第3章:沈黙の雨と記憶の欠片
第3章:沈黙の雨と記憶の欠片
一
雨が降っていた。
東京の空を覆う灰色の雲から、冷たく重い雨粒が絶え間なく落ちてくる。雨はアスファルトを叩き、ネオンサインの光を滲ませ、街の輪郭を曖昧にしていた。空に浮かぶ「式」の光も、今日ばかりは雨のカーテンに遮られてぼんやりとしか見えない。
対魔局のオフィスは、いつも以上に重苦しい空気に包まれていた。
蓮は自分のデスクに座り、モニターに映し出された報告書を無表情で見つめていた。数日前のスタジオ襲撃事件に関する報告書だ。ノクスの末端メンバーが自爆魔法で口封じを図った件は、上層部でも重く受け止められていた。
「雨宮隊員、コーヒーです」
不意に横から声がして、デスクの上に紙コップが置かれた。結月だ。
「……悪いな」
蓮は短く礼を言い、コーヒーを一口飲んだ。ブラックの苦味が、少しだけ頭の芯をクリアにしてくれる。
「顔色が優れませんね。代償の進行が影響しているのでは?」
結月は自分のデスクに戻りながら、淡々とした声で尋ねた。その表情は相変わらず乏しいが、声のトーンには微かな気遣いが混じっているように聞こえた。
「問題ない。ただの寝不足だ」
蓮は嘘をついた。
実際には、代償の進行は確実に彼を蝕んでいた。スタジオでの戦闘で何度も「残響」を使った結果、結衣との記憶がまたいくつか欠落した。結衣が好きだったケーキの味。結衣がよく歌っていた鼻歌のメロディ。それらが、まるで最初から存在しなかったかのように、頭の中からすっぽりと抜け落ちている。
写真を見れば「結衣」という存在は認識できる。しかし、それに付随する感情や手触りが、砂のように指の間からこぼれ落ちていく感覚があった。
「無理は禁物です。あなたが倒れれば、私の任務にも支障が出ますから」
結月はモニターから目を離さずに言った。
「分かってる。お前こそ、最近『氷結』を使いすぎじゃないか? 体温が下がってるぞ」
蓮が指摘すると、結月は少しだけ肩をビクッとさせた。
「……規定値内です。問題ありません」
「そうかよ」
蓮はそれ以上追及しなかった。対魔局の隊員は皆、自分の代償と孤独に戦っている。他人が安易に踏み込んでいい領域ではない。
その時、オフィスの奥から紗綾が歩いてきた。
「雨宮、柊。会議室へ」
紗綾の声は、いつも以上に低く、硬かった。
二
会議室のドアが閉まると、紗綾はプロジェクターの電源を入れた。
スクリーンに映し出されたのは、東京の地図だった。地図上の数カ所に、赤いピンが打たれている。
「昨日から今朝にかけて、都内で三件の誘拐事件が発生したわ」
紗綾はレーザーポインターで赤いピンを指し示した。
「被害者は全員、十代から二十代の若者。そして全員が、特定の魔法適性を持っている」
「特定の適性、ですか?」
結月が尋ねる。
「ええ。物理的な干渉ではなく、空間や精神に干渉する適性よ。例えば、空間を歪める『転移』の適性や、他人の感情を読み取る『共感』の適性などね」
蓮はハッとした。凛音が言っていた情報と完全に一致している。
「ノクスの仕業ですか」
蓮が言うと、紗綾は頷いた。
「その可能性が極めて高い。彼らは何らかの目的で、特殊な適性を持つ人間を集めている。そして、三件目の誘拐現場の防犯カメラに、妙なものが映っていたわ」
紗綾がタブレットを操作すると、スクリーンに荒い映像が映し出された。
深夜の路地裏。黒いバンに、意識を失った少女が運び込まれる様子が映っている。そして、そのバンを指揮している男の姿があった。
黒いコートを着た、長身の男。その周囲の空間が、微かに歪んで見える。
「黒崎ジン……」
蓮は思わず呟いた。
「そう。ノクスのリーダー、黒崎ジンよ。彼が自ら現場に現れるなんて、よほど重要な計画が動いている証拠ね」
紗綾は映像を止め、蓮と結月を見た。
「上層部は、この誘拐事件を最重要案件として処理することを決定した。あなたたち二人に、この事件の捜査を命じる」
「了解しました」
結月が即座に答える。
「……ジンを捕らえれば、全てが分かるんですね」
蓮が低い声で言うと、紗綾は少しだけ目を伏せた。
「雨宮。あなたの個人的な復讐心は理解しているつもりよ。でも、これは対魔局の任務だということを忘れないで。暴走すれば、あなたも柊も命を落とすことになる」
「分かっています」
蓮は短く答えた。しかし、その胸の奥では、暗い炎が静かに燃え上がっていた。
妹の死の真相。ノクスと政府の繋がり。そして、黒崎ジン。
全ての答えが、そこにある。
三
蓮と結月は、三件目の誘拐現場である新宿の路地裏に向かった。
雨はまだ降り続いている。現場には黄色い規制線が張られ、警察の鑑識が作業を行っていた。対魔局の身分証を見せて中に入ると、そこには争ったような痕跡が残っていた。
「被害者は、十九歳の女子大生。適性は『空間把握』。周囲の空間の構造を正確に認識する能力です」
結月がタブレットを見ながら報告する。
「現場には、魔法が使われた痕跡があります。この焦げ跡は、おそらく炎の魔法。そして、この壁の歪みは……」
結月が指差したコンクリートの壁は、まるで粘土をこねたように不自然に歪んでいた。
「ジンの『崩壊』か」
蓮は壁に触れた。分子レベルで分解され、再構築されたような奇妙な感触があった。
「……強力な魔法です。これほどの規模の干渉を、一瞬で行うなんて」
結月の声に、微かな緊張が混じる。
蓮は目を閉じ、現場に残された「式」の痕跡を読み取ろうとした。
雨に流されかけているが、微かに式の残滓が漂っている。炎の式、風の式、そして……黒く淀んだ、底知れない深さを持つ式。
(これが、ジンの式……)
蓮はその式を読み取ろうと意識を集中させた。しかし、その瞬間、頭の中に激しい痛みが走った。
「ぐっ……!」
蓮は思わず膝をつき、頭を押さえた。
「雨宮隊員!?」
結月が駆け寄り、蓮の肩を支える。
「大丈夫ですか!? 顔色が真っ青です!」
「……問題ない。少し、式の残滓が強すぎただけだ」
蓮は荒い息を吐きながら立ち上がった。
ジンの式は、蓮がこれまで見てきたどの式とも違っていた。複雑すぎて、今の蓮の「残響」では完全に読み取ることができない。無理に読み取ろうとすれば、脳が焼き切れるような感覚があった。
「……無理はしないでください。あなたの代償は、すでに限界に近づいているのではありませんか?」
結月が、珍しく感情を露わにして言った。
「限界じゃない。俺はまだ戦える」
蓮は結月の手を振り払い、現場を後にしようとした。
その時、蓮のスマートフォンが震えた。
凛音からのメッセージだ。
『蓮くん、ノクスのバンの足取りが掴めた。港区の廃工場に向かってる。すぐに来て』
蓮は画面を見つめ、結月に向き直った。
「柊、港区の廃工場に向かう。ノクスの拠点だ」
「……分かりました。すぐに車両を手配します」
結月は蓮の顔をじっと見つめた後、短く答えた。
四
港区の海沿いにある廃工場。
かつては活気に満ちていたであろうその場所は、今では錆びついた鉄骨とコンクリートの残骸が転がる、不気味な廃墟と化していた。雨は激しさを増し、海からの冷たい風が容赦なく吹き付けてくる。
蓮と結月は、廃工場の裏口から静かに潜入した。
内部は薄暗く、カビと鉄錆の臭いが充満している。二人は足音を殺し、物陰に身を隠しながら奥へと進んだ。
「……人の気配がします」
結月が小声で言う。
蓮も頷いた。工場の奥から、微かな話し声と、機械の駆動音が聞こえてくる。
二人は慎重に近づき、錆びた鉄扉の隙間から中を覗き込んだ。
そこは、かつて製品の組み立てラインだったと思われる広い空間だった。しかし今は、中央に巨大なカプセルのような装置が置かれ、その周囲を数人の黒ずくめの男たちが囲んでいる。
そして、カプセルの中には、誘拐された若者たちが眠らされていた。
「あれは……」
蓮は息を呑んだ。
カプセルからは無数のケーブルが伸び、巨大なサーバーのような機械に繋がっている。機械のモニターには、複雑な「式」が滝のように流れていた。
「彼らの脳内から、強制的に『式』を抽出しているようです」
結月が冷静に分析する。
「特定の適性を持つ人間の式を集め、それを統合して、何か巨大な魔法を発動させようとしている……」
「ふざけやがって……!」
蓮は拳を握りしめた。
一年前の暴走魔法災害も、こうして人為的に引き起こされたものだったのか。結衣も、あんなカプセルの中に閉じ込められ、命を削られたのか。
怒りが、蓮の理性を焼き尽くそうとしていた。
「雨宮隊員、冷静に。敵の数は五人。まずは応援を呼び……」
結月が通信機に手を伸ばした、その時だった。
「ネズミが紛れ込んでいるな」
冷酷な声が、工場内に響き渡った。
蓮と結月が振り返ると、そこには黒いコートを着た男が立っていた。
黒崎ジン。
「……ジン!」
蓮は反射的に身構えた。
ジンは薄く笑いながら、ゆっくりと二人に近づいてくる。その周囲の空間が、陽炎のように歪んでいた。
「対魔局の犬か。私の計画を嗅ぎつけるとは、少しは優秀なようだな」
「お前の計画なんて知るか。誘拐した人間を解放しろ!」
蓮が叫ぶと、ジンは鼻で笑った。
「解放? 彼らは選ばれたのだよ。この腐った世界を終わらせ、新たな世界を創り出すための礎としてな」
「新たな世界だと?」
「そうだ。今の世界は、魔法という力を得ながらも、それを恐れ、管理しようとしている。愚かなことだ。魔法とは、人類が進化するための鍵。私は、全ての人類を強制的に覚醒させ、真の魔法適応社会を創り出す」
ジンの言葉は、狂気に満ちていた。
「そのために、彼らの式が必要なのだ。そして……お前の式もな、雨宮蓮」
ジンが手をかざすと、蓮の周囲の空間が急激に重くなった。
「ぐっ……!」
蓮は膝をついた。見えない巨大な手で押し潰されているような感覚だ。
「『崩壊』だけじゃない……『重力』も使えるのか!?」
「私は、あらゆる式を統合する力を持っている。お前の『残響』など、児戯に等しい」
ジンが冷酷に言い放つ。
「雨宮隊員!」
結月がジンに向かって氷の刃を放つ。しかし、氷の刃はジンに届く前に、空間の歪みに飲み込まれて消滅した。
「無駄だ。私の空間干渉は、あらゆる物理攻撃を無効化する」
ジンが指を鳴らすと、結月の足元のコンクリートが突如として崩壊した。
「きゃあっ!」
結月はバランスを崩し、下の階へと落下していく。
「柊!」
蓮が叫ぶが、重力に押さえつけられて動けない。
「さて、雨宮蓮。お前の『残響』、私の計画のために役立ててもらおうか」
ジンがゆっくりと蓮に近づいてくる。
蓮は必死に重力に抗いながら、ジンの「式」を読み取ろうとした。しかし、やはり複雑すぎて読み取れない。
(……くそっ! このままじゃ……!)
その時、蓮の脳裏に、ある記憶がフラッシュバックした。
『お兄ちゃん、魔法ってすごいね! 私も、いつかお兄ちゃんみたいに強くなりたいな!』
結衣の笑顔。
その記憶が、蓮の心に火をつけた。
(俺は……負けない。結衣の仇を討つまでは!)
蓮は限界を超えて意識を集中させ、ジンの「式」の深淵へとダイブした。
脳の血管が切れそうなほどの激痛。記憶が、ごっそりと削り取られていく感覚。
それでも、蓮は式の断片を掴み取った。
「……『残響』――空間歪曲!」
蓮が叫ぶと、彼を押し潰していた重力の場が、不自然に歪んで弾け飛んだ。
「ほう……私の式を、一部とはいえコピーしたか」
ジンは少しだけ驚いたような顔をした。
「だが、その代償は重いだろう? お前の目は、すでに虚ろだ」
ジンの言う通りだった。蓮の視界は霞み、立っているのがやっとの状態だった。頭の中は真っ白で、自分がなぜここにいるのかすら、一瞬分からなくなりそうだった。
「……黙れ。俺は、お前を倒す」
蓮はフラフラと立ち上がり、ジンに向かって拳を構えた。
五
「無駄な足掻きだ」
ジンが再び手をかざす。今度は、蓮の周囲の空気が急激に圧縮され、見えない刃となって襲いかかってきた。
蓮は咄嗟に横に跳んでかわすが、圧縮された空気の刃はコンクリートの柱を容易く両断した。
「『残響』――炎壁!」
蓮は以前コピーした炎の壁を作り出し、ジンの視界を遮ろうとする。しかし、ジンは炎の壁を「崩壊」の魔法で一瞬にして分子レベルに分解し、消し去った。
「お前の魔法は、所詮他人の借り物だ。自分の式を持たない者に、私を倒すことはできない」
ジンが冷酷に言い放ち、蓮の腹部に強烈な蹴りを叩き込む。
「がはっ……!」
蓮は吹き飛ばされ、錆びた機械に激突した。肋骨が数本折れた感覚がある。口から血が吐き出された。
「終わりだ、雨宮蓮」
ジンがとどめを刺そうと近づいてきた、その時。
「させません!」
下の階に落下したはずの結月が、階段を駆け上がってきた。彼女の周囲には、これまでにないほどの強烈な冷気が渦巻いている。
「柊……! 逃げろ……!」
蓮が叫ぶが、結月は止まらない。
「『絶対零度』!」
結月が両手を前に突き出すと、工場内の水分が一瞬にして凍りつき、巨大な氷の嵐となってジンに襲いかかった。
「ほう……覚醒したか」
ジンは少しだけ目を見開いた。
結月の魔法は、通常の「氷結」の枠を超えていた。空間そのものを凍結させるような、圧倒的な冷気。それは、極限状態でのみ発動する「覚醒」の力だった。
氷の嵐がジンを包み込む。ジンの周囲の空間歪曲すらも凍りつき、彼の動きが完全に停止した。
「やりました……!」
結月が荒い息を吐きながら言う。
しかし、次の瞬間。
ピキッ、という音と共に、氷の塊に亀裂が走った。
「……素晴らしい冷気だ。だが、私を止めるには少し足りないな」
氷が粉々に砕け散り、中から無傷のジンが現れた。
「なっ……!」
結月が絶望に目を見開く。
「覚醒したとはいえ、所詮は小娘。私の『崩壊』の前では無意味だ」
ジンが結月に向かって手をかざす。
「やめろぉぉぉっ!」
蓮は最後の力を振り絞り、ジンに向かって飛びかかった。
彼はジンの腕を掴み、至近距離から「残響」を発動しようとした。
しかし、ジンは冷たく笑った。
「遅い」
ジンの手が、蓮の胸に触れる。
「『崩壊』」
その瞬間、蓮の身体に激痛が走った。
細胞が、分子が、バラバラに分解されていくような感覚。視界が真っ赤に染まり、意識が遠のいていく。
「雨宮隊員!」
結月の悲鳴が遠く聞こえる。
蓮の身体は崩れ落ち、冷たいコンクリートの床に倒れ伏した。
「……これで邪魔者はいなくなった。計画を進めよう」
ジンは倒れた蓮を一瞥もせず、カプセルの方へと歩き出した。
蓮の意識は、深い闇の中へと沈んでいった。
(……結衣……ごめん……)
最後に残った妹の記憶の欠片が、闇の中に溶けて消えた。
六
深い闇の中。
蓮は、音のない世界を漂っていた。
痛みも、寒さも、怒りも、何もない。ただ、圧倒的な虚無だけがそこにあった。
(俺は……死んだのか?)
自問自答する声すら、どこか遠くから聞こえるようだった。
ジンの「崩壊」の魔法。あれは間違いなく、蓮の肉体を分子レベルで破壊しようとしていた。細胞が悲鳴を上げ、血液が沸騰するような感覚は、今でも微かに残っている。
しかし、蓮の意識はまだここにある。
不意に、闇の中に小さな光が灯った。
それは、蛍の光のように弱々しく、しかし確かな温もりを持っていた。
『お兄ちゃん』
声が聞こえた。
鈴を転がすような、無邪気で明るい声。
蓮はその声の主を知っているはずだった。しかし、名前が思い出せない。顔も、輪郭も、全てが霧に包まれたように曖昧だった。
『お兄ちゃん、起きて』
光が少しずつ近づいてくる。
その光の中に、少女のシルエットが浮かび上がった。
「……誰だ?」
蓮が問いかけると、少女は悲しそうに微笑んだ。
『忘れちゃったの? 私のこと』
「……分からない。でも、お前を知っている気がする」
蓮は手を伸ばした。しかし、指先は少女のシルエットをすり抜けてしまう。
『私のことは忘れてもいいよ。でも、お兄ちゃん自身のことは忘れないで』
少女の声が、少しずつ遠ざかっていく。
『お兄ちゃんは、まだ終わってない。あいつを……ジンを止めて』
「待ってくれ! お前は誰なんだ!?」
蓮が叫んだ瞬間、少女のシルエットは弾け飛び、無数の光の粒子となって蓮の身体に降り注いだ。
その瞬間、蓮の脳裏に、失われたはずの記憶の欠片が濁流のように流れ込んできた。
一緒にケーキを食べた記憶。
公園で魔法の練習をした記憶。
そして……一年前のあの日、炎の中で泣き叫んでいた彼女の姿。
「結衣……!」
蓮は目を見開いた。
七
「……隊員! 雨宮隊員!」
耳元で、切羽詰まった声が聞こえる。
蓮がゆっくりと目を開けると、そこには涙で顔を濡らした結月の姿があった。
「柊……?」
「よかった……! 息を吹き返した……!」
結月は蓮の胸に顔を埋め、声を上げて泣き出した。普段の無表情な彼女からは想像もつかない、感情を剥き出しにした姿だった。
蓮は自分の身体を確認した。
ジンの「崩壊」を受けたはずの胸には、奇妙な幾何学模様の「式」が浮かび上がっていた。それは、蓮自身の「残響」の式とは違う、どこか温かく、優しい光を放っていた。
「これは……」
「分かりません。ジンがあなたに『崩壊』を放った直後、あなたの身体から凄まじい光が溢れ出し、崩壊の式を相殺したんです」
結月が涙を拭いながら説明する。
蓮は、闇の中で見た少女の光を思い出した。
あれは、結衣の残留思念だったのか。それとも、蓮自身の深層心理が生み出した幻だったのか。
どちらにせよ、蓮は生き延びた。
「ジンは……?」
蓮が身体を起こしながら尋ねると、結月は首を横に振った。
「逃げられました。あなたの身体から放たれた光に驚いたのか、カプセルごと空間転移で姿を消しました」
「……そうか」
蓮は拳を強く握りしめた。
またしても、ジンを取り逃がした。誘拐された若者たちも、救えなかった。
圧倒的な敗北感。
しかし、蓮の心の中には、以前のような絶望はなかった。
結衣の記憶が、少しだけ戻ってきたからだ。
代償によって失われたはずの記憶が、なぜ戻ったのかは分からない。しかし、結衣の「お兄ちゃんは、まだ終わってない」という言葉が、蓮の心に強く刻み込まれていた。
「柊。泣くのは後にしてくれ。まだ終わってない」
蓮が立ち上がると、結月は少しだけ驚いたような顔をした後、力強く頷いた。
「はい。……申し訳ありません、取り乱しました」
結月はいつもの無表情に戻ろうとしたが、その目元はまだ赤く腫れていた。
「お前の『絶対零度』、凄かったぞ。あれがなければ、俺は完全に死んでいた」
蓮が言うと、結月は少しだけ頬を染め、視線を逸らした。
「……あれは、無我夢中だっただけです。それに、代償でしばらく魔法が使えそうにありません」
結月の身体は、まだ小刻みに震えていた。極限の冷気を操った代償として、彼女の体温は危険なレベルまで低下しているのだろう。
蓮は自分の黒いコートを脱ぎ、結月の肩にかけた。
「……雨宮隊員?」
「少しは温まるだろ。帰るぞ」
蓮は結月に背を向け、廃工場の出口へと歩き出した。
結月はコートの襟を強く握りしめ、蓮の背中を見つめた。その瞳には、これまでにない複雑な感情が揺れ動いていた。
八
翌日。
対魔局のオフィスは、重苦しい沈黙に包まれていた。
港区の廃工場での戦闘結果は、上層部に報告された。ジンを取り逃がし、誘拐被害者も奪還できなかったことは、対魔局にとって大きな失態だった。
蓮は全身に包帯を巻いた状態で、紗綾のデスクの前に立っていた。
「……報告は以上です」
蓮が淡々と告げると、紗綾は深くため息をついた。
「黒崎ジンが自ら動き出し、空間転移で逃亡した。そして、誘拐された若者たちは未だ行方不明……。最悪の状況ね」
紗綾はこめかみを揉みながら言った。
「申し訳ありません。俺の力不足です」
「謝罪は不要よ。相手はノクスのリーダー。生きて帰ってきただけでも奇跡に近いわ」
紗綾は蓮の胸のあたりをじっと見つめた。
「報告書にあった、あなたの身体から放たれた『光』。あれは一体何なの?」
「……分かりません。ただ、あの光のおかげで、失われていた記憶の一部が戻りました」
蓮の言葉に、紗綾は驚きに目を見開いた。
「記憶が戻った? 魔法の代償が逆行したというの?」
「はい。理由は不明ですが」
紗綾はしばらく沈黙した後、真剣な表情で言った。
「雨宮。そのことは、上層部には伏せておきなさい」
「なぜですか?」
「代償の逆行なんて、前代未聞よ。もし上層部が知れば、あなたを実験台にしかねない。ノクスと同じようにね」
紗綾の言葉に、蓮は背筋が寒くなるのを感じた。
政府とノクスが裏で繋がっているという凛音の情報。もしそれが事実なら、対魔局の上層部も信用できない。
「分かりました。この件は、俺と柊、そして部隊長だけの秘密にします」
「ええ。……それと、柊の様子はどう?」
「体温低下の代償で、現在は医務室で絶対安静です。命に別状はありませんが、しばらくは現場に出られないでしょう」
「そう……。彼女には無理をさせたわね」
紗綾は少しだけ目を伏せた。
「雨宮。あなたはしばらく休養を取りなさい。身体の傷も癒えていないし、何より精神的な負担が大きすぎる」
「休んでいる暇はありません。ジンを追わなければ」
「焦っても結果は出ないわ。それに、ノクスも今回の件で警戒を強めているはず。次に動く時は、より大規模な計画を実行に移す時よ」
紗綾の言葉には、有無を言わせぬ説得力があった。
「……分かりました」
蓮は渋々頷き、紗綾のデスクを離れた。
オフィスを出ると、窓の外は今日も灰色の雲に覆われていた。
雨は上がっていたが、空に浮かぶ「式」の光は、どこか不気味に瞬いているように見えた。
蓮はポケットからスマートフォンを取り出し、凛音にメッセージを送った。
『ジンに逃げられた。だが、奴の目的の片鱗は見えた。引き続き、ノクスの拠点を洗ってくれ』
すぐに返信が来た。
『了解。蓮くんも無事でよかった。結月ちゃんのこと、ちゃんと看病してあげなよ?』
蓮は苦笑し、スマートフォンをポケットにしまった。
医務室に向かう廊下を歩きながら、蓮は自分の胸に手を当てた。
ジンの「崩壊」を防いだ、あの温かい光。そして、戻ってきた結衣の記憶。
(結衣……お前が守ってくれたのか?)
答えはない。
しかし、蓮の心の中には、確かな決意が宿っていた。
ジンを倒す。
ノクスの計画を阻止する。
そして、この狂った魔法適応社会の真実を暴き出す。
そのためなら、悪魔に魂を売ってでも力を手に入れてみせる。
蓮の瞳に、冷たく鋭い光が宿った。
彼の戦いは、新たな局面を迎えようとしていた。
【第3章終了】
【第3章登場魔法・用語解説】
「空間歪曲」:黒崎ジンが使用した魔法の一部。指定した空間の座標を歪め、物理的な攻撃を無効化したり、重力の方向を捻じ曲げたりする。蓮が「残響」で劣化コピーしたが、完全な制御はできていない。
「絶対零度」:柊結月が極限状態で「覚醒」した際に発動した魔法。通常の「氷結」を超え、空間そのものの熱運動を完全に停止させる。発動後は急激な体温低下を引き起こし、術者自身も凍死する危険性がある。
「代償の逆行」:蓮の身体に起きた未知の現象。魔法を使用することで失われたはずの記憶が、何らかの要因(結衣の残留思念?)によって一部回復した。魔法適応社会の常識を覆す現象であり、そのメカニズムは一切不明。
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