episode:葉山麟太郎
初めまして、葉山麟太郎です。葛西さんですね?
すみません、僕の方に合わせてもらってしまって。どうにも、大学教授って中々やることが多くて。
はは、いまどき、パソコンのメールと家電だけって中々いませんよね。僕くらいでしたか? すみません、面倒をお掛けして。
この喫茶店は僕の行きつけなんですよ。静かに、遠くの方でジャズが掛かっていて、心地が良いでしょう。
最近はカフェとかコーヒーショップとか、急いでる人のためのファストフード、ファストカフェが流行ってますが僕は昔ながらのこういうカフェが好きでね。
過去、文豪たちもこういったカフェでコーヒー一杯で長い時間議論をしていたのだろうと思うと愛しくなりますね。
こんにちは、真山さん。こちらは葛西さんです。今日はブレンドをいただけますか?
葛西さん、ここのブレンドはお勧めですよ。オーナーの真山さんが日本全国、世界中を旅して自分の鼻と口で選んだコーヒー豆を直接輸入しているんです。
真山さん、ブレンド二つで、お願いします。
それで、確か斎藤くんのことでしたね?
彼は、気難しい子でしたね。普段は穏やかなんですが、怒ると手が付けられないと言いますか。
滅多に怒るようなことは無かったですし、取っ組み合いの喧嘩なんかもすることはありませんでしたよ。
ただ……少しだけ鬱っぽいと言いますか。突然泣き出してしまったり、頭を抱えて喚いたりといった行動も多かったです。
ほら、彼は総合病院の跡取りだったじゃないですか。でも斎藤くん自身は医療よりも文学が好きで、本がとても好きだった。
そのことでご両親に何か、言われていたこともあったんじゃないですかね。
可哀想な子でしたよ。
いつも大きなリュックを背負っていて、彼の肩に肩紐が食いこんでいるんです。それに、痛くないのかと声を掛けたこともありました。
彼は決まって、どこかをぼうと見つめて「痛くないですよ、こんなの」と言っていましたね。
斎藤くんは、とても面白い視点を持っていました。
僕はゼミ以外に授業も受け持っていまして、そこで夏目漱石の『夢十夜』を取り扱ったんです。
何か、『夢十夜』の『第一夜』は有名なんですが、その他の『第二夜』から『第十夜』は中々取り上げる人もいませんから、僕はそれが残念でならないんですよね。
夏目漱石の『夢十夜』は、彼が執筆していた時の精神状態がよく分かる作品で、夏目漱石作品に入る、一番良い足がかりになる作品だと僕は思っています。
何より面白くて短いですしね。
ああ、失礼しました。
僕はM大学で近現代文学を教えているんです。この葉山麟太郎の麟太郎って、結構珍しい名前でしょう。
僕の祖父が近現代文学の……文豪、と言えるほど大衆に有名では無いんですが、その作家、武田麟太郎の偏愛的なファンでして、そこから僕の名を取ってるんですよ。
そんな祖父に感化されたのか、僕も近現代文学が大好きで。昔は文豪の小説を、万年筆で原稿用紙に書き写していましたね。
あれは楽しかった、いまでも時々やりたくなります。
ありがとうございます。
葛西さん、どうぞ飲んでみてください。ブラックでも、とても飲みやすいんですよ。アメリカンのように薄くなく、エスプレッソのように濃厚すぎることも無く、素晴らしい味です。
僕はここのコーヒーが好きなんですよ。でも、どうやら真山さんには跡継ぎがいらっしゃらないようで。
彼が亡くなったらこの喫茶店も終わりなのかと思うと、ある種の侘び寂びを感じますね。
ああ、すみません。
……斎藤くんは『夢十夜』の『第六夜』を読んだ時に言ったんですよ。
ああ、『第六夜』は鎌倉時代の仏師、“運慶”が護国寺で仁王像を彫っているのを見るという夢です。
それに、周囲の男たちが「あれは木の中に埋まっている仁王像を運慶が掘り起こしてるだけだ」と言うんです。
漱石は、その言葉を信じていくつもの木を彫って、しかしその中に仁王像は埋まっていなかった。それで締められる作品です。
その『第六夜』を読んだ斎藤くんは言いました。
彫る木を間違えたんでしょうね。と。
きっと漱石は他の作家の才能に嫉妬していてこんな夢を見たんだ、そして別の方向に進んでしまった。
作家の道に進めば、彼も運慶になれたのにと、斎藤くんは言っていました。
彼は、他者よりも文学を愛する子でしたね。
だからこそ人とぶつかってしまっていたのかもしれない。そう思うと彼の不器用さすら、愛しいですよね。
もしも彼が研究者になって、そして大学の教授になれば……彼はきっと、素晴らしい人になりますよ。あの見方は面白い。
何より、他者の解釈を決して批判しない子でした。彼は文学に愛された子ですよ、葛西さん。
素晴らしい生徒でした。
ですが、それは同時に彼の生きづらさも象徴しているんですよ。
彼にこの世界は、どれだけ生きづらいでしょうね。
すみません、葛西さん。僕はこれで。
これから少し、研究発表会がありまして。飛行機の時間があるんです。
斎藤くんのことを話せて良かった。
それでは、失礼します。またどこかで。




