉じた。
頭の中は、まだ靄がかかったようにぼんやりとしている。舞の顔や名前は思い出せたが、それ以外の記憶は、虫食いのように欠落していた。
(俺は……どこまで自分を保てるんだろうか)
不安が、蓮の心を締め付ける。
「蓮くん」
救急車のドアが開き、舞が顔を出した。
彼女のドレスはボロボロだったが、その笑顔は太陽のように明るかった。
「大丈夫? 痛いところない?」
「……ああ。お前のおかげでな」
蓮が言うと、舞は少しだけ照れたように笑った。
「えへへ。私、少しは役に立てたかな?」
「少しどころじゃない。お前がいなかったら、俺は完全に化け物になっていた」
蓮は舞の手を握った。
「ありがとう、舞」
舞は顔を真っ赤にして、蓮の手を握り返した。
「……うん。私、ずっと蓮くんのそばにいるからね」
その時、救急車の奥から、冷たい声が聞こえた。
「……面会時間は終了です。彼は絶対安静ですので」
結月だった。
彼女は無表情のまま、舞と蓮の繋がれた手を見つめていた。
「あ、結月ちゃん! ごめんね、すぐに出るから!」
舞は慌てて手を離し、救急車から降りていった。
「……お前も、怪我の具合はどうなんだ?」
蓮が尋ねると、結月は淡々と答えた。
「問題ありません。それより、あなたの記憶の欠落について、東郷軍医から報告を受けています。これ以上の魔法の使用は、あなたの人格を完全に破壊する可能性があります」
「……分かってる」
「分かっていないから、あんな無茶をするんです」
結月の声には、微かな怒りが混じっていた。
「私は……あなたに、自分を失ってほしくありません」
結月はそれだけ言うと、背を向けて救急車から降りていった。
蓮は、残された静寂の中で、深くため息をついた。
舞の明るさと、結月の不器用な優しさ。
二人の存在が、今の蓮を辛うじて現実に繋ぎ止めている。
(……俺は、負けない。絶対に)
蓮は、再び決意を固めた。
ノクスの計画を阻止し、ジンの野望を打ち砕く。
そして、失われた記憶を取り戻す方法を見つけ出す。
彼の戦いは、まだ終わらない。
五
翌日。
対魔局のオフィスは、エーテル社制圧の事後処理で慌ただしく動いていた。
蓮は医務室での絶対安静を命じられていたが、それを無視してオフィスに顔を出していた。全身の痛みは治癒魔法で和らいでいるものの、頭の中の靄は晴れないままだ。
「雨宮隊員。安静にしているよう指示したはずですが」
結月が、山積みの書類から顔を上げて冷たく言った。
「寝ていても頭が痛いだけだ。それより、御堂の尋問はどうなった?」
蓮が尋ねると、結月は小さくため息をつき、タブレットを操作した。
「御堂は現在、対魔局の特別医療施設で治療を受けています。あなたの『魔力捕食』によって脳内の式を強引に引き剥がされたため、重度の精神崩壊を起こしており、まともな会話ができる状態ではありません」
「……そうか」
蓮は少しだけ罪悪感を覚えた。
敵とはいえ、人間の精神を破壊してしまったのだ。暴走していたとはいえ、自分の力の恐ろしさを改めて痛感する。
「ですが、彼の脳から抽出したデータと、エーテル社のサーバーから押収した資料を照合した結果、いくつかの重要な事実が判明しました」
結月はモニターに資料を映し出した。
「ノクスは、エーテル社の資金と技術を使って、全国各地に『中継拠点』を建設しています。表向きは通信アンテナや気象観測所を装っていますが、実際には巨大な魔力増幅装置です」
「魔力増幅装置……? 何のために?」
「彼らが探している『特異点』の力を増幅し、日本全土、あるいは世界規模で『式』を書き換えるためだと推測されます」
結月の言葉に、蓮は背筋が寒くなるのを感じた。
「世界規模で式を書き換える……。それが、ジンの言う『真の魔法適応社会』か」
「はい。もしそれが実行されれば、魔法適性を持たない人間は淘汰され、適性を持つ者も強制的に覚醒させられる。一年前の暴走魔法災害の比ではない、未曾有の大惨事になります」
「……止めるしかないな」
蓮が拳を握りしめると、結月は静かに頷いた。
「ええ。対魔局は現在、全国の中継拠点の特定を急いでいます。特定でき次第、各部隊が制圧に向かうことになります」
その時、オフィスのドアが開き、橘凛音が姿を現した。
彼女はいつものようにノートパソコンを抱え、少しだけ疲れた顔をしていた。
「やっほー、蓮くん。結月ちゃん。お疲れ様」
「凛音。どうしてここに?」
対魔局のオフィスに、外部の人間である凛音が入ってくるのは珍しい。
「神宮寺部隊長に呼ばれたの。情報分析の専門家として、対魔局のシステムにアクセスする権限をもらったんだ」
凛音は得意げに笑い、結月の隣の空いているデスクにパソコンを置いた。
「エーテル社のサーバーから抜いたデータ、私の方でも解析してみたんだけど……ちょっと厄介なことが分かったよ」
凛音の表情が真剣なものに変わる。
「厄介なこと?」
「うん。ノクスが探している『特異点』。その候補者のリストが、データの中にあったの」
凛音はパソコンの画面をモニターに出力した。
そこには、数十人の名前と顔写真がリストアップされていた。
「このリストに載っている人間は、全員が『空間』や『精神』に干渉する特殊な適性を持っている。ノクスは、この中から本物の特異点を見つけ出そうとしているみたい」
蓮はリストに目を走らせた。
そして、ある一枚の写真で視線が止まった。
「……嘘だろ」
蓮の声が震えた。
リストの中に、桜井舞の写真があったのだ。
「舞が……特異点の候補?」
「うん。彼女の『幻影』は、光と音を操るだけじゃない。他人の認識そのものを書き換える、極めて高度な精神干渉魔法だ。ノクスは、彼女の能力に目を付けている」
凛音の言葉に、蓮は頭を殴られたような衝撃を受けた。
屋上での戦闘で、ノクスの男が言っていた言葉を思い出す。
『お前の幻影の適性、ジン様が高く評価している』
「……あいつらは、最初から舞を狙っていたのか」
「そういうこと。パーティー会場の襲撃も、エーテル社の防衛が目的じゃなくて、舞ちゃんを拉致するのが本当の目的だった可能性が高い」
凛音の分析に、結月も険しい表情を見せた。
「……桜井舞の護衛を強化する必要がありますね。彼女がノクスに渡れば、計画が最終段階に進む危険があります」
「ああ。俺が護衛につく」
蓮が即座に言うと、結月は首を横に振った。
「ダメです。あなたはまだ安静が必要ですし、何より、あなたの『残響』は不安定すぎます。もしまた暴走すれば、今度こそ舞さんを傷つけるかもしれない」
結月の指摘は正論だった。
蓮は反論できず、唇を噛み締めた。
「護衛は、私と他の隊員で行います。あなたは、自分の魔法を制御する方法を見つけることに専念してください」
結月の冷たい、しかし蓮を案じる言葉に、蓮は深くため息をついた。
「……分かった。頼む、柊」
「はい。お任せください」
結月は短く答え、護衛の準備のためにオフィスを出ていった。
残された蓮と凛音の間に、重い沈黙が流れる。
「……蓮くん。記憶の方、大丈夫?」
凛音が心配そうに尋ねる。
「……正直、最悪だ。舞の顔を忘れた時は、自分が本当に化け物になった気がした」
蓮は自嘲気味に笑った。
「でも、舞ちゃんが引き戻してくれたんでしょ? 蓮くんには、結月ちゃんも舞ちゃんもいる。一人じゃないんだから、あんまり抱え込まないでよ」
凛音は蓮の肩を軽く叩いた。
「……ああ。分かってる」
蓮は窓の外を見た。
灰色の空に浮かぶ「式」の光が、今日はいつもより不気味に瞬いているように見えた。
ノクスの計画。特異点。そして、狙われる舞。
事態は、蓮の想像を超えた規模で動き出している。
(俺は、どうすればいい……?)
記憶を失う恐怖と、大切なものを守りたいという願い。
その狭間で、蓮の心は激しく揺れ動いていた。
【第5章終了】
【第5章登場魔法・用語解説】
「魔力捕食」:蓮の「残響」が暴走状態(全式解放)の際に無意識に発動した能力。相手の放った魔法の式を物理的に「喰らい」、自身の魔力として吸収する。さらに、相手の脳内に直接干渉し、式を強引に引き剥がすことも可能。ただし、他人の式を直接脳に取り込むため、術者の精神と記憶に致命的なダメージを与える。
「千鏡の迷宮」:桜井舞が限界まで魔力を引き出して発動した「幻影」の応用技。空間を歪め、無数の鏡のような幻影を作り出すことで、敵の視覚と方向感覚を完全に狂わせる。発動中は舞自身の「自己認識の喪失」が急激に進行する危険な技。
「特異点」:ノクスが探しているとされる、謎の存在。全ての式を統合し、世界を書き換える力を持つと言われている。桜井舞がその候補者の一人であることが判明した。
ここまで読んでくれてありがとうございました!
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