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残響魔術(エコー・コード)  作者: 天音シオン
第一部 覚醒と喪失

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第3章:沈黙の雨と記憶の欠片

第3章:沈黙の雨と記憶の欠片




雨が降っていた。


東京の空を覆う灰色の雲から、冷たく重い雨粒が絶え間なく落ちてくる。雨はアスファルトを叩き、ネオンサインの光を滲ませ、街の輪郭を曖昧にしていた。空に浮かぶ「式」の光も、今日ばかりは雨のカーテンに遮られてぼんやりとしか見えない。


対魔局のオフィスは、いつも以上に重苦しい空気に包まれていた。


蓮は自分のデスクに座り、モニターに映し出された報告書を無表情で見つめていた。数日前のスタジオ襲撃事件に関する報告書だ。ノクスの末端メンバーが自爆魔法で口封じを図った件は、上層部でも重く受け止められていた。


「雨宮隊員、コーヒーです」


不意に横から声がして、デスクの上に紙コップが置かれた。結月だ。


「……悪いな」


蓮は短く礼を言い、コーヒーを一口飲んだ。ブラックの苦味が、少しだけ頭の芯をクリアにしてくれる。


「顔色が優れませんね。代償の進行が影響しているのでは?」


結月は自分のデスクに戻りながら、淡々とした声で尋ねた。その表情は相変わらず乏しいが、声のトーンには微かな気遣いが混じっているように聞こえた。


「問題ない。ただの寝不足だ」


蓮は嘘をついた。


実際には、代償の進行は確実に彼を蝕んでいた。スタジオでの戦闘で何度も「残響」を使った結果、結衣との記憶がまたいくつか欠落した。結衣が好きだったケーキの味。結衣がよく歌っていた鼻歌のメロディ。それらが、まるで最初から存在しなかったかのように、頭の中からすっぽりと抜け落ちている。


写真を見れば「結衣」という存在は認識できる。しかし、それに付随する感情や手触りが、砂のように指の間からこぼれ落ちていく感覚があった。


「無理は禁物です。あなたが倒れれば、私の任務にも支障が出ますから」


結月はモニターから目を離さずに言った。


「分かってる。お前こそ、最近『氷結』を使いすぎじゃないか? 体温が下がってるぞ」


蓮が指摘すると、結月は少しだけ肩をビクッとさせた。


「……規定値内です。問題ありません」


「そうかよ」


蓮はそれ以上追及しなかった。対魔局の隊員は皆、自分の代償と孤独に戦っている。他人が安易に踏み込んでいい領域ではない。


その時、オフィスの奥から紗綾が歩いてきた。


「雨宮、柊。会議室へ」


紗綾の声は、いつも以上に低く、硬かった。






会議室のドアが閉まると、紗綾はプロジェクターの電源を入れた。


スクリーンに映し出されたのは、東京の地図だった。地図上の数カ所に、赤いピンが打たれている。


「昨日から今朝にかけて、都内で三件の誘拐事件が発生したわ」


紗綾はレーザーポインターで赤いピンを指し示した。


「被害者は全員、十代から二十代の若者。そして全員が、特定の魔法適性を持っている」


「特定の適性、ですか?」


結月が尋ねる。


「ええ。物理的な干渉ではなく、空間や精神に干渉する適性よ。例えば、空間を歪める『転移』の適性や、他人の感情を読み取る『共感』の適性などね」


蓮はハッとした。凛音が言っていた情報と完全に一致している。


「ノクスの仕業ですか」


蓮が言うと、紗綾は頷いた。


「その可能性が極めて高い。彼らは何らかの目的で、特殊な適性を持つ人間を集めている。そして、三件目の誘拐現場の防犯カメラに、妙なものが映っていたわ」


紗綾がタブレットを操作すると、スクリーンに荒い映像が映し出された。


深夜の路地裏。黒いバンに、意識を失った少女が運び込まれる様子が映っている。そして、そのバンを指揮している男の姿があった。


黒いコートを着た、長身の男。その周囲の空間が、微かに歪んで見える。


「黒崎ジン……」


蓮は思わず呟いた。


「そう。ノクスのリーダー、黒崎ジンよ。彼が自ら現場に現れるなんて、よほど重要な計画が動いている証拠ね」


紗綾は映像を止め、蓮と結月を見た。


「上層部は、この誘拐事件を最重要案件として処理することを決定した。あなたたち二人に、この事件の捜査を命じる」


「了解しました」


結月が即座に答える。


「……ジンを捕らえれば、全てが分かるんですね」


蓮が低い声で言うと、紗綾は少しだけ目を伏せた。


「雨宮。あなたの個人的な復讐心は理解しているつもりよ。でも、これは対魔局の任務だということを忘れないで。暴走すれば、あなたも柊も命を落とすことになる」


「分かっています」


蓮は短く答えた。しかし、その胸の奥では、暗い炎が静かに燃え上がっていた。


妹の死の真相。ノクスと政府の繋がり。そして、黒崎ジン。


全ての答えが、そこにある。






蓮と結月は、三件目の誘拐現場である新宿の路地裏に向かった。


雨はまだ降り続いている。現場には黄色い規制線が張られ、警察の鑑識が作業を行っていた。対魔局の身分証を見せて中に入ると、そこには争ったような痕跡が残っていた。


「被害者は、十九歳の女子大生。適性は『空間把握』。周囲の空間の構造を正確に認識する能力です」


結月がタブレットを見ながら報告する。


「現場には、魔法が使われた痕跡があります。この焦げ跡は、おそらく炎の魔法。そして、この壁の歪みは……」


結月が指差したコンクリートの壁は、まるで粘土をこねたように不自然に歪んでいた。


「ジンの『崩壊』か」


蓮は壁に触れた。分子レベルで分解され、再構築されたような奇妙な感触があった。


「……強力な魔法です。これほどの規模の干渉を、一瞬で行うなんて」


結月の声に、微かな緊張が混じる。


蓮は目を閉じ、現場に残された「式」の痕跡を読み取ろうとした。


雨に流されかけているが、微かに式の残滓が漂っている。炎の式、風の式、そして……黒く淀んだ、底知れない深さを持つ式。


(これが、ジンの式……)


蓮はその式を読み取ろうと意識を集中させた。しかし、その瞬間、頭の中に激しい痛みが走った。


「ぐっ……!」


蓮は思わず膝をつき、頭を押さえた。


「雨宮隊員!?」


結月が駆け寄り、蓮の肩を支える。


「大丈夫ですか!? 顔色が真っ青です!」


「……問題ない。少し、式の残滓が強すぎただけだ」


蓮は荒い息を吐きながら立ち上がった。


ジンの式は、蓮がこれまで見てきたどの式とも違っていた。複雑すぎて、今の蓮の「残響」では完全に読み取ることができない。無理に読み取ろうとすれば、脳が焼き切れるような感覚があった。


「……無理はしないでください。あなたの代償は、すでに限界に近づいているのではありませんか?」


結月が、珍しく感情を露わにして言った。


「限界じゃない。俺はまだ戦える」


蓮は結月の手を振り払い、現場を後にしようとした。


その時、蓮のスマートフォンが震えた。


凛音からのメッセージだ。


『蓮くん、ノクスのバンの足取りが掴めた。港区の廃工場に向かってる。すぐに来て』


蓮は画面を見つめ、結月に向き直った。


「柊、港区の廃工場に向かう。ノクスの拠点だ」


「……分かりました。すぐに車両を手配します」


結月は蓮の顔をじっと見つめた後、短く答えた。






港区の海沿いにある廃工場。


かつては活気に満ちていたであろうその場所は、今では錆びついた鉄骨とコンクリートの残骸が転がる、不気味な廃墟と化していた。雨は激しさを増し、海からの冷たい風が容赦なく吹き付けてくる。


蓮と結月は、廃工場の裏口から静かに潜入した。


内部は薄暗く、カビと鉄錆の臭いが充満している。二人は足音を殺し、物陰に身を隠しながら奥へと進んだ。


「……人の気配がします」


結月が小声で言う。


蓮も頷いた。工場の奥から、微かな話し声と、機械の駆動音が聞こえてくる。


二人は慎重に近づき、錆びた鉄扉の隙間から中を覗き込んだ。


そこは、かつて製品の組み立てラインだったと思われる広い空間だった。しかし今は、中央に巨大なカプセルのような装置が置かれ、その周囲を数人の黒ずくめの男たちが囲んでいる。


そして、カプセルの中には、誘拐された若者たちが眠らされていた。


「あれは……」


蓮は息を呑んだ。


カプセルからは無数のケーブルが伸び、巨大なサーバーのような機械に繋がっている。機械のモニターには、複雑な「式」が滝のように流れていた。


「彼らの脳内から、強制的に『式』を抽出しているようです」


結月が冷静に分析する。


「特定の適性を持つ人間の式を集め、それを統合して、何か巨大な魔法を発動させようとしている……」


「ふざけやがって……!」


蓮は拳を握りしめた。


一年前の暴走魔法災害も、こうして人為的に引き起こされたものだったのか。結衣も、あんなカプセルの中に閉じ込められ、命を削られたのか。


怒りが、蓮の理性を焼き尽くそうとしていた。


「雨宮隊員、冷静に。敵の数は五人。まずは応援を呼び……」


結月が通信機に手を伸ばした、その時だった。


「ネズミが紛れ込んでいるな」


冷酷な声が、工場内に響き渡った。


蓮と結月が振り返ると、そこには黒いコートを着た男が立っていた。


黒崎ジン。


「……ジン!」


蓮は反射的に身構えた。


ジンは薄く笑いながら、ゆっくりと二人に近づいてくる。その周囲の空間が、陽炎のように歪んでいた。


「対魔局の犬か。私の計画を嗅ぎつけるとは、少しは優秀なようだな」


「お前の計画なんて知るか。誘拐した人間を解放しろ!」


蓮が叫ぶと、ジンは鼻で笑った。


「解放? 彼らは選ばれたのだよ。この腐った世界を終わらせ、新たな世界を創り出すための礎としてな」


「新たな世界だと?」


「そうだ。今の世界は、魔法という力を得ながらも、それを恐れ、管理しようとしている。愚かなことだ。魔法とは、人類が進化するための鍵。私は、全ての人類を強制的に覚醒させ、真の魔法適応社会を創り出す」


ジンの言葉は、狂気に満ちていた。


「そのために、彼らの式が必要なのだ。そして……お前の式もな、雨宮蓮」


ジンが手をかざすと、蓮の周囲の空間が急激に重くなった。


「ぐっ……!」


蓮は膝をついた。見えない巨大な手で押し潰されているような感覚だ。


「『崩壊』だけじゃない……『重力』も使えるのか!?」


「私は、あらゆる式を統合する力を持っている。お前の『残響』など、児戯に等しい」


ジンが冷酷に言い放つ。


「雨宮隊員!」


結月がジンに向かって氷の刃を放つ。しかし、氷の刃はジンに届く前に、空間の歪みに飲み込まれて消滅した。


「無駄だ。私の空間干渉は、あらゆる物理攻撃を無効化する」


ジンが指を鳴らすと、結月の足元のコンクリートが突如として崩壊した。


「きゃあっ!」


結月はバランスを崩し、下の階へと落下していく。


「柊!」


蓮が叫ぶが、重力に押さえつけられて動けない。


「さて、雨宮蓮。お前の『残響』、私の計画のために役立ててもらおうか」


ジンがゆっくりと蓮に近づいてくる。


蓮は必死に重力に抗いながら、ジンの「式」を読み取ろうとした。しかし、やはり複雑すぎて読み取れない。


(……くそっ! このままじゃ……!)


その時、蓮の脳裏に、ある記憶がフラッシュバックした。


『お兄ちゃん、魔法ってすごいね! 私も、いつかお兄ちゃんみたいに強くなりたいな!』


結衣の笑顔。


その記憶が、蓮の心に火をつけた。


(俺は……負けない。結衣の仇を討つまでは!)


蓮は限界を超えて意識を集中させ、ジンの「式」の深淵へとダイブした。


脳の血管が切れそうなほどの激痛。記憶が、ごっそりと削り取られていく感覚。


それでも、蓮は式の断片を掴み取った。


「……『残響』――空間歪曲くうかんわいきょく!」


蓮が叫ぶと、彼を押し潰していた重力の場が、不自然に歪んで弾け飛んだ。


「ほう……私の式を、一部とはいえコピーしたか」


ジンは少しだけ驚いたような顔をした。


「だが、その代償は重いだろう? お前の目は、すでに虚ろだ」


ジンの言う通りだった。蓮の視界は霞み、立っているのがやっとの状態だった。頭の中は真っ白で、自分がなぜここにいるのかすら、一瞬分からなくなりそうだった。


「……黙れ。俺は、お前を倒す」


蓮はフラフラと立ち上がり、ジンに向かって拳を構えた。






「無駄な足掻きだ」


ジンが再び手をかざす。今度は、蓮の周囲の空気が急激に圧縮され、見えない刃となって襲いかかってきた。


蓮は咄嗟に横に跳んでかわすが、圧縮された空気の刃はコンクリートの柱を容易く両断した。


「『残響』――炎壁!」


蓮は以前コピーした炎の壁を作り出し、ジンの視界を遮ろうとする。しかし、ジンは炎の壁を「崩壊」の魔法で一瞬にして分子レベルに分解し、消し去った。


「お前の魔法は、所詮他人の借り物だ。自分の式を持たない者に、私を倒すことはできない」


ジンが冷酷に言い放ち、蓮の腹部に強烈な蹴りを叩き込む。


「がはっ……!」


蓮は吹き飛ばされ、錆びた機械に激突した。肋骨が数本折れた感覚がある。口から血が吐き出された。


「終わりだ、雨宮蓮」


ジンがとどめを刺そうと近づいてきた、その時。


「させません!」


下の階に落下したはずの結月が、階段を駆け上がってきた。彼女の周囲には、これまでにないほどの強烈な冷気が渦巻いている。


「柊……! 逃げろ……!」


蓮が叫ぶが、結月は止まらない。


「『絶対零度アブソリュート・ゼロ』!」


結月が両手を前に突き出すと、工場内の水分が一瞬にして凍りつき、巨大な氷の嵐となってジンに襲いかかった。


「ほう……覚醒したか」


ジンは少しだけ目を見開いた。


結月の魔法は、通常の「氷結」の枠を超えていた。空間そのものを凍結させるような、圧倒的な冷気。それは、極限状態でのみ発動する「覚醒」の力だった。


氷の嵐がジンを包み込む。ジンの周囲の空間歪曲すらも凍りつき、彼の動きが完全に停止した。


「やりました……!」


結月が荒い息を吐きながら言う。


しかし、次の瞬間。


ピキッ、という音と共に、氷の塊に亀裂が走った。


「……素晴らしい冷気だ。だが、私を止めるには少し足りないな」


氷が粉々に砕け散り、中から無傷のジンが現れた。


「なっ……!」


結月が絶望に目を見開く。


「覚醒したとはいえ、所詮は小娘。私の『崩壊』の前では無意味だ」


ジンが結月に向かって手をかざす。


「やめろぉぉぉっ!」


蓮は最後の力を振り絞り、ジンに向かって飛びかかった。


彼はジンの腕を掴み、至近距離から「残響」を発動しようとした。


しかし、ジンは冷たく笑った。


「遅い」


ジンの手が、蓮の胸に触れる。


「『崩壊』」


その瞬間、蓮の身体に激痛が走った。


細胞が、分子が、バラバラに分解されていくような感覚。視界が真っ赤に染まり、意識が遠のいていく。


「雨宮隊員!」


結月の悲鳴が遠く聞こえる。


蓮の身体は崩れ落ち、冷たいコンクリートの床に倒れ伏した。


「……これで邪魔者はいなくなった。計画を進めよう」


ジンは倒れた蓮を一瞥もせず、カプセルの方へと歩き出した。


蓮の意識は、深い闇の中へと沈んでいった。


(……結衣……ごめん……)


最後に残った妹の記憶の欠片が、闇の中に溶けて消えた。





深い闇の中。


蓮は、音のない世界を漂っていた。

痛みも、寒さも、怒りも、何もない。ただ、圧倒的な虚無だけがそこにあった。


(俺は……死んだのか?)


自問自答する声すら、どこか遠くから聞こえるようだった。

ジンの「崩壊」の魔法。あれは間違いなく、蓮の肉体を分子レベルで破壊しようとしていた。細胞が悲鳴を上げ、血液が沸騰するような感覚は、今でも微かに残っている。


しかし、蓮の意識はまだここにある。


不意に、闇の中に小さな光が灯った。

それは、蛍の光のように弱々しく、しかし確かな温もりを持っていた。


『お兄ちゃん』


声が聞こえた。

鈴を転がすような、無邪気で明るい声。


蓮はその声の主を知っているはずだった。しかし、名前が思い出せない。顔も、輪郭も、全てが霧に包まれたように曖昧だった。


『お兄ちゃん、起きて』


光が少しずつ近づいてくる。

その光の中に、少女のシルエットが浮かび上がった。


「……誰だ?」


蓮が問いかけると、少女は悲しそうに微笑んだ。


『忘れちゃったの? 私のこと』


「……分からない。でも、お前を知っている気がする」


蓮は手を伸ばした。しかし、指先は少女のシルエットをすり抜けてしまう。


『私のことは忘れてもいいよ。でも、お兄ちゃん自身のことは忘れないで』


少女の声が、少しずつ遠ざかっていく。


『お兄ちゃんは、まだ終わってない。あいつを……ジンを止めて』


「待ってくれ! お前は誰なんだ!?」


蓮が叫んだ瞬間、少女のシルエットは弾け飛び、無数の光の粒子となって蓮の身体に降り注いだ。


その瞬間、蓮の脳裏に、失われたはずの記憶の欠片が濁流のように流れ込んできた。


一緒にケーキを食べた記憶。

公園で魔法の練習をした記憶。

そして……一年前のあの日、炎の中で泣き叫んでいた彼女の姿。


「結衣……!」


蓮は目を見開いた。






「……隊員! 雨宮隊員!」


耳元で、切羽詰まった声が聞こえる。

蓮がゆっくりと目を開けると、そこには涙で顔を濡らした結月の姿があった。


「柊……?」


「よかった……! 息を吹き返した……!」


結月は蓮の胸に顔を埋め、声を上げて泣き出した。普段の無表情な彼女からは想像もつかない、感情を剥き出しにした姿だった。


蓮は自分の身体を確認した。

ジンの「崩壊」を受けたはずの胸には、奇妙な幾何学模様の「式」が浮かび上がっていた。それは、蓮自身の「残響」の式とは違う、どこか温かく、優しい光を放っていた。


「これは……」


「分かりません。ジンがあなたに『崩壊』を放った直後、あなたの身体から凄まじい光が溢れ出し、崩壊の式を相殺したんです」


結月が涙を拭いながら説明する。


蓮は、闇の中で見た少女の光を思い出した。

あれは、結衣の残留思念だったのか。それとも、蓮自身の深層心理が生み出した幻だったのか。


どちらにせよ、蓮は生き延びた。


「ジンは……?」


蓮が身体を起こしながら尋ねると、結月は首を横に振った。


「逃げられました。あなたの身体から放たれた光に驚いたのか、カプセルごと空間転移で姿を消しました」


「……そうか」


蓮は拳を強く握りしめた。

またしても、ジンを取り逃がした。誘拐された若者たちも、救えなかった。


圧倒的な敗北感。

しかし、蓮の心の中には、以前のような絶望はなかった。


結衣の記憶が、少しだけ戻ってきたからだ。

代償によって失われたはずの記憶が、なぜ戻ったのかは分からない。しかし、結衣の「お兄ちゃんは、まだ終わってない」という言葉が、蓮の心に強く刻み込まれていた。


「柊。泣くのは後にしてくれ。まだ終わってない」


蓮が立ち上がると、結月は少しだけ驚いたような顔をした後、力強く頷いた。


「はい。……申し訳ありません、取り乱しました」


結月はいつもの無表情に戻ろうとしたが、その目元はまだ赤く腫れていた。


「お前の『絶対零度』、凄かったぞ。あれがなければ、俺は完全に死んでいた」


蓮が言うと、結月は少しだけ頬を染め、視線を逸らした。


「……あれは、無我夢中だっただけです。それに、代償でしばらく魔法が使えそうにありません」


結月の身体は、まだ小刻みに震えていた。極限の冷気を操った代償として、彼女の体温は危険なレベルまで低下しているのだろう。


蓮は自分の黒いコートを脱ぎ、結月の肩にかけた。


「……雨宮隊員?」


「少しは温まるだろ。帰るぞ」


蓮は結月に背を向け、廃工場の出口へと歩き出した。


結月はコートの襟を強く握りしめ、蓮の背中を見つめた。その瞳には、これまでにない複雑な感情が揺れ動いていた。






翌日。


対魔局のオフィスは、重苦しい沈黙に包まれていた。

港区の廃工場での戦闘結果は、上層部に報告された。ジンを取り逃がし、誘拐被害者も奪還できなかったことは、対魔局にとって大きな失態だった。


蓮は全身に包帯を巻いた状態で、紗綾のデスクの前に立っていた。


「……報告は以上です」


蓮が淡々と告げると、紗綾は深くため息をついた。


「黒崎ジンが自ら動き出し、空間転移で逃亡した。そして、誘拐された若者たちは未だ行方不明……。最悪の状況ね」


紗綾はこめかみを揉みながら言った。


「申し訳ありません。俺の力不足です」


「謝罪は不要よ。相手はノクスのリーダー。生きて帰ってきただけでも奇跡に近いわ」


紗綾は蓮の胸のあたりをじっと見つめた。


「報告書にあった、あなたの身体から放たれた『光』。あれは一体何なの?」


「……分かりません。ただ、あの光のおかげで、失われていた記憶の一部が戻りました」


蓮の言葉に、紗綾は驚きに目を見開いた。


「記憶が戻った? 魔法の代償が逆行したというの?」


「はい。理由は不明ですが」


紗綾はしばらく沈黙した後、真剣な表情で言った。


「雨宮。そのことは、上層部には伏せておきなさい」


「なぜですか?」


「代償の逆行なんて、前代未聞よ。もし上層部が知れば、あなたを実験台にしかねない。ノクスと同じようにね」


紗綾の言葉に、蓮は背筋が寒くなるのを感じた。

政府とノクスが裏で繋がっているという凛音の情報。もしそれが事実なら、対魔局の上層部も信用できない。


「分かりました。この件は、俺と柊、そして部隊長だけの秘密にします」


「ええ。……それと、柊の様子はどう?」


「体温低下の代償で、現在は医務室で絶対安静です。命に別状はありませんが、しばらくは現場に出られないでしょう」


「そう……。彼女には無理をさせたわね」


紗綾は少しだけ目を伏せた。


「雨宮。あなたはしばらく休養を取りなさい。身体の傷も癒えていないし、何より精神的な負担が大きすぎる」


「休んでいる暇はありません。ジンを追わなければ」


「焦っても結果は出ないわ。それに、ノクスも今回の件で警戒を強めているはず。次に動く時は、より大規模な計画を実行に移す時よ」


紗綾の言葉には、有無を言わせぬ説得力があった。


「……分かりました」


蓮は渋々頷き、紗綾のデスクを離れた。


オフィスを出ると、窓の外は今日も灰色の雲に覆われていた。

雨は上がっていたが、空に浮かぶ「式」の光は、どこか不気味に瞬いているように見えた。


蓮はポケットからスマートフォンを取り出し、凛音にメッセージを送った。


『ジンに逃げられた。だが、奴の目的の片鱗は見えた。引き続き、ノクスの拠点を洗ってくれ』


すぐに返信が来た。


『了解。蓮くんも無事でよかった。結月ちゃんのこと、ちゃんと看病してあげなよ?』


蓮は苦笑し、スマートフォンをポケットにしまった。


医務室に向かう廊下を歩きながら、蓮は自分の胸に手を当てた。

ジンの「崩壊」を防いだ、あの温かい光。そして、戻ってきた結衣の記憶。


(結衣……お前が守ってくれたのか?)


答えはない。

しかし、蓮の心の中には、確かな決意が宿っていた。


ジンを倒す。

ノクスの計画を阻止する。

そして、この狂った魔法適応社会の真実を暴き出す。


そのためなら、悪魔に魂を売ってでも力を手に入れてみせる。


蓮の瞳に、冷たく鋭い光が宿った。

彼の戦いは、新たな局面を迎えようとしていた。





【第3章終了】





【第3章登場魔法・用語解説】


空間歪曲くうかんわいきょく」:黒崎ジンが使用した魔法の一部。指定した空間の座標を歪め、物理的な攻撃を無効化したり、重力の方向を捻じ曲げたりする。蓮が「残響」で劣化コピーしたが、完全な制御はできていない。


絶対零度アブソリュート・ゼロ」:柊結月が極限状態で「覚醒」した際に発動した魔法。通常の「氷結」を超え、空間そのものの熱運動を完全に停止させる。発動後は急激な体温低下を引き起こし、術者自身も凍死する危険性がある。


「代償の逆行」:蓮の身体に起きた未知の現象。魔法を使用することで失われたはずの記憶が、何らかの要因(結衣の残留思念?)によって一部回復した。魔法適応社会の常識を覆す現象であり、そのメカニズムは一切不明。


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